真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

【Ray:制限の中に無限を見る、という日本文化!すなわち「規矩」の伝承文化!】『黄金比と白銀比』日本文化は実用性の文化 ドラえもんやスカイツリーの√2の大和比とは①|はせくらみゆき×小名木善行

2023-11-17 21:41:16 | 道すなわち真理

前人とは点伝師を統括される方です。

今回の動画は、日本人の思いやり(もったいない)文化が世界に通じるのは日本語にあるという内容ですが、日本は一つの模範となっていて、それを「弥勒浄土」に転ずることができる、という道理を次のように諭して下さっています。

前人慈悲・・

正しい型に模して弥勒浄土に転じる

正しい型に模して転じる、模(型)が若し変われば、形も変化する。この紅亀餅の木型を使えば、とうぜん紅亀餅はこの形になります。別の紅亀餅の木型で型押しすれば、紅亀餅の別の形ができます。型を模すとはこの意味です。

ゆえに正しく模せば型は転じます。この『型』は形相のない形です。絶対にこの『型』を形相の形と思ってはいけません。形相の形は壊れてしまいます。この型は形相あるものではなく、その中には、精神の入った内涵(ないかん:奥深い道理)があります。正しい型に模して転じる、ゆえに私達は今すぐ転型しなくてはなりません。」

前人慈悲・・

成型するには必ず模(型)が必要である。模が有ってはじめてこの型に成ることができます。この型の中には三つの要素があります。これは装ってできるものではなく、蘇東坡のように本を諳んじたものでもありません。次に、風範と効用がなくてはいけません。これこそ型といえます。これは形相のないものです。毀滅する形相とは異なるものです。もし修道して、何も通じなくなるなら、あなたの中には型がありません。もし型があるならば、この道は悪くない、本当に素晴らしい、と他人は思うはずです。はじめはあまり理解できなかったとしても、徐々に道は真であると体得できるようになります。ゆえに無数の人を成全することができます。もし、あなたの中に模(型)がなければ、何も印出することができません。ゆえに成型するには必ず模が必要であり、あなたに模があって始めて型があります。これを模型といいます。模は無量の型を成すことができ、模は無量、無数の型を印出することができます。」

前人慈悲・・

模を立てるには必ず規矩がなくてはならない、どれだけ無数の苦行、無数の去邪成正(邪を除き、正を成す)をしてきただろうか、大きな功徳と果、たくさんの過程を経てはじめてこの矩を成すことができます。」

前人慈悲・・

「ゆえに模を立てると同時に、同じく修道には規矩がなくてはならない。以前から現在までずっと規矩に随って現在まで修道してきました。規矩があなたの心に合えば、心はすなわち安らかになります。規矩がもし良心にあっていなければ、心は安らかになりません。

前人慈悲・・

「模を立てるとは、規矩を守ることです。規矩は天が定めたものです、私達の造化によって定められたものです。規とは円を画く工具です。矩とは方形(̻四角)を画く工具です。規矩が正しければ、無量の模、無量の型を生み出すことができます。すでに無量の型、無量の模と言うからには、規矩が成れば無量の模を生み、無量の模は無量の型を作ります。

ゆえにもしみんなが一緒に聖賢の模を立てたなら、済渡に行く時、押印された模もすべて同じになり、天の性質に合います。これこそが整頓といいます。

整頓とは過去六万年来の汚穢は、一人一人様々で、幾千万年輪廻してきたか知れません、これらのものすべて捨て去って、頓入し、直超し、本性に入るのです。本来の面目に入ること、これを整頓転型と言います。」

・・・

『黄金比と白銀比』日本文化は実用性の文化 ドラえもんやスカイツリーの√2の大和比とは①|はせくらみゆき×小名木善行


天のデザイン(轍:わだち)

2023-11-17 18:04:09 | 道すなわち真理

決して誇張するのではなく、世界の神秘学者・由緒ある大学の研究者・宗教学者・自然科学や生物学者、そして物理や量子学の最先端に於いても「真理」が明らかになるということは、驚愕することなのです。

