ISO成功法

ISOと継続的改善を両立させよう。ISOは継続的改善のための、基盤整備に役立つ。基盤整備と継続的改善のコツを整理したい。

二種類の誤差②

2007-07-31 | ISO外論
人には2種類いるらしい。
これは単なる遊びだからあまり気にしないで欲しいが、あわて者とぼんやり者である。
ものには「ばらつき」があるから、どの範囲のばらつきは正常でどこからが異常かの判断基準を決めなければならない。ばらつきは中心から離れるほど発生する確率が少なくなる統計的な「分布」として表せるから、どこからが異常と正常を分ける限界か決めておくと便利である。この線から内側は正常と判断し、外側は異常と判断しようと約束事を決めておく。異常と判断してもほんの少しの確率で正常のこともある。この確率を統計学者はアルファーで表した。一方、正常と判断しても異常のこともある。この確率はベータである。
このアルファーとベータをあわて者とぼんやり者と名付けた学者がいた。この両者の確率を少なくするように統計的に決められた線が「管理限界線」である。

「品質管理は管理図に始まり管理図に終わる」といわれているが、統計的に決められた「管理限界線」の入ったグラフを管理図と呼ぶ。
製造工程を管理する場合、人の気分に任せておくと、あわて者やぼんやり者の誤りをおかす。気分が変わる人の判断におどらされて、正しい判断のできないことがある。

品質管理の基本ができている組織の判断は合理的で多くの人の判断やベクトルが合う。
品質管理を知らない組織では、上の人の考えが通るから、上の人の能力が組織の能力になる。人が本当に判断すべきことに集中するため、誰でも判断できることは、品質管理を利用すべきである。
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二種類の誤差①

2007-07-30 | ISO外論
誤差をあえて2種類に分ける。
何かを2つに分けるのは比較するのに便利なので2つにわける
「分けることは解ること」という言葉があるが、東洋的分け方と西欧の二原論とは少し違うような気がする。
1960年代にアメリカのニューエイジに読まれた「禅とオートバイ修理技術」という本を思い出した。その本には「バターをナイフで切るように」何でも2つに分ける西欧流の考えを批判している。
日本流か東洋流か厳密には区別できないが、2つに分けて1つという禅の考えが統計的品質管理を深くした。

データには、ばらつきがある。真の値からの差、誤差があるから、ばらつきがある。
その誤差を意味ある誤差、組織的誤差と偶然的誤差に分ける。
例えば製造工程、機械により差があると技術的に考えるなら、機械別にデータを取ると、同一機械内でのばらつきは偶然的誤差によるものと解釈する。仮に偶然的誤差が大きい場合は機械別に分けたデータから何の情報もえられない。次ぎに考えることは、偶然的誤差の中に大きな組織的誤差が含まれていないか、検討することである。
このような試行錯誤を繰り返すことは普通するが、その試行錯誤をいかに効率的にするかを示したものが統計的品質管理の方法である。

データには、ばらつきがあるから、その中身を整理して、どの原因が誤差を大きくする原因か体系的に考えてみる必要がある。技術力のある人は原因を列挙する能力がある。過去の技術や目先にこだわると原因を決めつけはするが、真の原因を見つけるまで遠回りすることになる。

品質管理をする人は謙虚でなければならない。学ぶ心、創造性が大切である。
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品質とお金

2007-07-29 | ISO外論
海外にいる友人から、質問があった。
「顧客から要求される品質ギリギリの物を作るのが目的であり、要求以上の物を作っては損になる」
現地ではそのような考えが多い。これをどのように考えたらよいでしょうか。

1番目の答え
要求されるギリギリのものを作りたいなら、まず作るべきです。
頭で考えたことと実際の活動には大きな違いがあるということが理解できるはずです。
ギリギリのものを正しく作るのに技術が必要なことがわかるはずです。
またその技術を支える動機付けられた人の力はシステムで目的とした何倍もの力をだすはずです。

2番目の答えは、過去の日本における高度成長の一助となった品質管理のやりかたです。
日本では、「飽くなき品質の追求」と言う言葉があるように、要求以上の品質を作っても損はしない、かならず見返りがある(もとが取れる)という経験があります。信念と言ったらいいかも知れません。
トヨタの関連のある会社では「改善、改善、また改善」といって、留まることを知らない改善を繰り返していますが、これは改善という活動が利益に結びつくからです。

このようなことをどう理解してもらうかは、大変な努力が必要でしょう。
ヒューレット・パッカード社に“Think Big Start Small”言葉があります。深く考え身近なことから実行しようとでも解釈したらいいと思います。

