『宗教と生命 激動する世界と宗教』(池上 彰, 佐藤 優, 松岡 正剛, 安藤 泰至, 山川 宏著)に『生命操作時代における「いのち」―いのちから医療と宗教を問う』を執筆されています。次は医療が問われている問題です。以下転載です。
まずは体外受精の話をしましょう。
‥‥‥アメリカでは頭のいい人の精子ばかり集めた精子バンクがあります。独身の女性がそれを買い、人工授精をして子どもを産むことが可能です。不妊の人以外にも、様々な形で利用できます。
これは案外知られていませんが、いまでも体外受精の成功率はそれほど高くありません。せいぜい20%ぐらいです。体外受精をする人、特に女性の場合は、身体にも心にも経済的にも大きな負担がかかります。長い人であれば、20年ほど続けている場合もあり、最終的には諦めざるを得ないことも多いのです。
‥‥‥それは人を幸せにするよりは、諦められない怖さを、私たちに生んでいるわけです。欲望だけが刺激されている。
現在の生命操作システムや、それに付随する言説のシステムは、二つのベクトルを持っていると思います。ひとつは、A死なせないベクトル(不死のベクトル)。もうひとつは、B死なせるベクトルです。このBの部分が十分認識されていないことが多いのではないか。
Aの揚合は割と単純です。たとえば私たちの欲望を様々な形で煽って、技術を推進させていく。病気の大を健康に近づける「治療」とは異なって、健康な人の能力をより高めるような介入を「エンハンスメント」と言いますが、方向性は同じです。より健康に、より長命に、より高い能力を、というわけです。何も遺伝子操作のようなものだけではなくて、ドーピングや美容整形などもエンハンスメントです。また、成長ホルモン不足で起こる小人症という病気がありますが、その患者に成長ホルモンを注射したら治療ですが、普通の子どもに注射して背を高くしたらエンハンスメントです。どこまでが治療で、どこからがエンハンスメントなのかはっきり線を引けるわけではありません。
しかし、私たちの欲望を煽るそのような方向性の生命操作を、無限に全ての人に行っていくことは絶対にできません。医療費には限界がありますし、人は必ず死にます。
‥‥生命には劣った生命と、優れた生命があるというとらえ方。とても怪しいと思いますが、「劣った」(というレッテルが貼られた)生命はできるだけこの世に増えない方がいいと。そのような不安をわたしたちは煽られているのです。もし自分が一人で何もできないような状態になったら、周りの人にも迷惑だから死にたい、安楽死したいと考えるようになる。これは優生思想と深い関係のある考え方だと思います。
「死なせないベクトル」と「死なせるベクトル」がセットになっているのが、脳死臓器移植のシステムです。
‥‥臓器移植も同様です。レシピエントの救命は、それをしないと死んでしまうわけですから、先はどの「死なせないベクトル」に相当します。ところがドナーになる人は例えば脳死になる人は、交通事故などによる頭部の外傷や脳出血などの病気で脳に重大な損傷を負った人です。そのような人たちにある意味で体よく死んでもらい、その臓器を別の人のために使っているのです。その生々しさを覆い隠すように、様々な美辞麗句や言説システムが張り巡らされています。
‥‥脳死臓器移植では、「いのちの贈り物」「いのちのリレー」のような美しい言葉で、人体の道具化や手段化を覆い隠しています。
‥‥アメリカなどでは、臓器をもらう側とあげる側の人の間には、あきらかな経済的格差があります。あげる人の側は最後まで延命することができません。保険に入っていなかったら高額な医療費を実費請求されてしまいます。これは人体実験の問題と一緒です。ひどい人体実験で犠牲になった人たちは、その社会の中の一番弱い立場の人々でした。これはもう、歴史が証明している。
もっと怖く、おぞましいのは、そこに様々な学問や、心理療法的なケアがかかわっていることです。臓器提供に家族が同意することは、ドナーの家族にとっては、いきなり亡くなった人への悲嘆のプロセスをやわらげ、促進していくとする言説があります。こういう学問的言説やそれに基づいたケアは、家族にその人の死を諦めさせていく働きをすることによって、臓器移植というシステムを支えているのです。
