真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

道の真象~すべては一点に帰す (霊の故郷に帰る7次元への道)

2022-11-08 20:23:18 | 道すなわち真理

5次元での統合によって、核(中心となる点)が明らかになります。それが陰陽界を統べる道すなわち真理です。

天地の始めは、これというなんら形のない混然としたもので、声もなく、臭いもない、極めて虚にして、神なる実に無一物の境地でした。

道教の祖、老子様は「無名にして天地の始め、有名にして万物の母」と申されましたが、これを表現しようがないので、天地の始めを「○」にかたどり、万物の生ずる状態を「一」にかたどりました。

ー万教帰一(すべての教えは「一」に帰る)ー

道は大にして無名であり、故に『強いて名づけて道という』と申しました。

又、道は大にして無形であります、故に『強いて圏「○」を以ってこれをかたどった』のであります。

では、圏「○」はなんであるかを追求しますと、一の静止した姿で、虚なる「一塊の真理であり、又道の全体であります。

一は圏の動いた姿であって、宇宙一切万物を生じる母体であり、万物はその実在の現れであります。

これを「一本は万殊に散る』と言い、又『道の達用』と申しております。

圏が動いて一が生じ、一が縮まれば点「・」となり、点「・」を伸ばせば一となります。

そこで実に圏と一と点は動静と伸縮の違いであり、変化して極まりないものであります。

これを放して拡大すれば六合「東西南北上下、すなわち天地宇宙」を満たし、無際限の状態で伸長するので「一」を以ってこれを表し、又、之を巻いて縮小すれば密(極めて微細なもの)にも蔵められるので点「・」で表現したのであります。

拡大すれば大にして外になく、縮小すれば小にして内にありません。

故にこの道は天地に行きわたり、一切の万物を含んでいるのであります。

実に不可思議な働きをするので『真空妙有』と申されましたが、あらゆる万物の生霊を支配する主宰者であります。

ー神道の真象も同じー

この主宰者は天にあれば「理」と呼び、人に宿れば「性」と名づけられます。

そこで理とは万物の本体を統一するところの性であり、性とはあらゆる物の各々が具有する所の理であります。

人々は各々その性をもちながら、その有ることを知りません。

若し、この性をお把握することが出来れば、大悟した神聖の境地になられます。

然し、これに反して理を迷い、性を把握することがなかったならば、鬼魂の世界に落ちなければなりません。

故に『千経万典は一点に如かず』と申しまして、如何に多くの経典を読んでも、「名師の一点」を欠いては、何もならぬと申されたので、「一点」が如何に大事であるかを知ることが出来ます。

この「一点」は、孟子様の四端 『惻隠の心即ち仁の端、羞悪の心即ち義の端・是非の心即ち智の端、辞譲の心即ち礼の端』を統一し、その中に万善を包含しているのであります。

これを図表すれば縦は智と礼になり、横は仁と義になりまして、四端の交差する中心に信があるわけであります。

孔子様は 『人にして信なければ、その可なるを知らず』と申され、人間にもし信がなければ、何事もあてになるものではないと申して、この重要性を説いた訳もここにあります。

ーキリスト教はじめ古来すべての十字架が示すのは十字の中心の「点」ー

又、その重要性を縦に書いて「|」となし、横に書いて「─」としたのは体と用(本体とその働き)とを十字の形に現して、その縦には経と理が、横には緯と数が入るのでありますが、この意味を深く玩味し、探究するならば、誠に極まりないものがあります。

故に老子様は清淨経に『大道は無形にして天地を生育し、大道は無情にして日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す』と申されました。

道は未だ天地が成立せぬ時、その本体を立てられ、既に天地が形づくられてからは、その運用を拡大して天地万有に及ぼしたのであります。

ー道の淵源ー


性理題釋~六、超生了死

2022-11-08 20:19:43 | 性理題釋

六、超生了死

順治皇帝(じゅんじこうてい:清国初代の天子)が出家される時にうたわれた詩に『未だかって我生まれざるに誰ぞ我なる、我生まれし後我ぞ誰なる、長大し成人して方(まさ)に我を知る、眼を合わせて朦朧(もうろう)なれば又これ誰なるぞ。

来る時糊塗(こと)にして去る時迷い、空しく人間に生まれて一生を送る、來ざるは去らずに如かず、亦煩悩なければ亦悲しみなし』とあります。

鬼魂(きこん)は生まれることを恐れます。

しかし時が来たら生まれずには入れません。

又人が死をいといますが死なない方法がありましょうか。

故に荘子(そうし)が『我本より生まれるを願わざるに、忽然(こつぜん)として世に生まれ、我本より死を願わざるに、忽然として死期至なり。』とありますが、人は死んで又生まれ、生まれて又死んで行く間に、真と仮を区別することが出来なくなり岸辺のない苦海を流浪するのであります。

