真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

Rayの呟き~西洋の時代から東洋の時代に大転換!

2023-03-30 21:14:34 | Rayの呟き

覚醒中の皆さんに認識していただきたいのは、「選択の自由」の問題です。

このフレーズが曖昧で、私にはポジティブとネガティブ以外に適当な言葉が見当たりません。

私達は西洋的物質文明の中で繁栄してきて、分断とマニアルの世界で、答えを持ち合わせ日々の生活の課題を解決しているように勘違いしていて、本来の自分の心の置き所と思考を見失っています。

この動画のメンバーは西洋社会のスピリチャルリーダーですが、『内面の巨人の目覚め、遺伝子操作、肉体の完全な抗体、天と地を繋ぐポータル…』等など、ミクロやマクロ的であっても二元性の物質世界の可能性や考察や認識で、まるで4~5次元世界の科学者の地球再生会議のような場面です。

現在、世界で起こっている混乱はこのような考察や認識の写し鏡で、破壊と再生を繰りかえすサイクルです。

これでは長い目で見ると、この動画で語られている「永遠の命の樹」も、理性を伴わない幻想です。

人々が目覚めて、ニルヴァーナ(涅槃)のような理想世界に入る旅の途中を、魔物が映し込んでいるように今の世情のように思えます。

“内面の巨人の目覚め”という不可思議な表現を覚醒の目的というなら、人類が存在する証である「霊・性・仏性」など根源創造主の分霊を明らかにする「悟り・解脱・超生了死」などが、あなたの内面で起こり、そして日々の生活に輝きを与える今の進化の過程は、彼らにとっては、全く異質で及ぶべきもない世界です。

今あらゆる情報が開示されて、人々は各々において選択の自由が与えられていますが、西洋的物質文明がさらに進化して、地上天国が実現する過程が超科学的な宇宙文明に根差しているかのように、この動画のエージェントは報告しています。

あなたにとって興味のあること、あなたにとって科学的根拠のあることを与えてくれます。

人の内面は空であり、虚である為に、メンタルに強い印象を与えることは、映像や感情に残ります。

物質な西洋社会は宇宙においても同じレベルです。

精神的な東洋社会は普遍で、今はその大転換の時です。

古い思考では、新しい現実を見だすことは出来ません。

書物にも映像などをどんなに検索しても到達できないのです。

根源創造主が主宰する、新しい時代が到来しています。

『弥勒の世』です。

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Rayの呟き~悪習慣を見極める(目標を明確に)

2023-03-30 21:02:17 | Rayの呟き

悪習慣というのは、それがどのようなもので、どう正すべきかと考えはじめますと、たちまち迷路に入ってしまいます。

正しい念、正しい意を保ち良き習慣を為すには、次のような時にどう意識するかで決まります。

人間の根本的な欲望を凌駕することがすべてに通じます。

まず、空腹時に空腹を思わない。

空腹の痛みは飢餓の仕業です。

その証に多食は腹痛を伴います。

目で食べ、舌で食べ、念で食べることを日常としています。

これがまさに悪習慣です。

目で食べ、舌で食べ、念で食べることを日常としています。

この欲が生ずるのは、まさに「飢餓(きが)の魔(魔性の別人格)」によるものです。

目、耳、舌を正しく用いることは正しい念にあります。

悪習は、自分の敵手にして大敵です。

引き下がって懈怠(おこたる)すれば、それはもう自暴自棄の兆しとなります。

一刹那(瞬間)に怎麼(そもそもの意)の結果を生じます。

もし退縮すれば、数多の六賊を忽ちに生じて、錯誤、妄動の原因を為すことは明白です。

六賊~眼・耳・鼻・舌・身・意の(六の感覚器官)を賊に喩えたもの。六根は色・声・香・味・触・法の外賊をいざない、貧・瞋・痴のの内賊を働かせる媒介となるところからいう。

