ノーブル・ノーズの花の穴

麗しき本音のつぶや記
~月に1度ブログ~

川端康成の慎ましきエロス

2007-12-20 13:20:06 | 


「かの子撩乱」のブックレビューを探していたら、
ぽんぽ子さんのエントリーに目がとまった。

「眠れる美女」

「エロスだね。」「夜に読んでくり。」
という文に触発されて、さっそく図書館から借りてきた。

川端康成の作品は、全く読んだ事がないが、
唯一、かの子に優しかった作家だった気がして、気になっていたのだ。

嶽本野ばらの「ドロドロした性描写」に比べたら、
川端さんのは「慎ましいエロス」だと思う。

偶然にも最近、この作品を原作としたドイツ映画が上映されている。
雑誌に掲載されていた小さな写真が、白人の美女だったのには違和感があった。
この作品は、「和風の陰鬱さ」がいいと思うのだが…。

それにしても、あのラストは何だ?
美女との添い寝に通う江口老人に、何が起こるわけでもなく、
娘をあっせんしている「家の女」の正体もわからず…。

私は、美女3人目から飽きてしまった。
だって江口老人は、
「自分は他のオイボレとは違う。」と意気込みながらも、
触ってるだけで、それ以上の事はしないんだもん。(笑)

結局、何もできない江口老人=煮えきらない川端康成なのだろうか。
コメント (3)
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「情熱」という迷惑「かの子撩乱」

2007-12-20 11:35:21 | 


白塗りの厚化粧、派手な服。
岡本かの子の、その装いに私は、
今は亡き「帝人」社長夫人、大屋政子を思い浮べた。

デュポンのカラータイツがお気に入りだった彼女は、
自慢の脚を見せる為に、ミニをはいた。
その行動は、「帝人の株が下がる。」と陰口をたたかれた。
でも、親子ほど年の離れた夫は、
「似合うぞ。ゴルフの時はいて行け。」と恥じる事なく味方したそうだ。

妻の表現の全てを受け入れる一平の、かの子への愛にどこか似ている。

エピソード「かの子撩乱」

私はこの本を、瀬戸内さんが「かの子」を完全に小説化したものだと思っていた。
だがそうではなく、本人はもちろん、一族や周りの作家の言動が、
瀬戸内さんの冷静な分析によって補足されていたものだった。

そのエピソードによって、かの子の人となりが伝わってくる。
本人を知ってから作品を読むと、その意味が本当によくわかったりするものだ。
私にとっては、宮澤賢治がそうだった。

私は今後、かの子の作品を読む予定はないが(笑)、
かの子ファンなら、資料として読む価値はあるだろう。
文章の修飾が多いかの子の作品の引用は、多少読みにくかったりもするが、
もう一度、読み返してみたい気にさせる1冊だ。

気になるアイテム

一平の祖父の安五郎が、古道具屋から「木の魚」を買ってきた。
貧乏になってしまったので、それをながめながら酒を飲む事にしたのだった。

そんな安五郎から「お家再興」をたたきこまれた一平の父、竹次郎は、
その「木の魚」を持って旅に出る。
だが商売は浮き沈み激しく、
「木の魚」は、やがて一平の食膳にのせられるようになる。

祖父の執念の「木の魚」は、一平でなくてもゾッとするアイテムである。


かの子は、航海中の箱根丸の甲板で、
アフリカ土人(今ならこんな表現はできないよなぁ。)から
「毛皮」を売りつけられた。

彼女は、その毛皮でコートを作った。
だがそれを着ていると、何度も犬に襲われるので調べてみたら、
「犬の毛皮」をつぎ合わせたものだったと言う。
考えただけで、臭そうなアイテムだ。

この話は、かの子のお嬢様度がうかがい知れて、最も笑えた。

芸術家は「狂気」を装う

瀬戸内さんは、かの子の随筆を、「歌に比べて面白味がない。」と評しているが、
私は、随筆とは「ありのまま」を書くから、随筆と言うんじゃないかと思うのだ。
私信である太郎への手紙の中でも、
自分を「ボク」などと書いて稚拙ではあるが、
かの子の「作られていない」素直な気持ちが、よく出ていると思う。

