日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「日本」と「日本人」は、世界的規模で進行中の「事実」と「歴史」の捏造を前にして、改めて「あの戦争」を巡る事実と歴史の捏造について再考すべきではあるまいかー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主

2022-04-10 | 日記

「日本」と「日本人」は、世界的規模で進行中の「事実」と「歴史」の捏造を前にして、改めて「あの戦争」を巡る事実と歴史の捏造について再考すべきではあるまいかー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉を巡る問題から接近するとき(続)

(最初に一言)の前に、の前の一言

抑圧や専制主義から自由と民主主義を守る、と言うと何か聞こえはいいのだが、その自由と民主主義を守るのは一体なぜなのか。それはその自由と民主主義という「礼節を知る」営為の「礼節」に関係する「衣食足る」の「衣食」を守らなければならないからではあるまいか。そして、それは結局のところ、「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係それ自体を守ることが、お金になるからに違いない。

ところで、この「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係を守るということは、ただその関係を守ればそれでいいということを意味しないのだ。すなわち、「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係をつくり出すためには、*換言すれば、それは[経済発展→民主主義の発展]の営為の関係をつくり出すということであるのだが、どうしてもそれと対極にある「衣食足りず礼節を知らず」の営為の関係と、さらにこれら二つの営為の関係の中間に位置する「衣食足りて・足りず礼節を知る・知らず」の営為の関係の三つの営為の関係が、共時態的関係として成立することが必要となるのである。

それを踏まえて言うとき、私たちが「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係を守るという場合は、これら三つの営為の関係を守ると言っているのだが、おそらくは、そんなことを普通の人は考えてもいないだろう。もう少しわかりやすく言えば、先進国というとき、そこには中進国と後進国との関係が共時態的関係としてセットにして語られていることを、思い浮かべればよいであろう。

**すなわち、ここでも、先進国がつくり出されるのと同時に、その先進国がつくり出される歩みの中で、それと関連・関係する形で、中進国と後進国が共時態的関係として、つくり出されるということであり、先進国、中進国、後進国が個々バラバラの歩みにおいて、つくり出されるということではないのだ。

これらの点を踏まえてさらに言うならば、私たちは「衣食足りて礼節を知る」営為の関係を手にするために、その礼節を知る営為が、例えば自由で民主主義だとしたとき、私たちはわざわざ、その対極に位置dする非・自由で非・民主主義な抑圧的権威主義的、専制主義的な「礼節を知らず」の営為の関係をつくり出しているということになるのだ。

換言すれば、専制主義という「礼節を知らず」の営為の関係は、自由な民主主義」という「礼節を知る」の営為の関係と二項対立的に、個々バラバラにつくり出されたのではなく、むしろ逆に、自由な民主主義という「礼節を知る」営為の関係をつくり出す際に、共時態的関係の中でつくり出されるということなのである。

これに関しては、私は拙著や拙、さらにはこのブログにおいて、繰り返し言及してきたので、もうこれ以上は深入りはしないが、そうした「礼節を知る」の営為の関係と「礼節を知らず」の営為の関係は、さらに[礼節を知る・知らず]の営為の関係とはもとより、「衣食足りて」の営為の関係、「衣食足りず」の営為の関係、「衣食足りて・足りず」の営為の関係とも相互に結び付けて考察することを忘れてはならない。

たとえば、売電が自由な民主主義を守れと叫ぶ際に、またEU諸国がロシアからの石油と天然ガスの輸入をやめようと訴える際に、こうした「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係と結び付けて考えることは、国際関係や国際政治におけるバランス感覚を保つうえで、大切なことである、と私はみている。ここで、急いで付言すれば、こうした話に、さらに覇権システムを結び付けて考察することを看過してはならない。


「宮仕え」という言葉があるが、私はそれを〈「システム」仕え〉と言い換えたいのだ。私の語る「システム」論からここまでの話を振り返るとき、B、C、Aのそれぞれのグループから構成される「システム」の中で、私たちは21世紀の今を生きているのだが、私たちは、たとえ私たちがB、やCやAの各々のグループにおいて生きているとしても、この「システム」の全体にに仕えているのだ。そして同時にまた、それぞれのグループが引き受けている営為の関係を担うことで仕えているのである。

