真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

達摩大師伝

2022-07-25 23:47:07 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝
Ray:神光というのが禅宗の初代祖「慧可」です。

三.大師、神光と問答す

大師が中国各地を遍歴していた頃の洛陽は佛教の非常に盛んな都であって、そこに当時名僧と謳われた神光(しんこう)が在住していました。神光は經典を講じ説法をすること四十九年、当時百萬もの弟子がいるとの噂を聞いて大師は、神光を先ず救おうと思いました。そこで密(ひそか)に聴衆の一人に身を窶(やつ)して、法座の傍に参りました。

神光は聞きしに勝る雄弁家で、それを言葉で形容すれば『天より花が乱れ落ち、地より金蓮が湧き出で、泥牛(でいぎゅう。泥で作った牛、これがが海に入れば、元に返れないことの例えとなる)が海を越え、木馬が風に嘶(いなな)くが如し』と言う状態でした。それ程までに神光の説法はずば抜けて秀で、聴衆の心を掴んで放しませんでした。

大師は道脈が神光に繋がることを直ちに察し、彼に道を傳えねばとの思いで神光の前に姿を現わされました。神光が説法を終えて気が付くと、目の前に色黒の髭面で目のギョロリとした一風変わった姿の僧侶がいるので、その人に向かって問いを発しました。

神光「老僧は、何処(いずこ)から来られたのですか」

大師「遠くない所から来ました」

神光「遠くない所と言われたが、今まで見たお顔ではない。何処の生まれですか」

 神光は鋭敏な人ですから、百萬の弟子があっても毛色の変わった大師には直ぐ気が付いたのです。大師は、前と同じように人を食った言い方で

「暇が無いから、今までここへ来たことはない。或るときは山に登って霊薬を採取し、また或るときは海に入って珍宝を採取して一座の無縫塔(むほうとう)を修造している。まだ功果が完成していないので、今日は閑(ひま)をみてここへ来た。あなたが慈悲深い經文を講ずるのを聴きたいと思う」

 神光は大師の言葉を聞いて心中不可解な思いに満たされましたが、根が眞摯で率直で徳の高いお方ですので、「お經を聞きに来た」との言葉に早速經典を取り出して展(ひろ)げ、一生懸命に説法し始めました。大師は腕組みをして黙って神光の説法を聞いていましたが、説法が終わるや否や

「あなたが説かれたのは何ですか」

と訊ねました。全く説法を聞いていなかった人のような問いなので、驚いた神光は

「私の説いたのは法であります」

大師「その法は、何処にありますか」

神光「法は、この經巻の中にあります」

大師「黒いのは文字であり、白いのは紙である。その法は、一体何処に見ることができましょうか」

神光「紙の上に記載されている文字に正しい法があります」

大師「文字の法に何の霊験がありますか」

神光「人間の生死(しょうじ)・生命を解脱させる法力が潜んでいます」

すると大師は、言葉を継いで

「今あなたが説かれたとおり紙の上に載っている法が人の生命を生死輪廻から救う効験があるとするならば、ここで私が紙の上に美味しそうな餅菓子の絵を描いてあなたの空腹を満たしたいと思うが如何ですか」

 神光は驚いて

「紙の上に描かれた餅がどうして空腹を満たすことができましょうか」

大師「然り。紙上に描かれた餅が空腹を満たすことができないと言うのであれば、あなたが説かれたところの紙上に載っている佛法が、どうして人の生死を救い輪廻を解脱させ涅槃(ねはん)の境地に至らすことができるのですか。あなたの説かれていることは、元々無益です。その紙の巻物を私に渡しなさい。焼き捨ててしまいましょう」

 そう言われた神光は顔色を変え、声を荒げて

「私は經を講じ、法を説いて数え切れないほどの人々を済渡しています。どうしてそれを無益と言うのか。汝は佛法を軽んじているのか。佛法を軽賎する罪は甚だ重いことを知らないのか」

大師「私は、決して佛法を軽賎したりしてはいません。あなたこそ佛法を軽賎しているのです。あなたは全く佛の心印・心法を究めていないだけでなく、ただ徒らに經典や説法に執着し、その字句や題目に囚われ、偏った法の解釋をしているだけです。とどのつまり、明らかにあなたは本当の佛法がどういうものであるのか解っていないのです」

 神光は大師の説く理論を聞いて頗る不愉快となり

「私に法が解らないと言うなら、どうぞあなたが私に代わって台に登り法を説いて下さい」

と吐き捨てるように言いました。

大師「私には、説く法はありません。ただ言えるのは、一の字のみです。私は、西域からわざわざこの一の字を持って来ました」

神光「その一の字とは何ですか」

大師「その一の字は、たとえ須彌山を筆とし、四海の水で墨を磨り、天下を紙としたとしても書き写すことができません。そもそも、この一の字の形を描くことはできないのです。形も影もないから、見れども見えず、描けども描けないのです。もし或る人がこの一の字を識り、これを描くことができれば、その人は生と死とを超越することができます。本来形象はないが、春夏秋冬の四季を通じて常に光明を放つことができます。この玄中の妙、妙中の玄を知り得る人があれば、間違いなく龍華會(りゅうげえ)において上人(しょうにん。ラウム)と會うことができましょう」

 神光はこの大師の言葉の意味を理解することができず、怒りが込み上げてきました。大師は、続いて次のような偈(げ。詩)を作りました。

「達摩、元は天外天(理天)から来た。佛法を講ぜずとも仙人となる。

 萬巻の經書、全て必要とせず。ただ僅かに、生死の一端を提(と)る。

 神光、今までよく經を講じてきた。智慧聡明で多くの人にこれを傳える。

今朝(こんちょう)、達摩の渡(すく)いに逢うこと無ければ、

 三界を超えて生死を了(お)えることは難しい。

 達摩は西方からやって来たが、一字も携えてはいない。

 全く心意に憑(たよ)り、功夫(くふう)することあるのみ。

 もし紙上によって佛法を尋ねようとするならば、

筆尖(ふでさき)を浸しただけで、洞庭湖(どうていこ)も干上がってしまうであろう」

 この偈を聞いた神光は、辱められたと思い、烈火の如く怒り、手に持った鉄の念珠で大師の顔を殴り付けました。お經も碌に講ぜられない坊主が傲慢にも長年人々を感化してきた自分の説法を嘲笑したとの思いで、憤りが更に倍加したのです。

 顔面を強打された大師は前歯が二本も折れ、口の中に血が溢れ出ました。大師は思わず口の中の血を吐き出そうとしましたが、この地方が三年も続く旱(ひでり)に見舞われるのを懼れて止めました(註。無実の罪を受けて流した聖人の血は、その地方に三年間の旱魃を齎すという言い傳えがありました)。しかし折られた歯や口中の血を呑み込めば、たとえ自分の流した血であっても三厭(さんえん。飛禽〈鳥類〉走獣〈獣類〉水族〈魚類〉の総称、一般に動物の血肉を指す)に違いないため五臓の戒めを破ることになります。

 進退窮まった大師は、歯と血を含んだままその場から離れ、西に向かって歩を進めながら、また偈を作りました。

「達摩、血を含んで言葉を発することも儘(まま)ならない。

神光が我が意を全く認めようとしないのは、理解に苦しむ。

 船は川岸に着いたものの、人を度(すく)うのは難しい限りである。

 一見縁がありそうであっても、実際に縁ある者はいないものである。

 武帝も神光も、共に高徳の士である。

 然るに、何故西方から来た道根に気が付かないのであろうか。

 この出會いを看過すれば、再びこの縁に巡り會うのは難しく、

 永久(とこしえ)に紅塵に埋没されることとなろう」

 こうして大師は、一旦洛陽の神光の許を離れて郊外に去り、そこで袖を展げて口に持っていくと、折れた歯は元通りになり、血の跡もなく傷もたちどころに完治して綺麗になりました。しかし大師は、人を救うことは容易でないことを痛感していました。

 二箇所で人を渡す機會を失った大師は、縁の薄い人たちを只々嘆き哀しむのでした。そして旁門(ぼうもん。正道以外の分派・別派、宗教宗派の類)の恐ろしさを嘆じて、次のような偈を作りました。

「旁門を歎く。字のある法は口先で論談するのみである。

 ただ習うのは口頭の禅であって、生と死を究めることはない。

 修行する人はあっても、無字眞經(正法)を知ることはない。

 衆生に講ずるのは、偽道・邪道のみである。

 道教・儒教・佛教を修める人であっても、死を了え生を超える道を究めることはない。

 假(いつわ)りの僧道は、概ね鼓打唱念を習うのみである。

神光でさえも、ただ単に講を説いて満足するのみ。

 弁舌爽やかに講ずることは出来ても、性命を了えることは難しい。

 遂には十殿閻君(じゅうでんえんくん。地獄十殿主宰神の総称)を免れることが出来ず、地獄に堕ちることとなる。

眼を挙げて旁門の内にいる無数の人等を観ずれば、心經を窺(のぞ)き、道を訪れ、修行する人幾人(いくたり)もおらず。

 われ今日、神光を度おうとしたものの、彼もまた縁分なし。

 何処か別の所に行けば、初めて縁ある人に巡り合うことが出来よう」

 続く


菩提達磨大師(ぼだいだるまたいし)が慧可に道を伝える図

2022-07-25 23:06:55 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

不立文字:文字を立てず、つまり文字に表さない

教外別伝:経典の教え以外の方法で伝える

直指人心:人心(本性)を直に指す(天命)

見性成仏:本性を見て成仏できる

釈迦仏典・法華経の正法眼蔵、正しい法は眼の蔵にある、と同義ですが、当時、熟達者は人生において求道こそ究極の醍醐味であることを分かっていました。

しかし、秘密法であったため、今日までその秘儀は公開されていませんでした。

以下の記載から事の重要性を推察して頂きたいと思います。

本Blogのカテゴリー「達摩大師伝」に秘儀伝授の先天(天が監修した内容)の内容を記載しています。

転載:寺院センター https://jiincenter.net/bodhidharma/

京都博物館

  • 雪舟筆
  • 紙本墨画淡彩
  • 199.9×113.6
  • 室町時代(1496)
  • 愛知 斎年寺
  • 国宝

投稿日:0528年10月5日 更新日:

お釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師は、西インドから中国に至り、大乗仏教をもたらしたインド人僧侶です。震旦初祖、円覚大師とも呼ばれ、達摩と表記される場合もあります。達磨大師の伝記に関しては諸説ありますが、禅宗の伝統的な見解では、中国の梁の時代・普通8(527)年に南海より広州(広東省)に上陸し、梁の都・建康(南京)に来て、武帝(蕭衍)と問答を交わし、帝との機縁がかなわず北に渡り、洛陽(河南省)郊外の嵩山少林寺というところで面壁九年の坐禅を修行され、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の宗旨を標榜し、禅宗の初祖と仰がれています。

また、達磨大師は南インドのチェンナイから数十キロ南西の町、カーンチープラム(タミルナード州)(中国の記述でいうところの「香至国」)という都でパッラバ王朝の第三王子として生れたといわれています。パッラバ王朝の王は仏教を厚く信仰しており、ある時、お釈迦さまから26代目の不如密多(ふにょみった)尊者から法を受け嗣ぎ衆生済度のため、東インドから南インドのカーンチープラムに来ていた、お釈迦さまから27代目の般若多羅(はんにゃたら)尊者に高価な宝珠を布施しました。その時、同席していた第三王子の受け答えを見聞し、法嗣となるべき人物だと知ったいわれています。やがて王が亡くなった時に皆は泣き叫びましたが、第三王子は棺の前で定に入り、七日を経て出定すると出家することを求め具足戒を受け、般若多羅尊者の法を得て菩提達磨となったといわれます。

面壁九年の坐禅を行った嵩山少林寺は洛陽の東にありますが、達磨大師は洛陽の西にある熊耳山で10月5日に論敵の毒殺によって亡くなられたといわれています。達磨大師の不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の宗旨は、文字や経典をたよらずに、仏の心(正法)を、師匠から弟子へと直接伝えていくということであり、弟子に伝えられて今日に至ります。また、達磨大師の正法をさかのぼれば、お釈迦さまに行き着くことになり、達磨大師の正法は、お釈迦さまの正法と同じということです。

生誕 

命日 永安元年10月5日(528年11月2日)


性理題釋~四十二、縁份(えんぶん)

2022-07-25 19:38:25 | 性理題釋

四十二、縁份(えんぶん)

縁份とは、前世の根本を説くのであります。もしも一人の人が原人で仏子であれば、天性は昧(くら)からず、人が聖道を説くのを一度聞けば、信心が直ちに起こるのであります。

聞けば即ち修めるのであって、このような人を仏様と御縁ある人と申すのであります。 

所謂(いわゆる)份とは、言い換(か)えますと即ち爵位(しゃくい)であります。

御縁ある人が、道を求めたならば常に道を心にして、人より後に落ちることを恐れ、功徳を積んで少しも怠(おこた)りません。この人は終に必ず成道することが出来ますが、成道された後に、その功徳の果に按(よ)って爵位を定めるのであり、これが縁份があるというのであります。

聖言の一つを以て申すならば、『知って学ばざるを無縁となし、学んでっ実のざらるを無份という』と申しております。

前人の聖者は『幼くして学ばざるは、成長して能なきなり。

壮年にして学ば坐れば、老いて憂うるなり』と申され、また『謂う勿(なか)れ、今日学ばずとも明日ありと、今年学ばずとも来年ありと。日月逝(ゆ)けり、歳(とし)我に与えず』と申されました。

此処に為すべきことをなさなかったならば、必ず後に後悔が生ずるのでありますから、立派な人間として後悔することがないようにしなければなりません。

もしも後悔するような時にはいかにあせっても道を修める事は出来ないのであります。

続く


弥勒真経~二十、救苦天尊来たりて世を救い 親しく文部掲諦神(もんぶぎゃていじん)を点ず

2022-07-25 19:35:50 | 弥勒真経 解釈

救苦天尊とは弥勒古仏の佛号(ぶつごう)であって、この仏は最上乗天の兜率天(とそつてん)に居しているから天尊と称する。

三期の世に救苦天尊は大きな使命を帯びて紅塵(こうじん)に降り来(きた)って世人を救われる。

天尊は更に諸々の神仏を引き率(つ)れて収圓を務められる。

親しく点ずるとは自ら点呼指導されることである。

文部とは諸般(しょはん)の文事を掌(つかさど)る神であり、文運に応じてそれぞれの部分を果たされる神である。

掲諦神(ぎょていじん)とは玄妙(げんみょう)なる真諦(しんたい)を揚げもって人々を度す諸神である。

これらは皆、救苦天尊の親しく引き率(つ)れる所に従って凡に降り、仁愛の道を助けるのである。

続く


天道推奨~四、各神仏の天道証明 (4)耶蘇基督(イエスキリスト)の證道(しょうどう)

2022-07-25 19:05:01 | 天道推奨

(4)耶蘇基督(イエスキリスト)の證道(しょうどう)

私が身を殺して仁を成した事は既に聖書で伝えている。

十字架を後世に遺して停(とど)まる時はない。磔(はりつけ)の刑は新約の詳述(しょうじゅつ)の通りであり、世に在りし時、天命を承(う)けて四方に真なる命を伝えるのに苦労した。

然れども、事、志に反して全く納(い)れられず、裏切りヲ受けたが帰天後、漸(ようや)く認められて名を万古に遺した。

那(か)の時は文化華やかりし頃だが、ユダヤには一人も聖人が生まれていなかった。

傲慢(ごうまん)の結果は己を滅ぼすが、人心の邪逆(よこしま)と詭詐(いつわり)は施(ほどこ)す術(すべ)もなく、真実への迫害は決して軽くはなかった。

暗中に一人心悲しかったのは、当時の天道が、今のように普伝されていなかった事である。

遂(つい)に継承者を見出さない儘(まま)、涙を含んで天命を帯び回(かえ)ってきた。

何と福の浅かったことか。

私の門下よ。

道を得ずして只、習い学だけでは神の御国(みくに)に帰れないことを知っているだろうか。(中略)

私の教えも元は一理より来たもので、共に同じく、老〇(ラウム)の御子である。

私の教えに心伝を失った後、暫く(しばら)くして時代は白陽に換(かわ)った。白陽の老祖、弥勒仏は命を領(りょう)し、慈憫(あわれみ)を懐(いだ)いて世に望まれた。

其の時、私は老祖に門下をも本源(りてん)へ挽回(ばんかい)するよう託した。

幸いにも弥勒仏は願いを聞き入れて、大いに徒達(でしたち)を救おうとされたが、慨嘆(なげかわ)しいことに門下は、全然、耳を借(か)そうともせず、規(おきて)を堅く守って従おうともしなかった。

私の一片の善意は無礙(むげ)にされたので非常に失望落胆した。毎日、暗涙(なみだ)をもって洗面(せんめん)を用いているが、門下に望むらくは今、天道が公にされた時に当たって速やかに参(さんご)されたい。

私は意(こころ)有って汝らを度(すく)い還(か)えそうとしているのである。

若し私の言葉に従えば必ず将来には光明が約束されるが、信ぜずして徒(いたず)らに規(おきて)を固執(個室)し、後になって耶蘇(イエス)は何も指示しなったと恨(うら)んではいけない。(後略)