読書な日々

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『音楽学を学ぶ人のために』

2009年07月27日 | 人文科学系
根岸/三浦編『音楽学を学ぶ人のために』(世界思想社、2004年)

このシリーズはこれからいろんな分野を専門的に勉強・研究していこうという学生にとって俯瞰的な視点からの見取り図みたいなものを提供していこうという主旨から編集されているようだが、私のように音楽学を専門に勉強してきたわけではないけれども必要に迫られてあっちをかじりこっちを眺めてきた人間にとっては、なかなか面白いものだった。

といっても西洋古代の音楽論からポップ音楽までを論じているそれぞれの章を全部読む必要はなく、興味に引かれて、つまみ食いをしてもいいようにできているので、これまた便利だ。面白かったものをピックアップして紹介しておく。

Ⅱ-3.岡田暁生「オペラと効果の美学」
 やはり基本的に面白い視点をもって音楽を見ている人の書くものは、視点がぶれないので、どれを読んでも面白い。たとえば、内田樹の書くものがそうだし、水林章のものがそうだ。そしてこの岡田暁生の書くものも、面白い。

 ここではオペラは今日のようにしーんと静まり返ったホールで熟視・静聴されるものではなくて、総合娯楽施設であったオペラ座でざわざわがやがやという喧騒のなか、しかもみんな食事を取るものもあれば博打をやっているものもある、あるいはナンパをしているものさえもいるような状況で見られるということを前提に作られており、いかに見るものの興味を引くか、どこで聴衆の心をひきつけ聴かせるかということを考えて書かれている、つまりオペラ詩学の根本原理は「舞台効果」なのだから、そういうものとして台本を分析すべきだし、楽曲分析も同じだというのが岡田の論旨だ。

 もちろん私はこれに全面的に賛成するわけではないけれども、少なくとも18世紀や19世紀中ぐらいまでのイタリア・オペラにたいしては有効な視点だろうと思う。いままでこんなことを音楽学をタイトルにもつ本の中で言った人はいなかっただろう。本当に、深く考えている人というのはときに驚くようなことを言うから目が話せない。

Ⅲ-6.渡辺裕「《春の海》はなぜ「日本的」なのか」
 この論文はこの本の中で最高の面白さをもっている。いつも正月になるとテレビから流れてくる宮城道雄の《春の海》―琴と尺八で演奏されて、新春のイメージになっている、あの曲が1929年(昭和4年)にできたときの一般の受け止めかたとの違いから、現在の私たちがこの曲に感じる「日本的なもの」というのが実は戦後になって作られてきたものだということを明らかにして、音楽がもつ社会性の研究の重要性を紹介するものである。

 この曲は作曲されたときには、「洋楽化」を推進しようとする「新日本音楽」の一員であった宮城道雄がまさに西洋風なものとして作ったので、当時の批評でも「非常に洋楽風」だとか「ドビュッシー風」だと見られていた。それで当時はいろんな楽器で録音されており、もちろんバイオリンやオーケストラなども含まれる。著者の渡辺が問題にするのはそういうことではなくて、この曲に非常な「日本らしさ」を感じる私たち現代人が、洋楽風とみなしていた当時の人々を遅れていると暗に「勝利者」の立場から見ているということである。

「こうして、われわれが論じるべき問題の位相そのものが完全に変わってしまう。今のわれわれの「伝統」観自体が価値観の不断の変化の歴史の一断面にすぎないことへの認識を通して、われわれは自らのうちに、たままた今支配的になっているにすぎない価値観を無批判的に絶対的・普遍的なものへと横滑りさせ、すべての音楽の価値を判断してしまおうとする「勝利者」のまなざしを見出すことになる。」(p.269)

 また今日の聴衆が《春の海》を「日本的」なものとして聴くとすればそれはこの曲に「本質」としてそのような価値があるからだという主張も、この著者によって否定される。宮城の同時代人がこの曲を洋楽的だとかドビュッシー風と考えたのたいして、私たちが同じ曲を日本の伝統的なものに根ざしていると見るのは、「本質」が楽曲自体にあるのではなくて、さまざまな条件の関数として「本質」がたち現れているのだといういうことになる。

 音楽の研究もなかなか面白い境界に入りつつあると思う。

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