石原延啓 ブログ

seeking deer man

nobuhiro ishihara blog 

ジャンパー先生とメタボリズムと土佐ノ海な週末

2012-01-20 21:33:04 | Weblog


先週の金曜日は久しぶりに美術館をハシゴ。
まず、汐留ミュージアムで考現学者(?)今和次郎展のオープニングへ。
今まで知らなかった人だが、デザインを勉強した後に考古学ならぬ、現代風俗の研究にハマって考現学なるものをつくった。
展示の中で関東大震災後にアーティスト仲間を集めて看板を描く会社を設立して街の復興に現場レベルでしたという説明を読んで、先の震災後のアーティスト・遠藤一郎君の活動を思い出した。時代を隔ててもアクティビストとしてのアーティストの本能的な活動に差異がないことを知り、新鮮な驚きだった。
ちなみに路上で人々を観察するにあたり、対象になる人たちに怪しまれないように(?)常にジャンパーを着用するようになったそうな。
学生食堂の茶碗の傷まで丁寧に調べて統計までとっているのが可笑しかった。

続いて六本木移動して森美術館へ。会期終了間際のメタボリズム展にかけ込む。
力の入った見応えのある展覧会。
都市は有機的に変化していくという日本の建築家たちによるムーブメントの特集なのだが、時は高度経済成長真っただ中の日本。
随所に見られる「昭和」のモダンはどことなく懐かしく、内容に目新しいものはなかったけれども、第二次大戦後の復興を背景とした「時代」のパワーに圧倒された。
かつて年長者から「あ~東京オリンピックを知らないんだ~」と言われ、「え~万博へ連れて行ってもらえなかったんだ?」と同情された世代の私だが、こういう視点で昭和を振り返ってみると感じることが多々ある。

1970年の大阪万博は昭和のモダニズムのピークだったと思うが、以前に作曲家の湯浅譲二さんが戦後に現れた各界のクリエイティブな才能が万博を境にどんどん商業主義へと取り込まれていったとお話していたのを思い出す。
図らずも田中角栄著作「列島改造論」が展示されていたけれど、建築家もまた都市計画やコミュニティーを真剣に考える立場の人は少数になり、箱もの行政やゼネコンデベロッパーへと取り込まれていったそうだ。

偶然に出口付近で館長の南条さんとお目にかかり上記のような内容の話をすると、
「万博以降に今までは商売にならなかったコンセプトやイメージやクリエイティビティなんかを扱う新しいビジネスが生まれたんだよ。電通なんかが巨大になったのもその後だよ。」おっしゃっる。
「それにしてもメタボリズムだなんだというけれど、最後に(岡本)太郎さんのアート(太陽の塔)が全部もってっちゃった」と私が言うと
「そうなんだよ。でも今の日本のアートがあのどでかい天井に穴を開けることが出来ると思うかい?残念ながら成熟しすぎた今の日本では無理だろうねえ。社会にまだまだ荒削りなパワーがある中国とかなら可能だろうけれども。」と嘆かれていた。
坂の上の雲じゃないけれども、もはや上を向いて歩いてばかりいられない時代を私たちは生きている。

付録の展示、ツァン キンワーの刺激的なテキストを使った映像のインスタレーションも文字というものが本来もっている「目で認識する」という機能を再認識するような展示で面白かった。

翌日は友人たちが横浜中華街で学生時代から続けている新年会に行くと元土佐ノ海の立川親方がいるではないか!
年に6場所取り組み90番は多すぎるんじゃないか?という私の質問に対して「横綱クラスの力士には消化相撲がおおすぎるかもしれませんね。あと、さすがに昔みたいに年に20日だけではファンから忘れられてしまう。年4場所で一場所20番くらい取るというのもありかもしれませんね。」という意見は新鮮だったわ~。
とにかく優しく賢くハンサム(顔が小さい)な親方でした。長年の相撲ファン、石原感激。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