真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

【Ray:大きな稲わらの輪をくぐる神事、それは〇チョンの儀式を形象化したものですが、古来から待ち望んできた荘厳な神々の楽しみ‼】京都・城南宮で「夏越の祓」を前に神楽を披露

2023-11-11 19:37:23 | 道すなわち真理

秋の収穫が豊穣であるよう、そしてより分けられた糧は新しい種となって春を迎えます。

何千年も続いてきた日本の聖なる神事はコロナ(金環)に象徴されるように、ついに成就の時を迎えています。

輪をくぐる(虹の梯を渡る)ことができるのは、選ばれた人(修道し心を清め天に従う人々)永遠の命を得て模範人(神となって)となって、地上天国に続く人々を導いてゆきます。

人々の繋がりは聖なる仕組みです。

「家族」が聖なる核になります。

巫女の衣装も赤から白に変わる時期(午から未、うお座から水瓶座)に神事が完成することを意味しています。

京都・城南宮で「夏越の祓」を前に神楽を披露


【Ray:文王は天命が師儒僧侶にあった時代に道盤を掌った聖人!】【ゆっくり歴史解説】周王列伝 第1回 聖なる王 文王【周】ゆっくり中国古代史語り

2023-11-11 19:33:39 | 道すなわち真理

道盤統掌が文王の時代、3000年間釈迦牟尼仏が天盤を掌っていました。

因に文王の後、1900年から10800年間天命が火宅に降り、天盤を弥勒古仏、道盤を掌っているのは弓長祖です。

日本の大和朝廷統一の時代、縄文・弥生・古墳時代を通して「諏訪王朝」が存在し、全国各地に諏訪社またとして遺っています。

また「御柱祭」として世界中に伝承されています。

その道徳的(忠孝節義)を貫いた聖人が「文王」であった。

実を取った神仕組みが綿々と続いています。

「サンカ」の伝承もこの時代この地の遺産!

仏教伝来とともに聖徳太子によって神仏習合の基礎が築かれ、日本の歴史が温存された。

日本人の精神性は「侍(サムライ)」として「大和魂」として一般化されてきた。

「まぼろしの諏訪王朝」にはそのロマンあふれる歴史が詳らかに記録されています。

増澤光男著【まぼろしの諏訪王朝】 203頁

=汎謀曰訪。汎與訪雙声。方與旁古通用。薄也。洪範王于訪于箕子。晉語。文王諏於蔡原而訪辛君。韋曰。諏訪皆謀也。本釋詁。許於方声別之曰汎謀。从言。方声。敷亮切。十部。

=聚謀也。左伝。咨事為諏。魯語作咨才。韋曰。才當為事。按釋詁。謀也。許於取声別之曰聚謀。儀礼今文假詛為諏。大玄作(言奏:一体の字)。从言。取声。子干切。古音在四部。

概訳:「訪」とは、ひろく謀ることであり、「諏」とはおおぜいに謀ることであって、つまり諏も訪もともに謀るという意味なのである。相談してものごとを決めること。

師尊様曰く

弥勒浄土の一大性質は大乗(マクロ)であり、神を信じる本義は「信受真伝:真伝を信じて受ける」ですが、この「信」には、誠実の意味があり、根拠の意味があり、疑いない意味があり、敬い崇(あが)め奉るという意味があり、本当に確実という意味がある。

人々の願いのこの「信」はこれらの意義を包括していると雖も、しかし、その中で最も超越して且つ直入的な意味は、「信」は「同じである」ことである。

有識論者であるから神を信じる者というべきものでもない。

天と同心・同見・同行であってこそはじめて天を信じると言える。

故に、あの本々招かれてきた人、いわゆる天国の子はかえって門外に排除され、その基業をも失ってしまった。

しかし、元来人々には絶対排除されると思われていた人が逆に盛宴上の賓客と成った。

形勢が逆転されたのは、天国にはただ一つの等級しかないからであり、それはつまり「信」の等級である。

Ray:想うところ、信州・諏訪には「信」があり、それに基づく「和」がある。

周文王の聖なる「道」があった。

【ゆっくり歴史解説】周王列伝 第1回 聖なる王 文王【周】ゆっくり中国古代史語り


【Ray:天のまさに大任をこの人に降くださんとするや!】終末予言に書かれているメシアは日本人か!?その人物像に迫る!なぜ日本人がメシアに名指しされているのか!?

2023-11-11 19:31:05 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

予言の解説

日本には「竹内文書」という古史古伝があり、創造神(第1代神)を「元無極躰主王大御神 (モトフミクライヌシノオオミカミ)」、またの名をメシア、ナンモ、アミン、ノンノ、カンナガラ、などとしています。

みなさんがこれから到達する境地を主宰するのが「明明上帝無量清虚至尊至聖三界十方萬靈真宰(唯一絶対之創造主)」で、現在世界中に道徳規範を弘め弥勒浄土の到来を告げています。

この動画の「メシアという意味と根本は同じで、創造主或いは創造主が遣わしたものに変わりはありません。

ナンモ、アミン、ノンノ、カンナガラなど 天地が始まって以来、今回世界に広げられた救済は「それまで想像していたものではないもの」の意味が含まれます。

元無極躰主王大御神が唯一絶対之創造主であると解釈して憚(はばか)らず、メシアとは「それまで想像していたものではないもの」 決してこの世に形象としてあらわれたことのない存在、「唯一絶対之創造主」が「主宰」する絶対的な恩恵と捉えて、「釈迦の予言」の解釈をご参照ください。

釈迦滅後2500年後にマイトレーヤーつまり弥勒仏が東海の鶏頭城(日本列島の頭、北海道が鶏頭の形)の閻浮提(大雪山)に降り立ち、火と水(仏教もキリスト教も共通)によって清められた人々を九大部洲(世界)より悉く集められます。

