そこそこの放送作家・堀田 延が、そこそこ真面目に、そこそこ冗談を交えつつ、そこそこの頻度で記す、そこそこの映画のブログ。
人生そこそこでいいじゃない





予算300万のとんでもない傑作「カメラを止めるな!」
この映画についてこのブログに書くのは2度目になる。
前回の記事のあと、さらに渋谷と川崎で1回ずつ合計3回観て、この映画が「日本映画史上屈指の超傑作である」という確信に至った。

この映画を細かく因数分解していった結果、ダメな部分が「低予算に起因するチープさ」以外にひとつもないことを確認した。
つまり、いかんともしがたい物理的要因以外、この映画のマイナス部分はひとつもない。
まさに奇跡的な大傑作だ。
クチコミ効果で多くの観客が今映画館に押しかけていて、みんな「面白い」「笑った」「最高」などと述べていて、その状況だけでもう素晴らしいのだが、この映画の本当の価値を世の映画評論家たちはそろそろ本気で分析し、語り始めるべきではないだろうか。

いったい何がすごいのか?
ネットを始めさまざまなメディアで今いろんな人がいろいろと分析し始めている。
どれも納得の意見だし、僕も「ウンウン」と頷きながら読んだり聞いたりしている。
誰が観ても面白い、楽しい、感動出来るというエンターテイメントとしてあまりにも素晴らしい作品であるという厳然たる事実。
素晴らしい脚本、構成、アイディア、どれも的を射ている。
世界中で通用するであろう大傑作であることは間違いない。
僕はこの映画、もっともっと拡大していくし、世界中でこの先もっともっと評価されていくだろうと予言する。
そのぐらいこの映画は映画に革命を起こしている作品だと思う。

いったい何がすごいのか?
これは僕のあくまで個人的な意見だ。
正しいか正しくないかなんて分からない。
ただ、最初に観たときに僕はこの映画に「普通の映画とは明らかに違うなにか」を感じた。
「なにか」が宿っているという感じ。
「なにか」が普通の映画と違う。
実はその正体こそ、この映画の持つ革新部分の「核」だと思う。
そして僕はそれを「映画の既成概念からの逸脱とその共有」ではないかと思う。

映画とは、「虚構」だ。
1年間に世界でどれだけの数の映画が作られるのか知らない。
とんでもない数であることは間違いないだろう。
だけれど、世界中で無数に作られる映画の全ては、映画である以上、「虚構」である。
「虚構」は「作り話」と言い換えてもいいだろう。
観客は映画館に映画を見に行くとき、映画の作り手の語る「作り話」に(無意識に)身を委ねようと映画館に足を運んでいる。
映画という「大ウソ」に約2時間の間、「お付き合いする」ことを許容し、それに金を払い、映画を観ることで現実を忘れ、決して自分の人生では味わえない冒険やラブロマンスを体験し、恐怖や感動を味わい、ひとときの異次元空間にトリップする。
それが普通の「映画」だ。
映画とは、ウソだという前提を観客全員が共有し、それを楽しむ娯楽だ。

だがこの「カメラを止めるな!」は、「虚構」を飛び越えている。
それは何か?
計算され尽くし、プロの映画マンたちがプロの技術を作って緻密に作り上げてきた「(しょせん)虚構」に過ぎないあまたの映画とは違い、「カメラを止めるな!」で我々が観た冒頭37分のワンカットゾンビ映画は、その撮影を成功させた映画スタッフや役者たちが実際に「汗をかき」一発勝負の緊張感の中、「なしえた奇跡の成功」を画面の中に記録し、撮影現場の彼らの情熱をも画面の中に封じ込めたものになっているからだ。
つまり、「虚構」だったはずの映画が、「虚構」を飛び越え、現実のドキュメントとして立ち上がっているのがこの映画の第1幕なのだ。
それは「映画の映画」を作ったことによって図らずももたらされたのかも知れない。
そもそも映画の製作者は観客に対して大ウソをつき、観客は製作者に大ウソを見せられている……というのが今までの映画の概念だったが、映画を映画にしたことでその概念を飛び越え、ウソではない本物の努力のたまもの(としての映像)をこの映画の観客はまず冒頭に見せられ、そして観客はそれを本能的に本物だと感じ取る構造が立ち上がった。
そこに観客は「虚構」ではない「リアルの息吹」を感じ取る結果となる。
映画が現実世界とリンクし、映画の熱い作成過程を体感させられ、まるで自分たちが作った作品のような熱量を受け取り、この映画のスタッフ演者たちのサクセスストーリーをも映画の一部かのように共有する。
映画の冒頭の37分間で、「虚構」ではない努力の結晶をその情熱とともに観客が受け取るからこそ、その後の2幕、3幕で描かれる1幕目の伏線回収に、「虚構」にすぎなかったかつての映画では決して感じえない「本物のドキュメント」と「その裏側」を見たような一種の快感を覚えるのだ。

「虚構」をできるだけスマートな「虚構」として作り、その「虚構」の枠の中でいかに観客にリアリティを感じさせるかで今までの映画は戦ってきた。
だが、その既存の方程式を飛び越え、「虚構」ではない本物の血と汗と涙、スタッフたちの苦悩と努力を、この「カメラを止めるな!」という映画はストーリーのベースに敷いている。
それこそが観客たちを、今まで観たことのない興奮と爆笑と感動にいざなう発明装置となっているのではないか?
虚構である映画にリアルを持ち込んだ。
それは低予算という枷によりたまたま起きた偶然かも知れない。
だが、虚構にリアルを持ち込み、それをまず第1幕で打ち出し、その熱量をベースにその後この映画は最後まで突っ走った。
それこそ、あまたの他の映画と一線を画するこの映画の特殊な部分だと思う。
革新の核だと思う。
だから僕はこの映画を、映画に革命を起こした歴史に残る傑作だと思う。
シルベスタ・スタローンの「ロッキー」にいちばん似ているのかも知れない。
売れない役者だったスタローンが人生を賭け、一か八かで自ら脚本を書き、映画会社に売り込み、低予算を獲得し、そして自らの肉体を極限まで鍛え上げ酷使して作り上げた「ロッキー」の第1作。
あの映画の中で、リング上で戦っているロッキーは、「虚構」の映画の中のロッキーである以上に、現実世界のスタローン本人だった。
映画のシーンとはいえスタローンは全力で走り、全力で筋肉トレーニングし、地獄のような腹筋や腕立てをカメラ前で何度も行い、リング上で本気でアポロと殴り合った。
そしてそんな「虚構を越えたリアルな」姿を投影した作品こそ「ロッキー」という大ヒット映画だった。
あの映画も、「虚構」である映画の概念を逸脱し、観客がそこにリアル世界のスタローンの熱量を感じ取った作品だった。
それと同じなのではないかと思う。

この映画が持つなんとも言えないグルーブ感、客席の一体感。
この映画を作ったスタッフ、出ている役者たちに対して観客が思わず抱いてしまう愛おしさ。
愛すべき映画に出会ったという確信。
それら今起こっている現象全ての核は、この映画が「映画は虚構である」という今までの常識を飛び越え、「映画なのに現実世界の汗を感じる」という領域に至ったからなのだと、僕は思う。

あと何回観に行くのか分からない。
もっともっと評判になり、スーパー大ヒットして欲しい。
我が子のように応援している。
目指せ100億突破!
目指せアカデミー賞。
……本気である。

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