「人は、成功の確信が得られないような計画を心に描き、情熱を燃やすことができた。そして、一つの考えのために身を捧げ、その信じ難いことに辿り着こうとして、懸命な努力を傾けたのである。そして最後には、そこに到達することができた。疑いもなくこれは人間の活動力の重要な源泉の一つであり、現実には程遠く、困難な、はるか離れた僅かな光を、情熱の炎に燃え上がらせることができるのである。」 オルテガ・イ・ガセット
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ツール開発の創造性

2007-07-28 | ISO外論
品質管理の草創期には品質管理の専門家はいなかった。各技術の専門家が集まりクレームのない製品をどのように作るか、必死に研究した。いまある問題の解決のためにどのような技術が必要か。現場の多くの人が間違いない作業をするためにどうしたらよいか。
これらの試行錯誤の結果、統計的品質管理のツールや現場向きの品質管理の7つ道具などが開発された。
これらのツールの中には、理論を勉強して誰でも使えるように手順化した手法や日本独自に開発した手法がある。
特性要因図や品質機能展開、実験計画法、品質工学などは日本で開発されたものである。

苦労して作ったツールも普及させる努力や活動がないと陽の目を見ない。
QC7つ道具はQCサークル活動により普及し、統計的品質管理はデミング賞で普及した。
ISOが審査制度で普及したのも同様である。

特にデミング賞は品質管理の成果のみでなく成果に結びつくプロセスにおける独自に開発された手法や管理方法が要求される。
人間、目標に向かって一生懸命のとき創造性が引き出される。
いい加減やことなかれ主義がまん延している時代には、何も生まれない。
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重点指向のためのツール

2007-07-27 | ISO外論
イタリアの経済学者パレートは富の大部分がごく少数の人に限定されているのを発見した。
縦軸に金額、横軸に人数をとりグラフにあらわすと、右から左下がりの2次曲線を描く。
少数の富める人と多数の貧しい人の分布が現れるわけである。これをパレートの「不平等
分布」と呼んだ。

このような現象は身近な多くの社会現象の中にもある。
不良や問題点の発生には「不平等分布」に似た傾向がある。
不良や問題点をその項目別、できれば原因別に発生頻度の高いものから並べてみると、ごく少数のものが全体を占めることが理解できる。重要な少数(バイタル・ヒュー)と取るに足らない小数(トリビアル・メニー)に分かれる。
これは、対策をとるものにとって非常に都合がいい。
手を打つべき重点が明確になっている。
まず、価値ある少数から手をつけ解決してから、次の価値ある少数を捜せばよい。
そのように体系的にすすめるのが品質管理である。

さて、最近の品質管理、重点指向が足りない。足りないというよりも忘れているか、知らない。無知であるから、問題が次々現れてどれから手をつけたらよいか、体系的に整理できてない。パレートの原則によれば、トリビアルな取るに足らない問題に気をとられ、価値ある重点がつかめてない。
基本がないのにシステム作りに走りすぎるからこんなことになる。
まず、正しく現状把握して、重点指向すべきである。
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対話の効用

2007-07-26 | ISO外論
ロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」の最後の文章は、「苦悩を通して歓喜に至る」でしめくくられている。第9の合唱を書いたシラーの詩である。
楽聖といわれたベートーヴェンと比較する気は毛頭ないが、苦悩の後には光が見えることがある。その光を歓喜にするのは努力をおいて他にない。

今日、聾話学校の高校生と話す機会があった。
話を口の動きから読み取る訓練が身に付いているからだろうか、あんな目で見られたのは久しぶりな気がする。純粋な赤ん坊からじっと見つめられ、自分の心を見透かされた気がする、そんな経験をした。

コミュニケイションが稀薄になっているのは、社内メールの普及で人の顔を正面から見ての会話が少なくなった影響がある。文字通りのフェイス ツー フェイスのコミュニケイションができなく、対話を忘れていることが多くなった。正面から向き合って、「我と汝」の対話ができないことは、自分を理解する機会が少なくなることを意味する。その結果、自分自身との対話も忘れ、反省する機会が少なくなった。

しばらく忘れられていた大切なものを思い起こす機会を与えてくれた、その高校生に心からの感謝をしたい。前日まで、人の顔を見ないコミュニケイションのため人と人の溝が増えるばかりで、出口が見えなかった悩みも解決の光が見えてきた。
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現状把握のツール

2007-07-25 | ISO外論
まず、どのような現状を把握したいかを考える。
現状をわかりやすくスケッチしたいのか、
問題点とその原因の関係を明確にしたいのか、
ばらつきを示したいのか
百聞は一見にしかずというので、デジカメで現物を写しても良いだろう。
どのような作業の結果、問題が発生しているのかを示すのなら、作業のフローチャートがあると理解し易い。
問題点という結果と原因の関係を特性要因図に示すのも良い。
問題点のデータをグラフ化すると、数字の羅列より説得力があるだろう。

