七十七、易経(えききょう)の無思(むし)なり無為(むい)なり
王祖(おうそ)様(十五代祖)が『易(えき)には不易(ふえき)の易あり、交易(交易)の易あり』と申されました。そ
の不易の易とは理であり、交易の易とは数であります。
然しながら、理は数を離れる事が出来ず、又数も理を離れる事が出来ません。
もしも、理と数が離れるならば、即ち天は崩(くず)れ、地は裂(さ)け、人は亡び、万物も滅ぶ訳であります。
『寂然(じゃくぜん)として動かず、感ずれば而して遂に通ず』とは、すべて人間の良知良能(りょうちりょうのう:全知全能)を指して申したのであり、良知良能とは則ち私たちの本然(ほんぜん)の性であります。
人間の本性は、本来自ら清静であって、一つの感ずる所あり、万法を共に備えるものであります。
ちょうど鏡が物を写すと同様に、何物かが現れると、その物を写し、又物が去って無くなれば、鏡の中にその跡も残さぬものであります。
聖人はそのため、人々に『その心を清め、その慾(よく)を掃(はら)う』ように教えられたので来ます。
例えば、浮雲が一度退けば、月光が露出(ろしゅつ)して天下を明るく照らすと同様に、本来の天理は、明るいものであるから、浮雲の如き不浄(ふじょう)を取り去れば、本来の面目(めんもく)に戻るので、何の考えを用いる必要がありましょうか。
故に無思(むし)であり、無為(むい)であります。
続く