なぜここで私が、かの子のフォローをするかと言えば、
文章好きと自負のある私が、かつて好きな男に宛てた感情的な私信を、
やはり「稚拙」と指摘された事があるからだ。
彼らの方が、よっぽど文がヘタなのに、
思うまま書いたが為に、そのように事を言われて、とてもくやしかった。

かの子は、「小説家」というより「芸術家」であると思う。
芸術家は、なぜ「変わり者」と思われてしまうのか。
あまりに純粋に、物事と対峙してしまうから(かえってマトモで)、
逃避したり、壊していかないと、堪えられないのではないか。
(神経衰弱という言葉が何度も出てくる。)
つまり「狂気のフリ」をしているかもしれないという事だ。
(パンクみたいなものか。)

「芸術は爆発だ!!」と目をひんむいていた岡本太郎だって、
幼少期から、こんなに老成していたのだ。
(この両親の元なら、そうならざるをえないか…。笑)

タイラント(暴君)か純粋か

元々私は、かの子が夫と暮らす家に、愛人を同居させていたという、
その奔放さに興味を持ち、この本を読んだ。
でも、かの子と周りの人間関係は、
私が想像していたようなスキャンダラスなものではなかった。
夫も愛人も、かの子の「秘書」と化して、
彼女を小説家として大成させる為にひたすらつくした、という感じだ。

だが、かの子ばかりが不倫をしていたわけではない。
結婚してまもなく、放蕩生活をして彼女を苦しめたのは、一平の方である。

貧しさのあまり、幼い太郎を相手に、
「あーあ、今に二人で巴里に行きませうね。シャンゼリゼーで馬車に乗りませうねぇ。」と、
うわ言を言わせるほど、かの子を絶望させた。
女のヒステリックさの陰には、男の身勝手さが隠れているものだ。

でもその一平が、こんなに有名な人だった事も知らなかったが、
こんなに財を成したという事に驚かされた。
裕福になれば、全て相殺されるというわけではないが、
お金があるという事が、自由の基本だと思う。

それにしても「不倫」とは、陰でコッソリするから、ときめくものであって、
こんなにオープンにしてしまったら、
恋愛としては、つまらなくなってしまう気がするのだが…。

かの子を苦手と思っていた、谷崎潤一郎の陰口。
似た感性を持つ、芥川龍之介とのぶつかり合い。
かの子を認めていた、川端康成の実直さ。

かの子をカリスマとして仰ぐか、ただの困ったオバさんと思うかは、
人によって大きく分かれる。

かの子の作品「河明り」より

川を遡るときは、人間をだんだん孤独にして行きますが、
川を下って行くと、人間は連れを欲し、
複数を欲して来るものです。


芸術は運命である。
一度モチーフに絡まれたが最後、
捨てようにも捨てられないのである。

私は「モチーフ」という言葉を、勝手に「恋する人」に置き換えてみた。
しんみり響いてくる。わかる気がする。

かの子はまるで、アニメの「おじゃる丸」のように、
周りを振り回しておきながらも、他人をしっかり観察している。

でも私は、かの子と友達にはなれないだろう。(笑)
それは私が同性で、彼女のタイラントを許容できないせいかもしれない。
あるいは、わかり過ぎて嫌なのかもしれない。

欲しいものは欲しい。そして表現したい。
私もそんな思いを、周囲に巻き散らしているように思う。
物事にこだわれば「おかしな奴」とみなされ、
過剰な表現は、その人を孤立させる。
満たされない悲しみこそが、内なる芸術を輝かせるのだとしても、

「情熱」とは、他人にとっては迷惑なものである。(笑)

それでも、かの子も瀬戸内さんも私も心の中で、

「恋をしないよりはマシ」

と、思っているに違いない。

コメント (2)
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