こうした点を鑑みるとき、今のマス・メディアにより提供されている情報は、私には恐ろしく間違ったというか、故意に誤った情報を垂れ流し続けているとしか思われないのだ。だが、これも致し方ない。宮仕えならぬ、〈「システム」仕え〉なのだから。もっとも、それを認めた・断ったうえで言えば、物事を研究する者が、問い続けることをやめてしまった、そんな風景だけが目につくのはやはり物足りないのだ。


(最初に一言)の前に

昨日(2022,4,8)、久しぶりに記事を投稿したことで、少しは気分も楽になったようだ。だが、あまりにも面白くない空気が世界中を漂っているようで、正直なところ、何かものを書くのは気が引ける、そんな思いなのだ。それはそうなのだが、それ以上に、私は改めて自分の書いてきた拙著や拙論を見直してみたくなったのだ。もっとも、私はそれらの内容を自分の目で再確認することはできないし、音声で聞くという気にもなれない。ただ、ひたすら頭の中で見直すというか、想像に想像を重ねるだけなのだが。

これまでの拙文において、このブログ記事も含めて、私なりの「結論」やそれを踏まえた「対処の仕方」に関しては、いろいろな形で論究・論述してきた、と私はそれなりに納得してはいるのだが、それでも、なおできる限りの範囲において、見直すというか、問い直しの作業を、今しばらくは続けていきたいのである。。

昨日の記事でも指摘していたのだが、国際メディア機関とその下請けの役割を担っている日本のメディアから提供されるウクライナ危機を巡るロシアやウクライナに関する情報は、あまりにもバランスを失した内容に満ち溢れていることから、私の当面の問題は、どうやって私なりのバランス感覚を保つかということになる。

その場合、私の方法は、私の語る「システム」論から見た今後の世界の流れというか歩みに注目することである。それは、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)の図式で描かれる世界・セカイとその関係の歩みである。私の描く〈「システム」とその関係の歩み〉を前提として、今のウクライナ危機を介したロシアとウクライナ戦争の〈結末〉を見通すとき、少なくとも以下のように要約できるのではあるまいか。

すなわち、先のB、C、Aの関係からなる〈「システム」とその関係の歩み〉は、その戦争によって何らの影響も受けないということである。この「システム」の先頭に、つまりBの先頭に中国が位置するように、私の語る「システム」は最大の注意と配慮を怠らない。そのために、「米・中覇権連合」の更なる発展を、「システム」は心掛けている。

その関連から言えば、今回のロシアとウクライナ両国間の戦争は、Bにおける中国の位置取りのために、すなわち、「冷戦」崩壊以降から明らかとなってきたBにおける中国とロシアの配置関係を、元より、これも私の語る「システム」が、衰えたといえどもなお覇権国としてその役割を演じている米国を使ってそのようにさせたのだが、さらに固定化するために、使われている格好である。

私からすれば、日本と日本人は、これからもずっと注意しながら、このB、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉を見守り続けていく以外に道はない。なぜなら、日本の指導者たちは、この「システム」に対して何某かの抗う手立てなど考える能力も責任感も持ち合わせていないのは、これまでの日本政治の舵取りを見ても明らかであるからだ。それゆえ、国民は、とくに恵まれない立場に置かれている人々であるが、残念ながら、自己責任の覚悟でもって、自らの生き残りを心掛けるしか手立てはないと、覚悟しておく必要がある。

私がそれを踏まえて、今ここで提言できることは、目の前のウクライナ危機とそれに伴うロシアやウクライナに対する国際政治の動向に一喜一憂することに代えて、もう少し長いスパンでこの〈「システム」とその関係の歩み〉を見据えておいたほうがいい、ということだ。B、C、Aの関係から成る「システム」のAのグループ内において、日本と日本人は、さらなる地位と安全保障における能力というか自己決定権の力を喪失するのは必至となる。そこに、「金の成る木」としての「システム」が仕掛ける戦争・センソウが襲い掛かってくるだろう。

付言すれば、前回記事において、私は「あの戦争」以前の日本を、ロシアに譬えていたのだが、あの戦争以降の今日に至る日本はウクライナに譬えてもいいだろう。ウクライナと同様に、日本も覇権国の親分である米国の直接・間接の影響力の下に、否が応でも覇権システムの中で、いたずらに「敵」を増やすばかりではなかったろうか。米国からの圧力に抗うこともかなわず、「属国」状態に置かれてきた。こうした日米の関係史が、今後の日本と日本人にどのような災厄をもたらすか。その意味でも今のロシアとウクライナの関係は、他人事ではない。