日本の東大や京大も皇統などの文部として「真理」の探究を最高レベルの課題としています。

それは古代に於いては、皇位を決定づける「天命」に中るからです。

もちろん紀元前600年前神武天皇から始まった天皇のは「天命」は降されず、皇統は「天皇制」として本来「天命:道すなわち真理」が有ることを継承する役割となりました。

現在、茶道・華道などの襲名制度を保っている「道」の世界には、八紘一宇などを担う隠された口伝伝承の実態があります。

人類の秘法(道=真理)その鍵がどのように伝えられてきたのでしょうか、正しい宗教の経典にはその極意が伝承されてきましたが、時代が下るほどに異端が跋扈し真実は有名無実となってしまいました。

老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が秘伝の法灯を伝授しました。

老子は、道徳経、第一章の中で「道可道、非常道、名可名、非常名、無名、天地之始、有名、万物之母、故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其竅、此両者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、」

【解釈】:道というは、常にいうその道ではない。その名でもない、名が無いが、「天地の始め」であって、その名をあえて、「万物の母」という。つねに無欲である故にその妙を観る。「天地の始め」であり「万物の母」この両者は、同じ根源から出ているが、名を異にしている。これを玄(玄関)という。玄の中の玄を、あらゆるものを生み出す神秘の中の神秘、それを衆妙の門という。(衆妙の門:多くの人々に付与された命の微妙な出入り口)、玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源、と解釈してます。

※  「玄関」と言う日本語の漢字は、中国では使われていません。仏教の経典の中にしか使わない聖なる言葉を日本語では人の出入りする「戸」のある場所、聖なる「玄関」と言う言葉を日常に使っています。

清静経では、「大道は無形にして天地を成育し、大道は無情にして、日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す。吾その名を知らず。強いて名付けて道という。」

 ※老子は道徳経・清静経・黄庭経の三経を遺しています。

【解釈】:大道は本来形象はないが、よく天を生じ、地を育てることができる。本来感情はないが日月を運行することができる。本来名称をもって表現できないが、天地間の万物を養育することができる。私自身、その名前を知らない。それで強いて道と名付けた、と伝えています。

釈迦は、弟子スプーティに「解脱に至る道(真理)は、どのような道でしょうか。」と問われ、「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一(真理)を得ることが、その一切である。」と答えました。

また、摩訶迦葉に法灯を伝える時「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す。」「粘華微笑(ねんげびしょう)、玄嚢鼻直(げんのうびちょく)」と説き、正しい法が眼の蔵(老子:谷神)にある。それは涅槃(天国)へ通じる道で、あるといえば無い、無いようである、微妙な法門である。文字を立てず(文字に表すことはない)、教えの外に別に伝える(誰にでも教えるものではないし、教えるというものでもない)、一人から一人に単伝独授するもので、これを摩訶迦葉に附嘱(一指相伝)し、その機微を顕しました。そして鼻を捻って微笑し(粘華微笑)それは鼻の玄嚢の直すぐ上である、と記しました。

達磨大師は釈迦以来の四諦句として「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」とその奥義を禅宗に遺されました。一つ一つの四字成語をよくよく観察してみて下さい。どの経典でも、これは名のつけようもなく、経典の文字をいくらあさっても解るものではないと伝えられています。

一指相伝:一を指して相伝える、直指人心:直かに人の心を指す、など似たような表現ですが、ではそれが具体的に何を意味するのかと考えると曖昧になります。つまり求めなければ得られないものの特徴です。

また、面目と言う言葉は、顔面の目と言う意味であり、すなわち「大元である」という意味ですが、熟語には「面目一如」一の如く、「面目一新」一に新(親)しむ、「面目躍如」躍するが如く、「一」に関することでそれによって改まること飛躍(脱皮)するとは…、このように日常の様々な言葉の中に「道:真理」は隠されています。

この「道」は、無形無相、無声無臭で、見ることも聞くことも嗅ぐことも触れることもできません。これが道の実体です。

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれも私(道)によらないでは、父のみもとにゆくことはできない。」 (ヨハネ伝第14章)と言いました。

※    イエスの墓が青森県三戸郡新郷村大字戸来にありますが、地名の「三戸」「戸来」あるいは「戸来人」などの「戸」の由来について論語の中で次のように解釈しています。

