真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

弥勒真経~三十二、往(ゆ)きてまた来たりて真言呪(しんごんじゅ)を造下(つく)り 当来の大蔵経を伝う

2022-08-15 21:21:03 | 弥勒真経 解釈

往きとは凡に降ることで、来るとは天宮に帰ることである。

真言呪とは下凡(げぼん)と回天時(かいてんじ)に持する法である。

当来とは当来佛、すなわち弥勒祖師を指す。

大蔵経とは、白陽に集結された聖訓・神示・霊機(れいき)・顕化(けんげ)・記述等の集大成出ある。

つまり三才による神人の連絡法に基づいて降ろされた現代の神書であり、九経八書あるとも言われ、又無尽蔵にあるとも言われ、当来佛の天命が続く限り、この蔵書・蔵経は永(とこし)えに続く。

原子であるわれわれが理天から凡塵に降りるにせよ、又人間世界から理天に帰するにしてもひとしく真言呪を念じ持する必要がある。

今又、弥勒祖師の普度の時代において、老〇(ラウム)は更に、真言呪を造り、確率して世に使わされた。

これは下凡回天の法呪(ほうじゅ)であって中途で迷悟生死の繰り返しを免(のが)れさせる為である。

故にこれを伝える天童は往来の真の法門である。

弥勒仏は真言呪を多くに伝え、更に天の御旨(みむね)を広める為に無尽の神示と聖訓をもたらして白陽の大蔵経として伝える。

勿論、過去、青陽期、紅陽期の千万部にわたる大蔵経も原子を覚召させる上に於いての寶鑑であり、寶書である。

これらは共に当来佛の下生を証明し、大道を扶助し、大いに世に宣べ伝え続くものである。

真言呪から大蔵経に至るすべての口伝(くでん)・書伝は当来佛を援護する役目を果たしている。

続く


性理題釋~六十、聖賢と愚凡の区別

2022-08-15 20:48:25 | 性理題釋

六十、聖賢と愚凡の区別

聖賢(せいけん)と愚凡(ぐぼん)を分ける理は、大変簡単に明らかにすることが出来ます。

それは人間各々の気稟(きひん:気質)が同じでなく、物慾の異なることに因って、理性の発展が違うからであります。

気稟が浅く、物慾が少なければ、理性の発展が強く、志を立てて古聖(こせい)や先賢(せんけん)の法を効(なら)う者は、即ち聖人賢人であります。

然し、気稟は深く、物慾が多ければ、理性の発展が弱く、鏡花(きょうか)のような仮景(かけい)を貪恋(どんれん)する者は、即ち愚人(ぐじん)凡夫(ぼんぷ)であります。

言葉を換えますと、誰でも気と慾にうち克(か)って理性を明らかに復(かえ)す事が出来れば、即ち聖賢であり、気と慾にうち克って理性を恢復(かいふく)することが出来なければ、即ち愚凡であります。

譬(たと)えば、明るい鏡の本体は原来純明(がんらいじゅんめい)でありますが、然し、時の経過が多ければ、段々と塵埃(じんあい)がついて来て、もしも洗ったり拭(ふ)いたりしなければ、その明鏡(めいきょう)も決して再び明るくなることはありません。

人の理性も又この通りであります。

故に儒教では『存心養性(ぞんしんようせい)』を説き、道教では『修心煉性(しゅうしんれんせい)』を説き、又釋教(仏教)では『明心見性(めいしんけんしょう)』を説かれましたが、その法は同じからずと雖(いえど)も、人に理性を恢復(かいふく)せしめることを教える所は即ち一つであります。

続く


十大願~四、退縮不前:退歩して進まず

2022-08-15 20:42:13 | 十大願

退歩即墜陥穽中 退歩せば即ち陥穽(かんせい)の中に堕(お)ち

縮念莫忘自心情 縮念(縮年)するも自心(地震)の情を忘(わ す)るる莫(な)し

不与世俗争好歹 世俗と好歹(こうたい)を争わず

前程速奔有光明 前程の速奔(そくほん)せば光明有り

:修行に嫌気を抱いてこの世で迷えば、陥穽(かんせい:地獄)に堕ちます。

その道念が縮(ちじ)まる時も自分の心情を忘れてはなりません。

このように慎んでいるならば、世の中での功名貨利(こうみょうかり)を争わずに、修道の前程に向かって奔(はし)れば前途に光明が待っているのです。それで

一、求道した後に、我が性は天から賦(あた)えて下さったのだから、更に徳を立て功を立てることに勤めるに、精進、忍辱(じんじょく)、持戒(じかい)、布施、禅定(ぜんじょう)、智慧の六波羅蜜(ろくはらみつ)を究めて、明心見性(めいしんけんしょう)に至らし、明善を初(もと)に復(か)えすには試練を畏(おそ)れず、奮門(ふんもん)して一歩一歩と踏み締めて、怠(おこた)らず畏れずに勵(はげ)む可(べ)し。

二、犯しやすい缺点(けってん)

1,志恒(こころざしつね)ならず:始めは勤めているが終(つい)に怠(おこた)り、好奇心に躍(おど)って奇跡なければ退き、行いては輟(やす)み、試練を畏れて退縮(たいしゅく)す。

