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Rioの話#6(最終話)

2020-06-01 | Rioの話
Rioの話#6(最終話)

RioはカナダのThe University of British Columbia(UBC)に行くことは行きましたが、2年もたたないうちに日本に戻ってきました。母親から、彼があまり勉強をしなかったこと、偏頭痛がひどく、授業に出れなかったことも大学を途中で辞めて帰ってきた理由の一部であった等のことを聞きました。正直、はっきりした理由は今でも分かりませんが、あの時、彼がカナダに残って頑張っていれば状況は全く違っていたと思います。人生は、幾つかある曲がり角で、どのような行動を取るのか、自身の意思の強さとそれに基づいて決めた内容によって大きく様変わりするものだと、つくづく感じさせられます。Rioは自身の意思の弱さと体調により、カナダで歩むべき道を外してしまったのが人生の大きな転機になったと思います(もちろん、肯定的な意味ではありません)。その後彼には再度カナダの大学へ戻る機会が巡ってきたわけですが、残念ながら、一度狂った歯車はなかなか元には戻らなかったようです。日本に戻ってきたRioは、今度は家庭内の問題に直面し、精神的にも安定しないまま、最終的には、前にお話したように、私のいる宮崎に10ヶ月ほど滞在し、私と共に暮らし、そして、カナダへ旅立つことになりました。

カナダへ再度戻ったRioの生活は、残念ながら安定していなかったようです。そして、一年を過ぎた頃でしょうか、私からその後の学費や生活費をカバーするだけの経済的支援を続けることができないことを告げられた彼は、自分でアルバイトをして生計を立て、カナダに残る決心をしました。正直、あの時もっと支援を続けることができていたら、あるいは、彼が日本に戻ることを決意しておればと、今も後悔の念はあります。しかしながら、そのときはどうしようもなく、仕方ないものと思い、彼が自分で頑張ってくれることを期待していました。今考えると、親として甘い考えを持っていたことは否定できません。

結果は過酷なものとなりました。時折お金を送ることはありましたが、めったに連絡がなかったRioは、いつの間にか欧米の闇の文化に飲み込まれていたことが後でわかりました。連絡はメールがほとんどで、メールがあった時は、私は精一杯、彼のことを想い、長いメールを書いて激励し続けました。返信は、その時々の苦悩や問題を書き綴り、そして私に対して感謝していること、また、なんとか現状を変えるよう頑張ってみることなどが書かれていました。それを信じるしかすべがなかった、というのは、私の自己弁護のような気がします。Rioはどん底の状態になり、どうしたらいいか、もうわからないと思ったのでしょう、渡航して初めて電話がありました。大学の私のオフィスに事務局から内線が入り、「よく聞こえなかったのですが、家族の者です…とか言っておられます。海外からみたいです。」繋がった電話に「もしもし…」と言うと、無言。今度は「Hello」と言うと、「Ah…Dad?」と蚊の鳴くような声が聞こえました。声を聞き「Rio? Are you there?」と言うと、「Yeah, it’s me…」という返事がやっと返ってきました。そこからは、どうしているのか、大丈夫か、と話をしようとしましたが、返ってくるのは、やはり蚊の鳴くような声で、聞き取れない中、鳴き声だけが聞こえてきました。今でもあの時のRioの声、咳き込むような鳴き声が忘れられません。何かに押しつぶされそうな、痛みにも似た感覚が伝わってきました。私も泣くのを精一杯押さえ、激励し、これからどうすればいいのかについて、私なりの考えを伝えました。私は彼に、すぐにカナダを出て、母国であるアメリカの戻って再度やり直すことを強く勧めました。そしてそのために必要なお金と当面の生活費をすぐに送ることを伝えました。Rioは私の提案に同意し、そうすると言って電話を切りました。

