弔辞

2007年04月18日 | Weblog
2007年、4月17日は私にとって生涯忘れえぬ日になってしまいました。日本の、いや、世界の民主主義と言論の自由と平和への祈りが明らかに後退した日と言えるでしょう。現職の長崎市長であり、また、再選に向けて選挙活動中であった伊藤一長さんが、広域暴力団山口組の某何がしかの、凶弾に倒れ、お亡くなりになりました。選挙遊説を終え、事務所に帰る途上、伊藤さんに背後から2発もの銃弾をあびせる、という真に卑劣、かつ残忍な凶行と断ぜざるを得ません。

故人は12年前の初当選時より、当地長崎市の行政の長として、誠実にその任にあたられてきました。経験豊富なベテランとしての行政手腕を、当地の市民、住民が信頼してきました。中でも特筆すべきは、先の大戦により原子爆弾の被害を蒙った人類の悲劇の地、長崎の代表者としての、その精力的な活動、発言は日本中、世界中の人々が刮目すべきものでした。長崎では原子爆弾により10万人とも言われる方々がその犠牲になっております。
私は故人の衣鉢を継ぎ、日本が率先して、世界の軍縮、核兵器廃絶の先頭に立つべきとの意思を改めて決意しました。核兵器をはじめ、ありとあらゆる兵器は人々の対立をあおり、言論による解決、理性による政治の対極の存在であります。対立から平和は得られません。敵か味方かの単純な二項思想からは何の建設的な哲学も、人類の進歩も得られません。かつて、当地において被爆した医学博士永井隆氏は以下のように述べられています。己の如く人を愛せよ。この言葉は人と人が分断し、憎しみ合う世情に慈雨のように降りかかります。私たち、人間は過去にどういう過ちを犯したのか。過去から何を学ばなければならないのか。今現在も日本の内外におられる原爆症の方々に対する政府保障、戦地において苦難の人生を歩まねばならなかった元慰安婦の方々に対する政府による新たな謝罪と基金の設立、言論の自由、民主主義を瑕疵する国会における強行採決に対する全面的な反省と撤回をここに約束します。

また、永井博士はかつて「新しき朝の光のさしそむる/荒れ野に響け長崎の鐘」と詠われました。4月17日、長崎の地は言論の自由、民主主義、平和への願いの荒れ野になりました。しかし、新しき朝は必ず来ます。その先頭に私たち政治家が立たねばなりません。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

日本国憲法前文の一節をもって故人に対する弔辞の締めくくりといたします。

                     4月某日 内閣総理大臣 安倍晋三

な~~~~~んて、弔辞は壷三は絶対読まねえだろうな。
「うちゅくしいくに」「わたしのないかく」 ケッ!!