死を終えようと願うならば、先ず生を了(りょう)することであり、永久に生を終えようと願うならば、必ず先ず生を超越することであります。

もし、明師に廻り遇い、大道を直指(じきし)して頂き、地府の名を抽(ぬ)き、天堂(天国)に号を掛けることが出来るならば閻魔王を免れ、無常の手に落ちることがないのであります。

もし、三期末劫でなかったとしたら真道は降りず、真道が宏まらなかったとすれば、超生了死即ち生を超越して死を終えることは、誠に難しい事であります。

故に経典に『鉄鞋(てっかい)を踏破(とうは)するも覓(もと)める処なし。

得来れば全くの工夫を費やさず』とありまして、始めの句は過去に於いて鉄製の鞋を踏み破る程、道を尋ね求めても、求める所がなかったとあり、後の句は道が普度された今日では、全然工夫も難行もすることなく、得られると言う事でありまして、まことに道の普伝の意味を表した言葉であります。

続く


五戒~六、酒戒(二)最終回

2022-11-08 20:17:23 | 五戒~活仏師尊慈訓

酒戒(二)

(11)善人が遠くなり悪人が近づきます。…類は累を呼びます。共に集まったのは皆、酒肉の友達です。

(12)心身が散乱し、正定から遠く離れる。…新進は定まることができずに、いつも非現実的なことを考えます。

(13)非法をたくさん行い、正法から背く。

(14)思うようにいかないことが多くあり、憂いや苦しみが増加する。…戒を犯した後、良心は安ずることがなく、恐怖に襲われ、心に気にかかることがあり、心が平らかにならない。

(15)時間を無駄にしてしまい、悪習はなかなか改めにくい。

(16)身体を壊し、命が亡くなり、死んだ後地獄に堕ちる。

三、病気を治す必要のために、薬の中に酒をまぜても大丈夫ですが、酔わないようにします。

外用薬に酒を加えても大丈夫です。

四、ポリタビンなどの酒精成分の含んでいる薬は飲んではいけません。

飲むと非常に強壮(強健)で淫慾が増加するのでよくありません。

五、酒戒を犯す果報

(1)神智はすがすがしく、静かで落ち着き安寧です。将来講師となり、判断力があり、思いが乱れず、ぼんやりとせず又、精神が分裂しません。

(2)四重を善持して重罪を犯しません。…殺、盗、淫、妄の四戒を持戒するのが容易になり、更に重罪を造りません。

(3)来世は天道の人として生まれ、三途に堕ちません。

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弥勒真経~三十一、無皇(ラウム)の勅令(勅令)を下生に寄せ 南閻(なんえん)を収伏(しゅふく)して正宗(せいそう)に帰す

2022-11-08 20:15:33 | 弥勒真経 解釈

無皇の勅令とは、老〇(ラウム)の至上命令である。

下生に寄せとは弥勒古仏の世に下る時に言付ける指令であり、収伏とは収め伏する意味である。

南閻とは仏典では須弥山(しゅみせん)の南方にある大洲(おおす)で、閻浮提(えんぶだい)とも言うが、この場合は地球上を指す。

正宗に帰すとは千門万教を根本に統べ、祖師を認め、天道に帰らせることである。

道の普伝を主す弥勒古仏は三陽の御代(みよ)に、老〇(ラウム)の特命を奉じ、老〇(ラウム)の言付け勅令を頂いて下生し、更に諸々の原子達を警(いま)しめ、一日も早く悟り、迷塵(名人)を破って、正宗に帰一するよう尽くされている。

仙仏が臨壇したり、或いは各方に顕化(けんげ)し、奇蹟を顕したり、あらゆる形に寄せて衆生を目覚めさせているのは均しく老〇(ラウム)の御心を心としての働きであり、老〇(ラウム)の大辯者(だいべんしゃ)であり、真理の証者である。

自分の意識ではなく、天の御意を伝えているに過ぎない。

これらの働きによって地球上に充満せる千門万教を収め伏するのであるが、目的は一つ、共に天命に従い、正法を信じ、祖師を認め、揃って正宗に帰依させるが為である。

地球上隅々まで収められて真なる天道が顕揚(けんよう)されるのである。

続く