雍也第六:子曰誰能出不由戸何莫由斯道也

解釈:子曰く、誰か能く出づるに戸に由らざる。何ぞ斯の道に由ること莫からむ

真理を得ていない場合は次のように教訓的な解釈になります。

「誰か外に出るに戸によらないものはない、どうして、(生きるに)この道によらないことがなかろうか。普通戸の無いところから出入りすることはなく、人は、無意識的に戸を用いる。道路も、無意識的にそこを通るが、もとからあったものでなく、人々が往来するから道路となったものである。道路には通る人々により、悪しき所に通じるものも、善き所に通じるものもある。道とは、ここでは、人が生きる道のことであるが、さまざまな道がある。無意識的に生きているのかもしれないが、先人の道を辿っているものである。(周公のごとく)生きた人の道(斯道)によるべき、・・・」

孔子が伝えているのは「人間の魂はどこから来てどこへ往くのか、この戸による・・・」つまり、元きたところに帰る道のことでした。

神は、イエスによって「道であり、真理であり、命(性命=霊)」ものを証するために、十字架で磔の機会を与えました。この時の場所は「ゴルゴダの丘(しゃれこうべの丘)」でした。つまり人の頭の部分です。そしてイエスと共に2人の盗人が処刑されました。三人が同時に磔になりました。

 ※実際はゴルゴダの丘もありませんし、キリストも処刑されていません。預言者のが伝える神々の創造を真理を伝えるために聖書に印したものです。原罪の意味も同じような啓示です。皆さんもこれからあたらしい世界を創造する中で善悪を越えた伝承の必要を知るでしょう。完璧は完璧ではありません。真理が唯一です。

汝姦淫するなかれ”と言いますが、姦淫の源は目にあります。目で色を見ることで心が動じ罪を犯します。つまり左右両目は磔になった2人の罪人で比喩し、イエスは真中の十字架で〝私は真理である“ことを比喩しました。

また仏教の「如來」は、済いとは「菩薩が來るが如し」と言う意味に使います。この「來」と言う文字は「十」の字に「人」と言う文字を3人を書いた字です。つまり十字架に3人が磔になったことと同じになります。

如=女の口=玄牝之門(老子道徳経で“玄なる牝の門”と表現)

來=十(十字架)に从(罪人が2人従う)もうひとり、「人=キリスト」が真ん中にいて十字架に人が3人、3っの目を意味していました。

そして「戸」と言う文字について、聖書の中で「戸をたたく」と言う真理に関する機密の表現がありますが、「戸」の「一」の字を取ると「尸」(しかばね)と言う字になります。「一」は「点」の伸びた形で、「一なるもの」の意味です。つまり真理の表現です。「尸」が「一」を得て「戸」になる、つまりこの「戸」が「真理」を表現しています。京都の大文字焼きの「大」の字も「人」が「一」を得て「大」になる、やはり「一」が真理であることを継承しています。

キリストの墓がある「三戸」「戸來」の地名については、東北方面の方はご存知のように青森県には「一戸」「二戸」と言う地名があり、キリストの足跡が秘められていると思われます。

「戸來」は「如來」と同じ意味で、そのときがくれば十字の秘密が公開され、真理が得られることを印しています。キリストが日本に、しかも東北に来た(さらに南米に向かったと言う説もあります)ことの意義はやがて歴史の真実として明かされ、世界がひとつになり、宇宙とつながる史実となってきます。聖人はそのために足跡を残すべく天命を担っていました。

昨今、次第に歴史の真実が明らかになってきていますが、「真理」に基づいて歴史が明らかになるのはこれからです。エジプトも中国もどの古代文明もすべて十字などの形象で顕した「真理」を探求する歴史そのものでした。天のデザインは細微に渉っています。             