私の語る「システム」は、「金の成る木」としての「システム」の「格差バネ」を、これからさらにフル稼働させるべく、長期に及ぶ戦争を仕掛けてくるとみた方がいい。パックス・ブリタニカからパックス・アメリカーナへと覇権のバトンが引き渡される際に、第1次世界大戦と第2次世界大戦の二つの大戦を経験したことを踏まえるとき、米国から中国へと覇権のバトンが引き渡される際にも、やはり同様の大戦が必要とされる、と私はみているし、これまでもそれについて論究してきた。

あまりにも悲しく愚かなことだが、「システム」の高度化のために、「システム」は、そうした戦争を、米国や英国といった歴代の覇権国とその指導者たちに、求めるのを躊躇しないのである。そしてこのAグループの両国がさらにフランスやオランダを誘い、またそこに日本も巻き込みながら、B、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉を盤石な形へと導いていくのだ。E・H・カーによる『危機の20年』を鑑みながら、私は以前のブログ記事で、21世紀における「危機の20年」を、カーの著作を批判的に考察しながら、数回に分けて論述したが、今がその危機の渦中にあるのは、否定できないだろう。

何度も言うのだが、そうした危機に対して、そこから抜け出す手立てに関して、私なりにこのブログでも語ってきた。勿論、それはダメモト論であるのは承知しているが、さすがに口惜しいのだ。今の日本政府のやっていることが、ますます私たちを聞きの渦中に追い込むばかりであり、何の打開策も打ち出せないのだから。

もっとも、それも仕方のないことだ。何よりも覇権システムという「親分ー子分」関係の中で、力のない日本と日本人なのだから。それに輪を加えて、国民が選んだ政権がそうしているのだから、しかも日本経済を牽引している「強者」がそれを支持しているのだから、もうどうにもならないだろう。野党については語る時間が惜しい。


(最初に一言)

なぜ日本と日本人は開国以降、「あの戦争」に敗北して米国の占領下におかれるまで、平和で自由な民主主義の国となることができなかったのだろうか。と同時に、自由な民主主義国家となった日本と日本人は、果たして幸せな道を歩むことができたのだろうか。


わからないことばかりである。〈平和で自由な民主主義国〉と言えば、それは聞こえはいいのだが、私のモデルを使って、それを言い表すならば、例の差別と排除の関係を前提とした仕組み(構造)を元にして初めて実現可能となるのだから、それほどありがたいものではないはずなのだ。

しかも、1970年代まではともかく、それ以降は、どんどんその内実は低度化していき、多くの国民の生活は苦しくなっていくばかりであるから、よそ様の国が専制主義で民主主義でないとことさら批判しても、それほど平和で自由な民主主義国である日本を誉めそやすそんな気持ちにはなれないはずなのだが。

それにしても、ウクライナをロシアと比較して自由で民主主義を実現した国だと持ち上げるのは、いかがなものであろうか。日本を引き合いに出すまでもなく、たとえ平和で自由な民主主義を体現する国家だとしても、その平和なり、自由なり、民主主義との主張は、大国の、覇権国の自由な民主主義の制限。・制約の中で許される自由であり、民主主義であるというのが実情ではなかろうか。

それに関連して、日本は属国であるとか半ば植民地状態に置かれているとか揶揄されているのだが、そこには、覇権システムと自由な民主主義の、換言すれば立憲主義の実現との関係が色濃く反映されているのではあるまいか。覇権システムを前提として実現される平和であり、自由であり、民主主義だということに他ならないのである。

それは別言すれば、ロシアの専制主義とか中国の専制主義を非難する自由な民主主義国家も、覇権システムを構成する一員としては、その覇権システムの、つまりは民主主義国であると同時に覇権国でもある「親分」による、「子分」である民主主義国に対する〈専制〉という制限・制約の下に置かれているという意味においては、何ら変わるところはない、と私はみているのだ。


(最後に一言)

今回の記事も、これまで私の語ってきた話を、ほんの少しだけ目線を変えながら、論じたものだが、今はこうして、私自身の気分の悪さというか、気の滅入った状態と向き合うしかないだろう。

 

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