その後しばらくして、Rioは母親を頼って生まれ故郷であるイリノイ州に戻りました。しばらく再婚した母親のところに滞在し、アルバイトを見つけ、その後アメリカで多くの店を持つ、ステーキハウス紅花のシェフになりました。そのことを聞いた私は、ほっとしたとともに、これでRioは普通の、いわゆる、まっとうな人生を送ることができるものと大変うれしく思いました。その後、彼から鉄板焼きのところでナイフとへらをくるくる回すテクニックを練習する2、3分のビデオが送られてきました。素晴らしいテクニックでした。感動しました!また、その後、一度だけですが、彼がガールフレンドを紹介したいということでSkypeを使って話をしました。ガールフレンドの顔を見ることができ、また、彼が真剣に付き合っていると言っていたため、これからは安定した生活をすることができるものと安心していました。しかし…そのシェフの仕事がRioの背中を痛め、仕事ができなくなるばかりでなく、最後には耐えきれないほどの痛みを与えることになろうとは、知る由もありませんでした。それに輪をかけての新型コロナウィルス問題。仕事に復帰したくても働く場所が休業となり、働けない。また、尋常でない背中の痛みに襲われ、病院に行っても、医者からはその痛みは手の施しようがないと言われたとのこと。母親が後でガールフレンドから聞いたそうです。今回の事故は、背中の痛みに耐えかねて、それを緩和するために使ったドラッグが原因ですが、それに至る状況を知っておれば、何かできることがあったのではと思う反面、では、わかっていたら何ができたのだとうと考えると、その答えが出てきません。Rioがそのような状況を私に伝えなかったのは、きっと、私が何度も何度も、彼に絶対に手を出してはいけないと言っていたものを彼が理由は何であれ、使っていたことを知られたくなかったからだと思います。そう思うと、大変切ないです。

私の息子、Rio(Rio Justin Nishimura) は、両親がアメリカに行ったことで、アメリカで生を受け、その32年の人生をアメリカで閉じました。あれだけ可愛かった子供は、いつの間にか思春期を迎え、家庭での様々な問題に直面し、母国アメリカと親の国日本の文化の狭間で苦悩し、最終的には母国アメリカでその波乱万丈の人生を終えました。父親としては、すぐに、可哀相な人生を歩ませてしまったなと思い、彼の苦しい、さみしい様子だけが強く印象として残っており、申し訳なさだけで胸が張り裂ける想いでした。しかし、Rioの死後、母親が3年ほど一緒に暮らしていたガールフレンドと話をした時に、Rioがそのガールフレンドから愛されていたこと、また、Rioがウクレレを弾いていたこと、趣味でパンやお菓子を焼き、近所の人たちに集まりのときに笑顔でふるまっていたこと、多くの親しい友人がおり、その皆から好かれており、彼を嫌いと言う人など一人も知らないとガールフレンドが言っていたこと等を聞いた時、RioはRioなりに楽しい時を持ち、人生をそれなりに楽しんでいたんだなと知ることができました。何かほっとした気持ちになりました。私の知らなかった、明るく振る舞い、笑うRioを想像する時、心が少し軽くなる感じがしました。私はRioにメールを送る時には、常に最後に、Be kind to people and keep smiling!と言っていました。それを守ってくれたいたことを知り、とても嬉しく、また、他人から愛されたいたRioのことを、今本当に誇らしく思います。Thank you, Rio, for keeping the promiseと言ってやりたいと思います。ただ、私はもう一つ、彼にしつこく言っていたことがあります。それは、Stay well!でした。それは…残念ながら守ってくれなかったですね(笑)。

私はいつまでもRioの父親であり、その肉体は無くなっても、彼は私の中で生き続けます。すくなくとも私の命が続く間は。あとしばらくしたらまた会えるので、それを楽しみにしてこれからRioの分まで精一杯生きて行きたいと思います。それまでは、きっと先に行っている私の両親、彼のおじいちゃん、おばあちゃんが、彼のことをしっかり可愛がってくれていることと思います。三人、うまくやっていればいいのですが…(笑)。

長い間私の極めてプライベートな話に付き合っていただき、本当にありがとうございました。心より感謝いたします。今後はまた英語について、皆さんのお役に立つような話を書いていきますので、これからもよろしくお願いいたします。

本当にありがとうございました。Naoki Nishimura(深謝…)





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1 コメント

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Unknown (maki)
2021-03-06 09:40:44
accomodateのニュアンスを調べていたらこちらのブログへたどり着きました。
気まぐれに更新されているとのことですが、10年以上前から続けていらっしゃるのが分かり、最後の更新ページも拝読させて頂きました。
心痛いかばかりかと言葉もみつかりませんが、実体がなく意味を掴みずらいaccomodateのような何かが、西村さんを包んでくれていますようにとお祈りしております。
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