何かしてます。

 無職だって退屈してません。「何か」してます。「何か」ってなんだ?

思い出アーカイブス(高崎~独身時代前期)

2007年05月04日 15時16分18秒 | 思い出アーカイブス

 5月2日、たまたま映画「黄色い涙」を見た。人気グループ『嵐』を配した昭和38年(1963)のひと夏を時代背景にした青春物語だった。
 これをきっかけに私の『その時代』を思い返す気になり、その当時住んでいた住居を自転車で一回りした。驚いたことにほぼ当時のままで残っていた。

昭和38年(1963)3月に高校を卒業、すぐ就職し1年間の研修を終え、翌39年高崎に赴任した。そして満19歳8ヶ月から21歳7ヶ月までの約2年4ヶ月間、高崎で過ごした。

      
 「天神町の我が家」と呼んでいた貸家です。
 赴任した昭和39年4月から翌40年秋ころまで、独身の同僚5~6人と一緒に住み、共同生活をしていた。
● 39年4月下旬ころ、柔道の練習をしていて『肩鎖関節脱臼」の怪我、1ヶ月間実家に帰って治療
● 同年9月中旬ころ、交通事故で『右足首骨折』の怪我、3ヶ月の入院(昇給停止1回)
● 入院中、彼女ができた。
● 40年5月14日、親父が逝った。
● 同年夏ころ自損交通事故、高さ15メートルの崖から転落し全身打撲(軽傷)、ジープ1台を廃車。(戒告処分)
  (同年秋ころ、共同生活に飽きて転居を考える。)




 「3畳一間の間借り」の我が家です。(看板の付いている部分の一部屋)
 彼女が見つけてくれました。

 「3畳一間では人間は住めない。」ことが分かり、1~2週間で転居した。

      
  「4.5畳、共同便所のアパート」です。
 昭和40年秋後半から41年3月まで住んでいました。どのような経緯でこのアパートをみつけたか記憶にない。

● 41年2月、重大事故を惹き起こす。他人に傷害を負わせ、自分自身も怪我をして1ヶ月入院した。事故は新聞の全国版に載った。今なら間違いなく首になるほどの事故だった。(停職処分)

※ この後勤務先の独身寮に入り、彼女とも別れて同年8月渋川に転勤した。

  8年後に別れたはずの彼女と結婚して子供二人を育て上げ、偉くはなれなかったが(自分で言うのもなんだが)立派な職業人として定年退職を迎えて、現在に至っている。
    めでたし! めでたし・・・・・

      



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