仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

いのちから医療と宗教を問う②

2019年11月08日 | 現代の病理
『宗教と生命 激動する世界と宗教』(池上 彰, 佐藤 優, 松岡 正剛, 安藤 泰至, 山川 宏著)に『生命操作時代における「いのち」―いのちから医療と宗教を問う』を執筆されています。次は医療が問われている問題です。以下転載です。

まずは体外受精の話をしましょう。

‥‥‥アメリカでは頭のいい人の精子ばかり集めた精子バンクがあります。独身の女性がそれを買い、人工授精をして子どもを産むことが可能です。不妊の人以外にも、様々な形で利用できます。
 これは案外知られていませんが、いまでも体外受精の成功率はそれほど高くありません。せいぜい20%ぐらいです。体外受精をする人、特に女性の場合は、身体にも心にも経済的にも大きな負担がかかります。長い人であれば、20年ほど続けている場合もあり、最終的には諦めざるを得ないことも多いのです。

‥‥‥それは人を幸せにするよりは、諦められない怖さを、私たちに生んでいるわけです。欲望だけが刺激されている。

現在の生命操作システムや、それに付随する言説のシステムは、二つのベクトルを持っていると思います。ひとつは、A死なせないベクトル(不死のベクトル)。もうひとつは、B死なせるベクトルです。このBの部分が十分認識されていないことが多いのではないか。
 Aの揚合は割と単純です。たとえば私たちの欲望を様々な形で煽って、技術を推進させていく。病気の大を健康に近づける「治療」とは異なって、健康な人の能力をより高めるような介入を「エンハンスメント」と言いますが、方向性は同じです。より健康に、より長命に、より高い能力を、というわけです。何も遺伝子操作のようなものだけではなくて、ドーピングや美容整形などもエンハンスメントです。また、成長ホルモン不足で起こる小人症という病気がありますが、その患者に成長ホルモンを注射したら治療ですが、普通の子どもに注射して背を高くしたらエンハンスメントです。どこまでが治療で、どこからがエンハンスメントなのかはっきり線を引けるわけではありません。
 しかし、私たちの欲望を煽るそのような方向性の生命操作を、無限に全ての人に行っていくことは絶対にできません。医療費には限界がありますし、人は必ず死にます。

‥‥生命には劣った生命と、優れた生命があるというとらえ方。とても怪しいと思いますが、「劣った」(というレッテルが貼られた)生命はできるだけこの世に増えない方がいいと。そのような不安をわたしたちは煽られているのです。もし自分が一人で何もできないような状態になったら、周りの人にも迷惑だから死にたい、安楽死したいと考えるようになる。これは優生思想と深い関係のある考え方だと思います。
「死なせないベクトル」と「死なせるベクトル」がセットになっているのが、脳死臓器移植のシステムです。

‥‥臓器移植も同様です。レシピエントの救命は、それをしないと死んでしまうわけですから、先はどの「死なせないベクトル」に相当します。ところがドナーになる人は例えば脳死になる人は、交通事故などによる頭部の外傷や脳出血などの病気で脳に重大な損傷を負った人です。そのような人たちにある意味で体よく死んでもらい、その臓器を別の人のために使っているのです。その生々しさを覆い隠すように、様々な美辞麗句や言説システムが張り巡らされています。

‥‥脳死臓器移植では、「いのちの贈り物」「いのちのリレー」のような美しい言葉で、人体の道具化や手段化を覆い隠しています。

‥‥アメリカなどでは、臓器をもらう側とあげる側の人の間には、あきらかな経済的格差があります。あげる人の側は最後まで延命することができません。保険に入っていなかったら高額な医療費を実費請求されてしまいます。これは人体実験の問題と一緒です。ひどい人体実験で犠牲になった人たちは、その社会の中の一番弱い立場の人々でした。これはもう、歴史が証明している。
 もっと怖く、おぞましいのは、そこに様々な学問や、心理療法的なケアがかかわっていることです。臓器提供に家族が同意することは、ドナーの家族にとっては、いきなり亡くなった人への悲嘆のプロセスをやわらげ、促進していくとする言説があります。こういう学問的言説やそれに基づいたケアは、家族にその人の死を諦めさせていく働きをすることによって、臓器移植というシステムを支えているのです。
 (以上)

コメント

いのちから医療と宗教を問う①

2019年11月07日 | 現代の病理
『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』 (岩波ブックレット)の著者安藤 泰至氏の第一弾です。『宗教と生命 激動する世界と宗教』(池上 彰, 佐藤 優, 松岡 正剛, 安藤 泰至, 山川 宏著)に『生命操作時代における「いのち」―いのちから医療と宗教を問う』を執筆されています。まずは宗教が問われていることです。以下転載です。

宗教が生命操作の問題に影響があるとするなら、「いのち」をめぐる問題に右往左往して悩んでいる当事者の苦しみや悲しみを一緒に受け止めることだと思います。
 科学技術はどうしても合理的な枠に当てはめ、全部を要素ごとに分解し、割り切ってしまう。でも現に悩みつつ生きている私たち人間はそういうふうには割り切れない。
その割り切れないものをそのまま受け止めて共感する。これはおそらくAIにも難しいのではないでしょうか。そういう宗教者の活動がここでのカギになるでしょう。
 「いのち」を説くときに、宗教は、私たちの生の有限さに対して、神仏に由来するような、死によって終わらない無限のいのちを説きます。あるいは、超越的な存在から、私たちのいのちが授けられ、与えられたものであることを説く、あるいは、いのちは個人の身体の中に閉じられたものではなく、みんながつながっていると説く。それはいのちの本性からして間違ってはいません。
しかし、それ自体は生命操作への動きの歯止めにはなりませんし、全体の状況を知らずにこのような言葉が発せられると、生命操作システムを補完してしまう可能性があります。
 たとえば「人間の命は本来的に限りあるもので、死すべき存在である」と生の有限性を強調したとします。ところが、今の医療やケアのシステムの中では、生きるためのサポートを十分に得られていない人も少なからずいるわけです。ケアやサポートの不足によって生じる、そういう人為的な有限性と区別がつかなくなる。「もう仕方ない。運命ですから、諦めなさい」という方向に宗教は行ってしまうことがある。さらに、宗教は「良い死」「自然な死」を強調する側面もあります。宗教は人を体よく死なせる方に、どんどん追い込んでいくところがあるのです。
 
‥‥いま私たちが問わなければいけないのは、私たちが現に生きている「いのち」を生き切れるように、宗教はその人を支えているのだろうか。都合の悪い割り切れないものを体よく排除し、死なせることに加担していないのか、ということ。これは、「いのち」から宗教に問われていることです。上原専禄については、『「いのちの思想」を掘り起こす』(岩波書店)という本のなかで書いていますので、興味のある人は読んでみてください。
 最後に、アメリカの神学者ラインホールドーニーバーの有名な「祈り」についてお話ししたいと思います。

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」(大木英夫『終末論的考察』中央公論社)

ここには様々なメッセージが込められています。(以上転載)

コメント

安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと

2019年11月06日 | 生命倫理
『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』 (岩波ブックレット・安藤 泰至著)、著者は、鳥取大学で宗教学を教えている生命倫理の研究者です。よくまとめられている本です。問題定義風にかかれ、「生きるとは何か」といった視点があり参考になりました。興味深いので著者の本を数冊、図書館へリクエストしました。

この本は、書名にあるように、安楽死問題の基礎知識が得られる内容であり、安楽死を語る際の言葉の定義や現状も示されています。私が興味を持った部分は、「良い死」と「悪い死」の部分です。その辺りのことのみ転載して紹介します。以下転載


いわゆる終末期医療や死を看取る医療はどうなのだろうか。このことについては、終末期ケアのパイオニアの一人であるエリザペスーキューブラー・ロスが弟子のデヴィッド・ケスラーに語ったとされる言葉が有名である。ゲスラーは「死にゆく人々の権利」について本を書いているときに、師のキューフラートロスを訪ね、助言を求めた。キューフラー・ロスは即座に、「生きている人間に対する正しい接し方を覚えていれば、死にゆく人の権利を覚える必要はありません」と答えたという。ケスラーがその本で「死にゆく人の17の権利」の最初に挙げたのは、「生きている人間として扱われる権利」であった。死にゆく人もまた、最期(死亡)の瞬間までは同じように「生きている」人なのであるから(デヴイッド・ケスラー『死にゆく人の17の権利』椎野淳訳、集英社、1997年)。

 医療の目的を「病気を治す」ことに置くのではなく「人が生きるのを支える」ことに置くならば、終末期医療は、他の医療とは異なった何か特殊な医療、というわけではないはずなのだが、現代の医学・医療はあまりにも「治す」ことに焦点を当てすぎてしまい、その結果として「治す医療」と「支える医療」の間に、ある種の分断が起きてしまっていると言える。
 「死なせる」ことによってしかその尊厳が守れないのではないか、と私たちに思わせるような「人間としての尊厳を奪われた生」を生み出しているかなり大きな要因は、そのような現代の悪しき医療文化にあるのではないだろうか。死に至るまで、私たちが尊厳をもって生きることをどのようにしたら支えられるのか。「尊厳なき生」の代わりは「尊厳ある死」ではなく、「尊厳ある生」であるはずだ。


近代ホスピスの発祥とされる英国の聖クリストファーホスピスにおけるもともとの「緩和ケア」概念は、今日の日本で「緩和ケア」と呼ばれているような苦痛緩和を中心とする終末期のケアというよりずっと広いものであること、がんや難病を含め、いわゆる「治らない病気」の患者のQOLを高めるためのありとあらゆる手段を用いた全人的ケアであること、「よい死」に向けてのケアというよりは「よい生」を支えるためのケアだということを認識しておくべきだろう。
 少なくともいま私たちは、どんな形であれ「よい死」を実現しようというような動きに対してもう少し警戒心をもってもよいのではないか。「よく死なせる」ことを考える前に「最後までその生を支える」ことがどこまで追求できているのかをもう一度振り返り、検討してみる必要があるのではないか。これは緩和ケアをめぐる思想的な課題でもあると思われる。(以上)

確かに「良い死」を想定すると、ケアの内容が硬直化してしまいます。死の自己決定に触れられていますが、これはもう一歩という内容でした。
コメント

詫び状

2019年11月05日 | 日記
先月の30日のことです。午前11時前、近所の葬儀場で12時から葬儀出勤があるので、準備していると電話。電話に出ると友人のHさん。「西さん、豊前市の〇組の離郷門信徒会の法話、受けていないですが」。「おう、明日31日受けてるよ。今準備している」。「イベントは今日の11時からです。」

そう「私が日にちを間違えたのです」。Hさんは、こちらでなんとかするからと言ってくれました。案内状を見ると確かに30日11時となっています。法話の依頼をしてくれた豊前市の友人のFさんからも、何度もお願いされていた件です。

とりあえず葬儀を終えて火葬場へは知人に行ってもらい、築地本願寺へ謝罪に赴きました。丁度、イベントは終わったところで、代表の元総務のT住職にお会いして謝りました。「Hさんから紹介されて楽しみにしていたんですが‥」。

さて友人のHさんに、電話をして状況を説明して誤らねばなりません。その時点で、Hさんから「今日ははご苦労様でした」というメール届いていていました。Hさんのメンツを潰した事になるので、電話しずらい。しかし、電話しなければなりません。電話をすると「そうか。来年、おれが組長だから築地に行く、来年たのむよ」と受け流してくれました。

そして次の日「昨日は慌てたやろう。担当のT住職が、わざわざ謝りに来てくれたと恐縮していた。来年名誉挽回でたのむ」とのメールを受信しました。

私が慌てたことを気遣ってくれるのは、やはり友人であればこそと、あたたかい気持ちになりました。T住職には、改めて詫び状を書きました。
コメント

行動原理

2019年11月04日 | 現代の病理
今日(10.4)の『読売新聞』朝刊三面記事に“死刑「しょうがない」…座間9人遺体 白石被告と面会」”という座間9人を殺害した白石被告と面会記事が出ていました。その中に被告が語った次の言葉がありました。

“また、自分を「成果主義者」として、「昔からゴールに向けて頑張ってきた。ナンパも勉強も」と述べた”。成果という自己満足に向かって努力する。それが殺害動機の一端だという

振込詐欺も泥棒もスポーツも勉強も、成果に向けてまっしぐらに進む。何が欠落しているのだろうか。その人の成果を見守る環境(人)か?、行動の意味か?成果というご褒美がなければ行動できないという生き方そのものに問題があるようです。何のために生きるのかという行動原理が問題なのでしょう。
コメント