このように、自分が何を誰に説明したいのかを良く考えて、現状把握すると良い。
少なくとも、問題とその背景を示すフローチャート、問題とその原因の関連を整理した特性要因図、データのグラフ、欠点ならそれがわかる写真など自分なりの現状把握のツールを決めておくとよい。
大切なことは、新しい発見ができるような現状把握がのぞましい。
現状把握の段階で解決の糸口が見つかることも多い。
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ばらつきの中に潜む真実

2007-07-24 | ISO外論
何が問題かはわかるが、問題の原因は何かわからないことが多い。
原因がわからないから問題なのだろう。
悩みを考えてみればよくわかる。
悩みから抜け出す出口がわからないから、悩むわけである。
そのような時は忘れるにかぎる。忘れても、繰り返しでてくる悩みは本質的悩みである。
そのような時には逃げずに考えるべきだ。
こんなことを、トルストイが言っていた。

品質問題も同じような傾向がある。
日常あまりにも問題が多いため、ぼんやりと見過ごすことが多い。
気がつく頃には、慢性的問題になっている。
手がつけられなくなってから、問題解決屋が登場する。
問題解決屋は気が短いせいか、あわてものが多い。
じっくり問題に取組むべきところをあわてて解決しようとするから、問題が解決できない。

従来の経験では解けない問題は新しい方法を使って問題に取組んだほうがよいことが多い。
この方法の一つに統計的方法がある。
この方法の良いところは、従来の技術と対話しながら問題を解くことである。
大工さんの道具箱の中を見たことがあるだろうか、使いこなされた道具には美しさがある。
今回から、統計的ツールについてまとめていきたい。
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食の報道に思う

2007-07-23 | ISO外論

自転車でよく通る農道の両側は無農薬の畑になっている。
夕方に通るとその一体は虫が多く顔にあたる。当然虫のことだから、時間帯、天候により出没する数は違う。ただ、無農薬の畑とそうでない畑では明らかに顔に当たる虫の数が違うように思う。
両方の畑の作物を取り農薬についての精密な分析をしたら、明らかに差が出る筈だ。
分析した数値を見て問題にする場合、人間にどう影響するかを調べておくことも大切である。そのような前提がなく全て問題としても解決が難しい。

人間に対する影響に2種類ある。人間が直接影響を受けるものと、生物連鎖の影響がある。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、後者の危機に付いて警告を発した書物である。
ある日、突然鳥の声の聞こえない春がくるというのは、なんとも不気味である。農道を自転車で走りながら、顔にぶつかる虫の感触を懐かしむようになったら、危機がかなり進行している証拠である。

さて、農薬の危険を評価するとき、人間に対する直接的評価のみでは、すでに不十分なほどに、汚染は進行している。
最近、中国の食の有害性が話題になっているが、日本にも同様のことがある。この対策が十分取れてない段階での他国の中傷は問題解決を遅らせるばかりである。
環境は地球全体に問題を捉えることの重要性を教えてくれたはずである。
人間の意識の進歩が最大の課題である。

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集中について

2007-07-22 | ISO外論
体を限界まで使った時に集中について考えることができる。
ほんの一瞬であろうが集中できれば、本質を見ることが出来るというのが、自分の経験から掴んだことである。なぜそうなのかはわかっていない。

今日、仲間と琵琶湖のドラゴンボートの競技に出た。
10人がただ夢中になって竜の飾りのついたボートを300メートルのコースでスピードを競うだけのことであるが、150秒のその間に集中力が途切れて、全員の漕ぐ力が意識できなくなる。大抵は順位が気になり相手のボートを見ているときスピードが落ちる。

以前、ヨットのコーチに人間の集中力はオリンピックの選手クラスでも2分がいいところというのを聞いたことがある。470級の競技艇のスキッパーは舵をとりセールを一番いい状態に風を受けるように、ロープ(シートというが)を調節する。集中力がないとこの動作がばらばらになり、自分が何をしているかわからなくなる。逆に集中している時は風を味方につけ、自分が何をすればよいか完全に把握できている。
ただし、このような状態を経験するには、限界まで練習しないとならない。

集中するのは難しい。自分には集中力があるのだろうかと考えてしまう。
夢中になって繰り返すことで、集中する一瞬がくることがある。何も考えてない無の瞬間かもしれない。そのようになるまで集中できる自分でありたいと思う。
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