飴一粒、菓子一片、茶水一杯を侮るのは、餓鬼の謀り事です。

天下を揺るがすほどの一穴です。

微細に観極めて、正意を決して断ずるべきです。

悪習慣を改める極意は瞬間にあります。

一刹那(瞬間)に怎麼(そもそもの意)の結果を生じます。

悪習慣をあらためるために学ぶことは、これからは特にたくさんありますが、時は今(身体を得てこの世にいる僅かなとき)しかありません。

眠るという習慣を遠ざけ、学ぶために眠らないようにする、いわゆる不眠を無理なく実践することが悪習慣の根を絶つための極意です。

眠気の正体は一般俗的であり、賊(五賊)にその因があります。

※  五賊:喜・怒・哀・楽・慾を言います。五賊は五徳(仁・義・礼・智・信)を制して屈服させる因となります。

眠気をもよおす因には、腹を満たすことが第一にあり、体を暖めることが第二、五賊を戒めるために足を暖めることは必ず避けるべきです。

常に心を正位に置き、回光返照するのは、不眠を目的とするためです。

※修道は必ず回光返照しなければなりません。外に向かっていた思いの向きを内に回すことを回光返照といいます。内の自分の心地を照らしながら外の劫難因縁を照らすと自ら大慚愧の心生じます。

妄想や妄念を生ずると、おのずと姿勢が悪くなります。

ただちに転念して、もし臥せても心身の正位は変わらないようにします。

すなわち諸作(何かをする)を為す場合に一瞬とも投げやりにしないことです。

物を投げ捨てたり、事を急ぎ済ませたりせず、ゆっくりした動作をするようにします。

もし、邪念が混じり心に焦りがあるのは、すでに正気に欠けています。

多言、妄言、虚言に(常に)意識があるのは、すべての元凶で誤りはさらに極大になります。

悪習慣を改めるため、身を修めたいと言いながらこのようであれば、恥を知らない大恥です。

小さいことから大きく崩れ、小と思うものは実に大きいものです。

眠るのは、意を失います。

不眠は浩然の気を養う根源にして、そのように無意、無念、無想にして天人合一の機会を得ることができます。

※  浩然の気~眠ることによって失う「意」は、意識のことで日常茶飯のことですが、眠らない状態で正位を整えて、意も無く、念も無く、想も無い境地、その超脱した境地が得られる、段階的な気で、元気(3次元)・精気(4~5次元)・神気(7次元以上)の最上の神気をいいます。

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性理題釋~十九、病の有無と飲食

2023-03-30 21:00:14 | 性理題釋

十九、病の有無と飲食

人間は本来、肉体があれば如何にしても災難をなくすことが出来ないでしょう。

然し、大病は因果応報に依るものであり、小病は自愛せず慎まざる所に由るのであります。

故に陰司(いんし:地獄)には病を散らす鬼が降り、天宮(天国)には災いを降らす神がいまして、皆命を奉って仕事をするのであります。

疫病は厚さ寒さに対して、慎まないので発病するだけではなく、七情六慾も疫病をなしており、又飲食や色欲により傷ついて発病するだけでなく、一切貪求して飽(あ)き足らず、色々と謀(はか)って果たせず、そして身に大きな害を蒙(こうむ)るのであります。

俗に『心安ければ茅葺(かやぶき)も穏(おだ)やかにして、性定まれば青菜や粗飯も香ばしい』と申されました。

又、経典に『富は屋を潤(うるお)し、徳は身を潤す。心広ければ体も胖(ゆたか)に肥え、法身も胖になると申されました。

君子は処世する上に『言葉を出すには理を思い、事をなすには過ちを防ぎ、そして、半は人力を尽くし、半は天命を聞く』のであります。

又、必ず人の命のある所は、天もこれを奪うことが出来ないばかりでなく、天の与うる所は人も強(し)いてどうすることもできないのであります。

故に『君子はその命安らかなり』と申すのであります。

三国時代、洛陽(らくよう)に大不作があり、国民は皆餓え血色を失っておりましたが、或る一人の人だけが平常のように光沢が顔面に潤いましたので、曹操(そうそう)がその故を尋ねますと、その人は『私は戒律を守って三十年になります』と答えました。

故に誠心誠意で修道する人は、葱(ねぎ)・大蒜(にんにく)・酒・肉等を戒め浄めているので、新陳代謝で生ずる血気は清潔であるから、疾病は自ら少なくなるのであります。

続く


第四章 三期末劫の起こるべき原因とその証明 (二)紅陽時代

2023-03-30 20:58:44 | 天道の淵源

(二)紅陽時代

紅陽時代の期間は、周の建国頃からはじまって清朝に終わる約三千年間です。

ヨーロッパ地中海ではギリシャ世界の成立時にあたり、アフリカ、西アジアではヘブライ、フェニキア王国の胎動期にあたり、インドではガンジス川流域の都市国家建立時に始まり、十九世紀で終わっています。

この時代の人心は青陽時代に比べて数等悪く、十八の浩(おお)きな劫難によって審判淘汰されました。

名づけて、「赤明火劫(せきめいかきょう)」と言います。

つまり、この時代に十八回の激烈な火の大戦・大災難が起こった訳です。

わけても火による焼き討ちが無残だったので、火劫と名づけられました。

殺され、焼けただれた屍骨(しかぼね)は山の如く堆(うず)まり、血は流れて河となりました。

十八の時期に区切られ、その変わり目には必ず無数の無辜(むこ)の人命が殺戮と掠奪(りゃくだつ)と放火で洗い清められ、その都度犠牲者が累々と煎じられました。

中国では、東周・春秋・戦国・嬴秦(えいしん)・前漢・後漢・三国・西晋(さいしん)・東晋・南北朝・北唐・南唐・五胡十六国(ごこじゅうろくこく)・北宋・南宋・元朝・清朝と合わせて十八の時代になっています。

ヨーロッパ地中海、中近東では、アッシリア・ペルシャ戦争によるアテネの興隆、アレクサンダーの世界帝国建設とその崩壊、列国の栄枯盛衰、第一第二のポエニ戦争、アウグスツス時代、ローマ朝の盛期、そして衰退に伴って民族の大移動、地中海世界の分裂、東ローマ帝国の繁栄、フランク王国の西欧統一、ノルマンの活躍、十字軍の遠征と、その終末による西欧世界転換の契機から近代に至るまでの死闘の繰り返しを大別して十八に分けられます。

日本やアジアの諸国にも同じように時代の変遷時には必ず争乱がありました。

仏宋では十八個の数珠(じゅず)を持ち、これを十八羅漢珠(じゅうはちらかんじゅ)と名づけられています。

一個の数珠は一回の災難があることを物語り、十八個の数珠は即ち紅陽時代十八の劫難を暗示しています。

人心の善悪の数は相半ばの状態でありました。

老〇様(ラウム)は、善悪・玉石ともに崩壊されるのを忍びず、天道を伝えて真宗を授けられました。

釈迦仏は天盤を掌られ、仏法を宏め、形式を掃き、着想を戒められました。

この時代の人は獣面から人面に進化しましたが、心は仏心から人心に退化しました。

この時代に二度目の普度が開かれ、衆生を塗炭(とたん)の苦しみから脱(のが)れさせられました。

紅陽時代の道運は南方に位し、天に在っては亨正(こうせい)となり、地に在っては夏季に当たります。

夏季は紅花の満開期であり、熱帯地であればある程、真紅の色彩を放ちます。何報は五行の中では火に属し、五色では紅(くれない)となっている故に紅陽と言います。

この三千年間(あるいは三千百十四年間)の一切は紅(赤)色を最上としました。

華やかなりし文明の最盛期の「豪華絢爛(ごうかけんらん)」という言葉は、そっくり赤に当てはまる名詞であります。

衣冠・礼装から一切の建築装飾に至るまで多分に赤色か、それに類した色彩を使っています。

天命は帝王の時代から離れて仏仙聖賢の間に伝えられました。

文王が苦心して、後天の八卦を画き完成されました。

後天の八卦は先天不易の易理を基礎にして時勢の変遷を明察した変易の易理であります。

明師によって伝える三宝は、「玄関の一点」と「六字真経の口訣(くけつ)」をもって神通呪(じんつうじゅ)となし、「蓮華の合同」を合わせて証としました。

蓮の華は赤色に属し、蓮根と蓮の葉の中間にあります。

これは道統が中間である聖賢の間にあることを証明しています。

「道あれば明師なり、道なければ妄師なり。」と言われているのは、すなわちこの時代を指しています。

午未(うまひつじ)の交替期とは、すなわち紅陽と白陽の交替期です。

紅陽の末法と白陽の正法接続期が現代の時代です。

元亨(げんこう)あれば利あり、春夏あれば秋あり、青・紅陽あれば白陽あることは当然であります。

以上が紅陽の簡単な説明ですが、更に白陽時代の状態と災難・厄運を述べてみます。

続く


Rayの呟き~道と教(宗教)とはどうちがうのか

2023-03-29 20:09:25 | Rayの呟き

孔子・中庸:天の命ずるこれ性(たましい)と謂い、性の率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教えと謂う。道は須臾も離れるべからざるなり。離れるべきは道にあらざるなり。

道は性理の本体で真理です。これを人に与えれば性(霊)となります。故に「性理」または「良心」とも言います。

この性理は私たちの先天的(生まれる前からのもの)根本で、生命の大本です。人は誰でも皆これを受けてこの世に生まれ、またそれぞれの因果や性理に応じて死にいたります。

このように生と死は必ず経由する路であり、古来最も神秘的なこの「性理真伝」を文字で書や経典などには書きあらわさず、口頭で授けられ「以心伝心」のうちに伝えられてきました。

そして、唯一絶対の造物主の天命により、この世に降りてこの道を伝えるために来た者は、たとえ仙佛、聖人といえども、この機密をもらすことは決して許されませんでした。

そして、儒教の四書五経、仏教の金剛経、老子五千言の道徳経・清浄経・黄庭経などのところどころにこの証を秘蔵し、それとなく読む者に暗示を与えてきました。
時の実りによって、老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯を伝授しました。このように天命を受けた明師が降臨して、この道を伝えてきました。

それに対し教は、道の伝授により、道より発生したところの法と行事によって人々を教化する行為です。道が主体で教は功用になります。樹木にたとえればその根元が道、枝葉が教です。いわゆる五教(仏教・儒教・道教・キリスト教・回教)は皆この道から発生したものです。

儒 教 存心養性 執中貫一  (一を貫く)      忠恕    聖(ひじり)

仏 教 明心見性 万法帰一(一に帰す) 慈悲  仏(ほとけ)

道 教 修心煉性 抱元守一  (一を守る)  感応 神仙(せんぶつ)

耶蘇教    洗心移性 黙祷親一  (一に親しむ) 博愛 神(かみ)

回 教 堅心定性 清真返一 (一に返す)   清真 僕(しもべ)

※日本伝承の 一厘の仕組み、〇チョンも同じ道の心印です。

このように五教の起源と宗旨は同一です。この「一」は、「道」であり「真理」であり、孔子はこれを「吾が道は一をもって之を貫く」と言われました。

教は善行を奨励し、修養して徳を積み、出世(社会を離れ)して修行を極め、道を得るための準備をする段階です。道は教の真髄で、道を得ることより師の指示・伝導を直接得ることができ真の人として進化に万全の備えをすることができます。

孔子の弟子の子貢が「孔先生の文章や学問は学ぶことができましたが、先生の性と道に関して学ぶことができなかった」と謂っています。前者は教であり、後者は道のことです。

これが道と教の相違点であり、教は何時でも授けられますが、道は非常時(歴史的な節目)でなければ授けられません。

道は時には隠れ、時には顕現するものです。それは、道は時に応じ世にくだり(興り)人を選んで伝授するからです。

教はどんな時代でもあります。道が伝えられない時でも教は存在し、道が盛んに興るときでも教はやはり存在しています。

その理由は、教は人道の基本を強化するものであり、なるがゆえに道は教を離れることはなく、教もまた道を離れることはありません。

なぜなら道がもし教を離れれば、教が道から離脱し、異端邪説に走ってしまうからです。

道を信奉すれば、生死を超越して、輪廻を離脱し、西方極楽に登り、あらゆる災難を避け、恨仇を解消し、罪を消滅し、運命を改善して果報が得られます。

故に古人が「天上天下を通じ唯一道のみ最も尊し」と言われたのも決して虚言ではありません。

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