(以上)
まずは体外受精の話をしましょう。
‥‥‥アメリカでは頭のいい人の精子ばかり集めた精子バンクがあります。独身の女性がそれを買い、人工授精をして子どもを産むことが可能です。不妊の人以外にも、様々な形で利用できます。
これは案外知られていませんが、いまでも体外受精の成功率はそれほど高くありません。せいぜい20%ぐらいです。体外受精をする人、特に女性の場合は、身体にも心にも経済的にも大きな負担がかかります。長い人であれば、20年ほど続けている場合もあり、最終的には諦めざるを得ないことも多いのです。
‥‥‥それは人を幸せにするよりは、諦められない怖さを、私たちに生んでいるわけです。欲望だけが刺激されている。
現在の生命操作システムや、それに付随する言説のシステムは、二つのベクトルを持っていると思います。ひとつは、A死なせないベクトル(不死のベクトル)。もうひとつは、B死なせるベクトルです。このBの部分が十分認識されていないことが多いのではないか。
Aの揚合は割と単純です。たとえば私たちの欲望を様々な形で煽って、技術を推進させていく。病気の大を健康に近づける「治療」とは異なって、健康な人の能力をより高めるような介入を「エンハンスメント」と言いますが、方向性は同じです。より健康に、より長命に、より高い能力を、というわけです。何も遺伝子操作のようなものだけではなくて、ドーピングや美容整形などもエンハンスメントです。また、成長ホルモン不足で起こる小人症という病気がありますが、その患者に成長ホルモンを注射したら治療ですが、普通の子どもに注射して背を高くしたらエンハンスメントです。どこまでが治療で、どこからがエンハンスメントなのかはっきり線を引けるわけではありません。
しかし、私たちの欲望を煽るそのような方向性の生命操作を、無限に全ての人に行っていくことは絶対にできません。医療費には限界がありますし、人は必ず死にます。
‥‥生命には劣った生命と、優れた生命があるというとらえ方。とても怪しいと思いますが、「劣った」(というレッテルが貼られた)生命はできるだけこの世に増えない方がいいと。そのような不安をわたしたちは煽られているのです。もし自分が一人で何もできないような状態になったら、周りの人にも迷惑だから死にたい、安楽死したいと考えるようになる。これは優生思想と深い関係のある考え方だと思います。
「死なせないベクトル」と「死なせるベクトル」がセットになっているのが、脳死臓器移植のシステムです。
‥‥臓器移植も同様です。レシピエントの救命は、それをしないと死んでしまうわけですから、先はどの「死なせないベクトル」に相当します。ところがドナーになる人は例えば脳死になる人は、交通事故などによる頭部の外傷や脳出血などの病気で脳に重大な損傷を負った人です。そのような人たちにある意味で体よく死んでもらい、その臓器を別の人のために使っているのです。その生々しさを覆い隠すように、様々な美辞麗句や言説システムが張り巡らされています。
‥‥脳死臓器移植では、「いのちの贈り物」「いのちのリレー」のような美しい言葉で、人体の道具化や手段化を覆い隠しています。
‥‥アメリカなどでは、臓器をもらう側とあげる側の人の間には、あきらかな経済的格差があります。あげる人の側は最後まで延命することができません。保険に入っていなかったら高額な医療費を実費請求されてしまいます。これは人体実験の問題と一緒です。ひどい人体実験で犠牲になった人たちは、その社会の中の一番弱い立場の人々でした。これはもう、歴史が証明している。
もっと怖く、おぞましいのは、そこに様々な学問や、心理療法的なケアがかかわっていることです。臓器提供に家族が同意することは、ドナーの家族にとっては、いきなり亡くなった人への悲嘆のプロセスをやわらげ、促進していくとする言説があります。こういう学問的言説やそれに基づいたケアは、家族にその人の死を諦めさせていく働きをすることによって、臓器移植というシステムを支えているのです。
(以上)








