六、超生了死
順治皇帝(じゅんじこうてい:清国初代の天子)が出家される時にうたわれた詩に『未だかって我生まれざるに誰ぞ我なる、我生まれし後我ぞ誰なる、長大し成人して方(まさ)に我を知る、眼を合わせて朦朧(もうろう)なれば又これ誰なるぞ。
来る時糊塗(こと)にして去る時迷い、空しく人間に生まれて一生を送る、來ざるは去らずに如かず、亦煩悩なければ亦悲しみなし』とあります。
鬼魂(きこん)は生まれることを恐れます。
しかし時が来たら生まれずには入れません。
又人が死をいといますが死なない方法がありましょうか。
故に荘子(そうし)が『我本より生まれるを願わざるに、忽然(こつぜん)として世に生まれ、我本より死を願わざるに、忽然として死期至なり。』とありますが、人は死んで又生まれ、生まれて又死んで行く間に、真と仮を区別することが出来なくなり岸辺のない苦海を流浪するのであります。
死を終えようと願うならば、先ず生を了(りょう)することであり、永久に生を終えようと願うならば、必ず先ず生を超越することであります。
もし、明師に廻り遇い、大道を直指(じきし)して頂き、地府の名を抽(ぬ)き、天堂(天国)に号を掛けることが出来るならば閻魔王を免れ、無常の手に落ちることがないのであります。
もし、三期末劫でなかったとしたら真道は降りず、真道が宏まらなかったとすれば、超生了死即ち生を超越して死を終えることは、誠に難しい事であります。
故に経典に『鉄鞋(てっかい)を踏破(とうは)するも覓(もと)める処なし。
得来れば全くの工夫を費やさず』とありまして、始めの句は過去に於いて鉄製の鞋を踏み破る程、道を尋ね求めても、求める所がなかったとあり、後の句は道が普度された今日では、全然工夫も難行もすることなく、得られると言う事でありまして、まことに道の普伝の意味を表した言葉であります。
続く