読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「敵意ある言葉」

2007年10月03日 | 現代フランス小説
Amelie Nothomb, Les Catailinaires, Albin Michel, 1995, LP.no.14170
アメリー・ノトン『敵意ある言葉』(アルバン・ミシェル、1995年)

日本の現代小説がフランス語に翻訳されてよく読まれているらしい。去年フランスに行ったときにギャラリーラファイエットの地下の書店で桐野夏生の「OUT」を見つけたときには、こんな小説を読んだらフランスの読者は度肝を抜かれるだろうなと思った。

だいたいにフランスの小説というのは長い伝統に拘束されているせいかなんか知らないが、つまらないものが多い。それに比べると日本の現代小説は編集者の目が高いからか、読者の要求が強いからかしらないが、レベルが高いと思う。読ませる努力があちこちに張り巡らされているから、サスペンスでもないのに、はらはらどきどきしながら夢中になって読んでしまう。

他方フランスの現代小説で日本に翻訳されている作品なんか、日本の読者はだれも見向きもしないだろう。フィリップ・ボーサンだのアンナ・ガバルタだのジャン・エシュノーズだの、退屈な小説ばかり翻訳していないで、もっと面白いものを翻訳しろよと言いたくなる

そうした相関図で見ると、アメリー・ノトンの小説はどちらかというと日本的である、というか日本人作家たちの範疇にくくることが出来そうだ。以前読んだ「驚愕と震え」とか「愛のかけっこ」だとか、展開の面白さにひっぱられて最後まで読んでしまう。この「敵意ある言葉たち」という小説もそうだ。

高校で古典語(古代ギリシャ語とラテン語)を教えていたエミールは43年連れ添っているジュリエットとともに、定年退職してモーヴの奥にある森野のなかの一軒家を買って引っ越してきた。10歳のときから「結婚」して「夫婦の関係」にあるエミールとジュリエットは二人だけで生きることができる類まれな夫婦で、もう世間とは離れたところで残りの時間を過ごそうと考えたのだ。

ところが彼らが買った一軒家のすぐ近くにもう一軒人の住んでいる家がある。彼らが引越しをしてきた次の日の午後4時に突然その隣人がやってきて、あいさつもほどほどに中に招き入れると、肘掛け椅子に腰を据えて居座ったのだ。OuiとNonしか言わないこの不気味な隣人に二人は社交的に振舞う。6時になると帰っていった。だが次の日にも4時になるとやってくる。そして毎日決まったように4時になると隣人のノックの音。

ある日ジュリエットがしんどくて二階の寝室で寝ているのでエミールもドアがノックされても出なかった。するとこの隣人パラメード・ベルナルダンは今にもドアが壊れそうなほどの力でノックし続けるのだった。と、ここまでくると、まるで映画「シャイニング」の恐怖感、そのうちこの隣人とのあいだに血なまぐさい殺人劇が起きるのではと、訳もなくハラハラする。

この隣人は妻のベルナデットと一緒に暮らしていると言っていたので、二人は夫婦を夕食に招待する。そしてやってきたのは、身体障害と精神障害をもった女性だった。45年間一緒に暮らしているとパラメードは説明するのだが、妻はいわば監禁されたような生活をしており、パラメードは医者といいながら仕事はまったくせず、生きる希望もなくして、毎日おびただしい数の時計に囲まれて暮らしているのだった。

この隣人にどう付き合うかで40数年間一心同体のような夫婦だったエミールとジュリエットのあいだに亀裂が生じる。ある夜パラメードが車の排気ガスを吸って自殺をはかるも、エミールが発見して救急車を呼び、一命を助ける。戻ってきたパラメードはエミールに助けられたことで敵意をあらわにする。そしてついにエミールは偽装殺人を行って、パラメードが自殺したように見せかける。何も知らないジュリエットはベルナデットを引き取り、彼女の世話をする。

舞台となっているモーヴというところがどの辺にあるのか知らないが、フランスには奥深い森がたくさん残っている。雪降る1月から花の咲き乱れる4月5月をへて夏へと小説のときは流れる。人間、抜け殻のようになっても、また食べる喜び、美しいものを見る喜びがあるうちは、生きていけるものなのだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする