真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第二章 天人一貫の妙理 (八)人生同天

2022-02-16 17:47:45 | 天道の淵源

(八)人生同天

われわれの天性は無極の真、老〇様(ラウム)から給わったものであります。

陰陽二気かが交感して万物を化し、同時に秀麗なる霊と自在な形体を賦与されているのであります。

万物は一陰一陽によって生じます。

われわれ男女の交感によって生まれます。

男は乾(けん)で女は坤(こん)です。

また、われわれの性命も先天と後天とに分かれております。

懐胎十ヶ月に満ち、先天の性が後天の気に接したときに泣く一声で、霊が気に合して秘竅(ひきょう)より体内に性が宿ります。

この時、先天の気が隠れ、後天の気が口と鼻より入り、肉体が性に支配されることになります。

先天の性は後天の気と相対関係となり、身体(象)と深いつながりを持つことになります。

この性は純粋な霊理なる絶対的善であります。

父母が未だ生まれていない以前の真の面目であり、始まりもなく終わりもありません。

天真にして、独り露(あら)われた真常の本体には凡聖もなく賢愚もなく貴賤貧富(きせんひんぷ)の別もありません。

天地は仁義礼智死信の五常の徳を中心にして運行しており、人間もまた同じく五常の徳を中心に行動し生活しなければなりません。

孟子様は「万物皆我に備わる。」と申されておりますが、全宇宙にあるものは悉(ことごと)くこの小さい体にそなわっているのであります。

真の理天はわれわれの身体の霊にあたり、気天は気脈・体温・呼吸にあたり、象天は身体にあたります。

身体における一呼一吸は生存を保ち、神経の感、気脈の循環は一分一秒といえども、忽(ゆる)がせにできず、密接な関係によって体内珀骸(体内非薬害)・五臓六腑(ごぞうろっぷ)のことごとくを活かしております。

人間の身体を構成している原子などは肉体であり、象天であります。

性霊は形体も声音も味覚も臭覚も無いからといって全然ないのではなく、霊的感覚は寸時も怠っていません。

たとえば頭を殴れば頭に痛みを感じます。

身体だけではなく、精神的にも痛みます。霊・気脈・身体、この三者は一体に組み合わされ、結合は全く天然的にできており、実に妙合だといえます。

もし、霊を欠けば、呼吸できず。ついには身体は亡んでしまいます。

気天・象天の瓦解は恰(あたか)も人間の老衰にたとえられ、年と共に漸次、視・聴・味・香・触感が薄れ、健康がすぐれず、五行中、何かが衝動を起こすとついに息を引き取り、肉体は亡んでしまいます。

ただ霊のみ勃然(ぼつぜん:突然起こる様)として残り、生前に造った功徳か罪業かに従ってそれぞれ、天堂・地獄へと別れてゆくのであります。

生前に成した因果は死後その霊が享(う)けるので快楽・苦痛の境界は結局、生前に成した業績如何(いかん)によって定まるゆえに、天人ともに一貫の理が含まれているのであります。

老〇様(ラウム)を大きな清泉に譬(たと)えれば、われわれの霊は一つの碗中の水にひとしく、この水を清浄に保たねばなりません。

また老〇様(らうむ)を発電所に譬(たと)えていえば、われわれは電燈であります。

電源がなければ電燈は点(とも)りません。

一寸(ちょっと)のまであっても連絡を切ることはできません。

電気の消費分量は正確に記録されるごとく、われわれの一挙一動はすべて、老〇様(ラウム)の許(もと)に逐一知らされています。

罪が多いか少ないか、重いか軽いかは糸毫(しごう)の差もなく報告されています。

不思議なことは、妄想、意の善悪、これらは一つの思想反応となって、われわれの態度に顕れてくるものです。

蔵(かく)しても蔵し通せるもではありません。

顔回(がんかい)様は己を克服するのに「礼に非ずば視ず、礼に非ずば聴かず、礼に非ずば言わず、礼に非ずば動(おこ)なわず。」と述べ、これを四勿(しぶつ)または四非(死火)と称しますが、曽子(そうし)様は「吾、日に三度(みたび)吾を省みる。」と述べ、心にゆるみを生ずるのをおそれ、「戦々恐々、深淵に臨むが如く、薄氷を履(ふ)むが如し。」 また「十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるかな。」と絶(た)ゆまない努力をされたのであります。

顔曽両聖は敬(うやうや)しく、これを心に抱き寸刻も良心を偽ることがなっかたのであります。

曽子様は心の意念一度うごけば十目十手から鑑視される如く慎めと戒めているのであります。

肉体は親が生んでくれたものに違いありませんが、もっと大事な霊魂を生んで下さったのは天地生育の神、老〇様(ラウム)であります。

われわれは父母に対する孝養を怠らないとともに、老〇様(ラウム)に対しても、ひたすら孝行の赤心を捧げねばなりません。

孝行も道とは神に求めるのではなく、老〇様(ラウム)の求めに忠実に応え、一人でもより多くの岐路に迷える同胞を人の世の苦海から輝かしい天道の恩典に浴せしめることであります。

済度の好機を誤らないように、少しでも多くの功徳を建てねばなりません。

孔子様曰く「身を立て道を行い、名を後世に掲げ、以て父母の名を顕わすはこれ孝の終わりなり。」と、心すべきお言葉を諭(さと)されました。

どうか一日でも早く天人一貫の理を悟り、更に勤行練達(ごんぎょうれんたつ)して原霊を回復させ、天人に一貫できる霊光を、ますます光り輝かせるよう望むしだいであります。

※Ray:「十目の視る所、十手の指す所」が暗示している意味:十は縦・横の交わる点を示し、目は「眼」すなわち”正法眼蔵「正しい法は眼に蔵(かくされ)ている」、十手は同じく十(点)を手(指)で指す、という意味で、一指相伝(一指をもって相伝する)の意味です。「一指相伝」は凡界では「一子相伝」になり、親から子へ伝える秘伝に偏向され、権力に執着することを正当化にする手段になりました。

続く


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