No. 1206 コロナ罰則 実効性は?(『朝日』1月19日)
No. 1205 鼻だしマスクはカンニング?(『朝日』1月18日)
大学入試共通試験会場でマスクから鼻を出していた受験生を不正行為として成績を無効とした模様だ。コロナウイルス感染予防にはマスクの正しい装着の仕方ではないが、学力試験とは直接関係は無い筈だ。謝ったマスク装着が試験遂行に著しく障碍となると言うなら、別の手立てが考えられるのではなかろうか。予めマスクの正しい着用の無のい場合は不正行為と看做す旨の周知がなされていたとしても、別室受験の用意はなされていたと思われるし、また、同一試験場内でも席の移し替えなどと手立ては可能であったと考えられる。鼻だしマスクは試験の不正行為で成績無効と言うのは一種の脅迫で、何が何でも言うことを聞かせようと言う強権発動だ。
試験監督者から何らかの注意が重ねてなされたものと思うが、注意に従わず抵抗する何らかの理由があったものと思う。鼻だしマスクが即成績無効は飛躍であり、鼻だしマスクは試験監督の指示に従わないmisdemeanorとして会場から排除する方が理屈に一貫性があると思われる。
No. 1204 夫婦の姓(『朝日』1月17日)
日本で戸籍が作成されたのは大化改新から平安時代末までと明治時代以降の数百年だけで、日本古来の伝統と言われるものが実は明治政府の強力な義務教育推進の結果と考えるのが妥当と言えるものが数多くある。戸籍もその一つだろう。
民法の規定で明治以来夫婦同姓と定められてきた。ここへきて夫婦別性の賛否の議論が賑やかになってきているが、過去の歴史的事実の誤認で意見を述べる向きがかなり多いように思われる。その結果、議論がかみ合わなくて不毛な経過を辿ることが多いようだ。今一つ不毛となる原因の一つに、自己の主張の正当性に普遍性ありとするかのごとき言説だ。要するに多様性を認めない主張なのだ。往来を行く物売りの声は我慢できても、他を認めない様な主張は耐えられない。議論が噛み合う共通の土俵作りが切望される。
No. 1203 コロナ患者受け入れを迫る(『朝日』1月16日)
コロナ重症者は24時間体制で看護が必要だ。小規模医療機関ではスタッフ不足で受け容れはまず不可能だろう。ベッドが少なくとも数百床規模の病院でないと受け容れる余裕は無いだろう。然し、私立病院は基本的には私企業であり、経営が成り立たなくなる様な医療サービスは出来ない。有り体に言って、儲かるならコロナ患者を受け容れることに吝かではないだろう。充分な財政的支援が無い限り、現状のままでの受け容れは考えられないだろう。
現政権はコロナ病床増勧告を拒否したり、入院措置に従わない場合には何らかの罰則を考えているようだが、私企業や個人を国家が罰則を背景に国家の意思に従わせようとするのは嘗ての日本の遣り方を彷彿とさせるもので、極めて危険なものと言えよう。官邸が官僚を意のままに従わせるのと同じように民間を扱うのは許されるものではない。
私立の医療機関がコロナに充分に立ち向かえるような支援を行なった後に罰則を用意するのなら順当と言えるが、罰則が先行するのは本末転倒、順序が逆だ。
No. 1202 先住民との共存?(『朝日』1月15日)
ウイルスは人類の発生以前からこの地球上に存在していたと聞く。人類の方が新参者と言うことなのだろう。現在の我々の生活に有害だからと言って彼らを撲滅することは不可能なようだ。いや、彼らを否定することは却って有害と考えた方が妥当らしい。つまり共存(共栄)を図るのが賢明と言うことのようだ。
ところで、現政権のコロナ蔓延対策は各方面からも批判されて来たように、行き当たりばったりで、責任逃れの弥縫策に汲々とする木片役人のようだ。終息へ向けての確りとした工程表が作れていない。感染者数は増大するばかり、自分の頭で考えて、出来ることに集中するほかない。頼れそうな工程表が出来るのをじっと待つのみだ。
No. 1201 「後手」払拭へ政権躍起(『朝日』1月14日)
前回No.1200で書いた通り、複数の県知事から尻を叩かれてコロナ対策の手を打っている官邸の体たらくが手に取るように紙面からも窺える。総じて、各県の知事と官邸との間の理解の仕方は一様ではないようだ。ある県の要請には応えようとしない一方、他の県は官邸から一方的に宣言の範囲に取り込んで官邸の独自性を示そうとしている。これは最早官邸と県知事連との政治騒動だ。とんだコロナ禍だ。否、コロナ騒動だ。
暫く成り行きを刮目して見続けてみようと考える次第。
No. 1200 緊急事態 拡大(『朝日』1月13日)
首都圏1都3県に緊急事態宣言、官邸は1カ月で感染拡大を止めて見せると豪語したが、収束はおろか、拡大は止まらずだ。夙に、対策は後手後手だと批判されてきたが、大阪、京都、兵庫3県からの緊急事態宣言要請では済まされず、首都圏への宣言から1週間足らずで一挙に11都府県に拡大せざるを得ない事態に立ち至っている訳だ。経済の停滞を一番懸念している模様だが、危機管理対策は一種の外科手術、対策の小出しでは成功は覚束ない。
五輪開催もコロナ征服達成のファンファーレにと考えている模様だが、7月開催にはその準備の始まる3月頃には明確なコロナ終息の兆候が見えなければ、海外からの五輪参加も危ぶまれる。現に、海外のメダリストの中には、今年は中止して24年に東京開催をと主張する人も出ているのだ。五輪に廻す金を、今年は10年前の災害復興も完全に終わっておらず、現時点でも困窮している被災地へ振り向けた方が内閣支持率の急降下を止める特効薬になるのではなかろうか。
No. 1199 ‘祝コロナ成人’(『朝日』1月12日)
今後何かにつけて‘コロナ’付きで語られる世代となろう。‘祝’を付すのは躊躇われるが、敢えて付した次第。
昨日11日は鏡開き、古くは正月に甲冑に供えた具足餅を食する祝いの日だ。成人式も嘗ては式後に羽目を外す新成人のニュにースがメディアに登場したが、近頃は大人しくなったのであろうか、そんな野暮な話は目にしないようだ。目に付くのは、判で押したように振り袖姿に真白な襟巻姿のお嬢さん方の出で立ちだ。大学の卒業式の光景と全く同じ、チト芸がないようにも思えるのだが。
コロナ禍で、各自治体が式典の持ち方で様ざまに工夫を凝らしているようだが、主催者側が新成人の何を祝うのか、彼らに何を期待しているのか、紙面からは基本的な所が見えてこない。聊か寂しい。
No. 1198 3府県の要請に「数日 状況をみる」(『朝日』1月11日)
大阪、京都、兵庫からの緊急事態要請に専門家らの分析結果を待ってから判断するそうだが、数日様子見のうちにまた後手を踏む懸念が拭えない。首相の記者会見にはしばしば感染症対策の医療専門家が同席するようだが、専門家の諮問を充分に咀嚼してから政策実行の決断は政治家が行うもの、その場に専門家は不要の筈。専門家同席は政治家の責任回避の方便としか思えないのだ。政策実行の判断、決断が出来ない様では政治家の資質に疑問符が付く。問題が生じた時には前例に従って遺漏の無い様に取り計らって済むのは事務担当の‘木片役人’クラスのすること、人の上に立つ人間のすることではない。政治の世界には前例の無い事などごく当たり前に出来する筈、的確な決断を下すのが政治家に求められる資質だろう。