2,無形に昧(くら)し:天道の修持(しゅうじ)は自然で形なく、人道を尽くして天道に合わし、左道(さどう)の奇法(きほう)や異術(いじゅつ)はない。故に己の心を修めて性を養い、衆生を教化することで、もしも只(ただ)奇異(きい)を求めるならば、これは皆道とは縁がなく、菩提心を断つことになる。

3,声色名利(せいしょくめいり)に迷っている:世間に住んでいるからには、世間の財貨を用売るのだが、その取ると捨てるにも寸分があり、これを把握できずに只時勢の波に随(したが)えば、今まさに智慧の試練に値(あたい)しているので、利を貪(むさぼ)れば利が現れ、財が欲しければ財が得られる時である。若(もし)も試練がなければ、どうして九品(くぼん)の蓮台(れんだい)に分けられようか。

三、学びては逆流を行く船の如し、速やかに悟りて退(しりぞ)く莫れ。

唯(ただ)道を行いて天恩に報い、将に親心を水に流す莫(な)し、理天の路は遠けれど、一歩行けば一歩と近し。眞道に試練は古(いにしえ)よりあり、黄金百煉をへて光澤(こうたく)顕れ、玉も磨(みが)かずば光なし。

疾風(しっぷう)の中に勁草(けいそう)あらわれ、百折(ひゃくせつ)を歴(へ)て英雄出ずる。始終(しじゅう)志を定めて立ち、中途半端は残霊(ざんれい)となる。

続く

 


【Ray:銀河コマンド星間艦隊は数少ない光の銀河連合です!】【光の銀河連合】「闇から光へ転じたレプティリアンからのチャネリング・メッセージ」【銀河コマンド星間艦隊】

2022-08-15 14:33:45 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

動画の9:55/15:05をご覧ください・

「あなたは源の全体性、内なる一体性、そして浸透する光を発見するためにそこにいるからです。」

翻訳にたいへん苦心されていますが「理」に叶っています。

根源創造主とあなたの一体性を繋ぐ光の発見の為にそこにいる」からです。

つまり、古代の聖人が探し求め到達した求道の儀式、すべてに通ずるその光によってあなたの顔面にある玄関を啓くために、そこに対峙していることを言っています。

魂の根源に近づくアセンション、そして根源への帰還という創生以来の目的を果たす過程です。

そのクライマックスは、唯一絶対の根源創造主の主宰による、「三宝」伝授の恩恵に佳くするわけです。

注目すべきは宇宙の組織の中でも、目的を正確に知っている光の連合は限られている、ということです。

地上に於いても、先導する役割を以て人間として目覚め始めている人は地球人口の数パーセントで、その私達は慎重かつ確実に役目を遂行していかなければなりません。

先祖をはじめこの日の為に生き抜いてきた宇宙の同胞の為にも存在の意義を顕す時は今だからです。

今、スピリチャルメッセージを降ろしているチャネラーもほとんどが、この数パーセントに入っていません。

先般、ブロッサム・グッドチャルドの宇宙連合を最後の掲載にしたのも一例です。

今のところ自分の内面に最大の注意を払い、その時が来るのを待つことになります。

宇宙の一部の光の存在も同で、究めて緊張した時期に入っています。

謙虚で静かな存在、その光が輝きだすときが日本再生の時です。

【光の銀河連合】「闇から光へ転じたレプティリアンからのチャネリング・メッセージ」【銀河コマンド星間艦隊】


不二の法門(二つとない唯一の眞法)

2022-08-15 08:55:17 | 道すなわち真理

釈迦古仏は六時経(時代を六時に沿って「道すなわち真理」を根本にした経を説法なされました。 

華厳経・碧厳経・維摩経・阿含経・般若真経・法華経です。

華厳経は悟りを啓いた世界を説法され、日本では東大寺を中心に普伝されましたが、今日でも天の機密は封印されたまま温存されています。

最期の法華経は、日蓮宗など数多の新興宗教で取り入れられていますが、多くは本筋を離れ観光施設や葬式仏教に成り果てました。

中でも、維摩経の内容として特徴的な表現に、不二法門(ふにほうもん)といわれるものがあります。

地球の臍と言われる富士山も不二山と云われてきた由縁です。

不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではないということを説いています。

不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間出世間無我生死(しょうじ)と涅槃煩悩菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという考えです。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。

したがってこれを不二の法門に入るという見方です。

これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかったと云います。

文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆しました。

この場面は「維摩の一黙(目)、雷の如し(稲妻の如くその時その師が顕れる)」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案になっていますが、

禅の開祖、達摩大師は、四諦句でこのことを

不立文字 :文字には表さない

教外別伝 :教えの外に別に伝える

直心人指 :心を直に指す

見性成仏:によって、性(仏性)を見て仏と成る

と伝えました。

つまり、釈迦が菩提樹の下で、宵の明星の光をかりて、燃灯佛から伝授されたように、明師にめぐり逢い、一切の教えを超越して、天命を授かることがなければ、悟りには至れないということを遺され諦めの境地を正しく伝えました。

故に、釈迦入滅以後の仏教世界では諸々の考察がなされましたが、真実に立ち返るには、大乗経により時を待ち、天道にめぐり逢わなければならないわけです。

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