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性理題釋~八、人一を得れば聖

2023-11-17 18:01:26 | 性理題釋

八、人一を得れば聖

無極が動いて位置が生まれ、その一本が万殊に散って参りましたので『天がその一を得れば清となり、地がその一を得れば聖となる』と古聖が申されました。

故に、

仏教では『明心見性(めいしんけんしょう)と万法帰一(ばんぽうきいつ)』を説き、

道教では『修心煉性(しゅうしんれんせい)と抱元守一(ほうげんしゅいつ)』を説き、

儒教では『存心養性(ぞんしんようせい)と執中貫一(しっちゅうかんいつ)』を説かれました。その一とは真理であります。

人間は天の理を得て性となし、天の一を得て形をなしております。

故に先天においては、一である性が円満光明で渾然(こんぜん)とした天理であって、飲まず食わず、思わず考えず、母親の呼吸に随い、一気が流通されるのであります。

しかし生まれ落ちて、あーっという泣き声一声出してからは、陰気の二気が口と鼻から入り、理であった一は陰陽の二に分かれてしまうのであります。

先天では、ただ一つの性が、後天においては、もう一つの命を得て、性と命の二つに分かれて、各々その一を失ってしまいました。

性は一を失い、乾(けん)は変じて離(り)となりました。

離とは、はなれることでありますので、必ず分散するのであり、分散すれば又虚(むな)しくなります。

一点の霊性は舎利子(しやりし)の本位を離れてしまいますので、その本位は虚しくなる訳であります。

一点の霊性は、目に分散されて行って色を見分け、又分散して行って声を聞きわけ、鼻に分かれて行って臭いを嗅ぎ分け、口に分かれて行って飲食を味わい、言葉を話し、四肢(しし)に分散して行って動作をなし、皮膚に分かれて行っては痛さ・かゆさを知り、毛孔(けあな)に分散して行って寒暑の差を感覚し、臓腑に分かれて行って飢飽(きほう)を知り心に散じて行って六慾を産み、意に散じて七情をもちながら、東西にさすらい、酔うように生き、夢のように死んで朦朧(もうろう)とした、不安な世界へと落ちてゆくのであります。

命は又一を失い坤(こん)は変わって坎(かん)となります。

坎とは凹でありまして、凹があれば、必ず落ちるものであり、この一点の霊性は七情六慾に陥(落居)り、そして、酒色に溺れ(おぼ)れ、財気に埋(う)められて、四生六道(ししょうろくどう)の輪廻に陥って、本来の面目に立ち還ることが出来なくなります。

天が一を失えば、日月星辰(にちげつしんせい)が軌道から外れて乱れ、地が一を失えば、山は崩れ海は決潰(けっかい)し、人がその一を失えば、陰陽の虜(とりこ)となり、輪廻の陥ってしまうのであります。

性とは理でありまして、理が一を失えば埋められ、埋が一を得れば理となるのであります。

古言に『理あれば普く天下を渡り、理なければ寸歩も行き難し』と申され、理の貴い所を説かれました。

続く


弥勒真経~三十二、往(ゆ)きてまた来たりて真言呪(しんごんじゅ)を造下(つく)り 当来の大蔵経を伝う

2023-11-17 18:00:01 | 弥勒真経 解釈

往きとは凡に降ることで、来るとは天宮に帰ることである。

真言呪とは下凡(げぼん)と回天時(かいてんじ)に持する法である。

当来とは当来佛、すなわち弥勒祖師を指す。

大蔵経とは、白陽に集結された聖訓・神示・霊機(れいき)・顕化(けんげ)・記述等の集大成出ある。

つまり三才による神人の連絡法に基づいて降ろされた現代の神書であり、九経八書あるとも言われ、又無尽蔵にあるとも言われ、当来佛の天命が続く限り、この蔵書・蔵経は永(とこし)えに続く。

原子であるわれわれが理天から凡塵に降りるにせよ、又人間世界から理天に帰するにしてもひとしく真言呪を念じ持する必要がある。

今又、弥勒祖師の普度の時代において、老〇(ラウム)は更に、真言呪を造り、確率して世に使わされた。

これは下凡回天の法呪(ほうじゅ)であって中途で迷悟生死の繰り返しを免(のが)れさせる為である。

故にこれを伝える天童は往来の真の法門である。

弥勒仏は真言呪を多くに伝え、更に天の御旨(みむね)を広める為に無尽の神示と聖訓をもたらして白陽の大蔵経として伝える。

勿論、過去、青陽期、紅陽期の千万部にわたる大蔵経も原子を覚召させる上に於いての寶鑑であり、寶書である。

これらは共に当来佛の下生を証明し、大道を扶助し、大いに世に宣べ伝え続くものである。

真言呪から大蔵経に至るすべての口伝(くでん)・書伝は当来佛を援護する役目を果たしている。

続く