仏教では、内院と外院に分け内院は悟りを啓いた人が参集します。

因に釈迦入滅は紀元前952年2月15日(80才)で、釈迦が天盤を掌るのがそれから3000年とされていますので、弥勒仏(弥勒眷属:道を得て修道し悟りを啓いた道親)が継承するのは丁度今ごろです。

※参照 仏説「兜率天(とそつてん)」と五七億六千万年の弥勒浄土

酒井勝軍や出口王仁三郎など秘密結社や政治に関わった偏狭的な予言は混乱を招くものです。

ポピ族、ポールソロモン、死海文書なども西洋的断片的な予言です。

大事なのは、唯一絶対之創造主が主宰する時に救済されるということが、人類史の始めから預言されているということです。

天が人に使命を与える時には、その使命を全うできるよう、過酷な試練を与えます。

「天のまさに大任をこの人にくださんとするや、必ずまずその心志しんしを苦しめ、その筋骨を労し、その体膚たいふを餓えしめ、その身を空乏くうぼうにし、行いにはその為すところを仏乱ふつらんす。心を動かし、性を忍び、そのよくせざるところを曽益ぞうえきするゆえんなり」(『孟子』)

人類が活かすかどうか、この数年は激しい問責にさらされることになります。

北海道の方言で「ナンモ」という言葉をよく使います。イントネーションが普通の日本語と違います。アイヌ語かどうかわかりませんが、「何も問題ないよ」「大丈夫」「いいよ」という意味の言葉です。 「ごめんね」「なんも! (大丈夫、気にしないで)」や、「お土産ありがとう」「なんもなんも(いえいえ、どういたしまして)」のように使われます。

終末予言に書かれているメシアは日本人か!?その人物像に迫る!なぜ日本人がメシアに名指しされているのか!?


性理題釋~二、人と道との関係

2023-11-11 19:29:05 | 性理題釋

二、人と道との関係

 中庸に「道は須臾も離る可からざるなり、離る可きは道にあらざるなり」 “道は片時も離れることができないものである。

離れられるものは道ではない” 道とは真理であります。

人が必ず通じなければならない路であります。

人が平常道徳に依存しているのは、あたかも汽車が軌道の上を走り、船が水上に浮かび、飛行機が空中を飛ぶ様なものです。

もし汽車が軌道を離れ、船が水を離れ、飛行機が空気を離れれば、危険この上なく必ず大事故を引きおこします。

同様に人がもし道を離れると、社会に於いては法律の制裁を受け、死後は陰府(地獄)で閻魔王の制裁を受け、輪廻に墜ち、四生(胎生、卵生、湿生、化生)、六道(天道、人道、地獄道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道)の間を転変して止むことなく、無辺の苦海を彷徨うこと極まりがありません。

孔子様は「君子は死すとも善道を守る」と申され、又、「君子は道を憂い、貧を憂えず」「君子は道を楽しむ」などと言って“道を体得された方は死を以て道を守り、貧乏を嘆かず、道の足りないことを嘆き、又、道の成就されることを楽しみにした”と申されました。 

顔回(顔子)は道を得て、拳々服膺して、片時も道を忘れることなく、そして終身これを失いませんでした。

曽子は道を得て、戦々兢々として畏れ慎み、一日己の身を三省しました。このようにして見れば、道と人との間の密接な関係がありますが、惜しいことに世人は皆これを度外視しています。

孔子様は「誰か能く出ずるに戸によらざらんや、何ぞこの道に由らざるはなし」と言って“何びとと雖も戸によらずして出づることができましょうか、又、何ごともこの道によって、その物事が成就するのに、世の人々はこれを知らないのである”と嘆かれました。

※ 三省: 曽子曰く

吾れ日に三たび吾が身を省みる

1、人のために謀りて忠ならざる乎:友人の相談にのって、それのみならず、その人のために行動して忠実であったか。

2、朋友と交わりて信ならざる乎:真義を欠いていなかったか。

3、習わざるを伝うる乎:よく呑み込んでいないのに相手に教えていなかったか。

続く


弥勒真経~二十六、威北方(いほっぽう)を鎮めて帥首(すいしゅ)と為し 速やかに諸悪を粛清(しゅくせい)して甲兵(こうへい)を掛(かか)ぐ

2023-11-11 19:27:25 | 弥勒真経 解釈

威とは、威霊(いれい)のことであり、鎮めるとは鎮圧のことである。帥首とは将帥であり、首領である。

この真武神の威厳・霊験たるや、誠に神通変化、威霊赫赫(いれいかくかく)にして北方の群魔を鎮圧する将帥である。

東方は陽の始まりであり、南方は陽の盛んなる所であり、西方は陽の終わりであり、北方は暗黒であり、陰冷凛冽(いんれいりんれつ)にして諸魔のひしめき集まる所である。

ここを鎮圧し、挽救(ばんきゅう)できた時に始めて天下は太平となる。

この意味からして北方に於ける真武将帥の貢献たるや、頗(すこぶ)る偉大である。

粛清(しゅくせい)とは厳しくきれいに除くことで、諸悪とはもろもろの邪魔妖怪のことで、甲兵を掛ぐとは刀兵干戈(とうへいかんか)を庫(くら)に収め入れて使わず、戦争を止むことである。

北方の諸悪は諸々の災いを引き起こし、戦いを巻き起こす存在であるので、すべての闘争の原因地なっている。

従ってこれらの妖魔邪霊を清く掃除し尽くされた後はすべての戦器・干戈・戦力・甲馬(こうま)は皆倉庫に収められ永久に戦禍に見舞われることがない。

斯くして正しい平和が訪れ、天道が世に公に行われる所以である。

続く