真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

弥勒真経~十五、邪人(じゃじん)の胡(みだ)りの説話を聞くなかれ 意馬(いば)を牢(かた)く栓(せん)して無生(むせい)を念ずべし

2022-07-20 20:11:29 | 弥勒真経 解釈

深い智慧心を持っている人は堅く玄関を守(しゅ)して決して邪(横)嶋名人人の乱(みだ)りの言葉を聞くことはない。

人人を転倒させ、是非を論じ、善を壊して悪を起こそうとする人人は世の中に充満している。

悪しき環境に流れる状態は丁度、水の流れに従うが如く、堕落と頽廃は中心を失った人間を押し流してしまう。

道と徳は教えられて学ぶのと自らがこれを体得して行うのとあるが、誹謗(ひぼう)の言葉に左右される人は真の修行者とは言えない。

特に弥勒仏の下生の事実を信ぜず、譏(そし)り妨げる人が出て来るので理非曲直(りひきょくちょく)を見定められない。

牢(ろう)とは堅固のことである。意馬(意馬)とは心意の作用である。

この意馬心猿(いばしんえん)は常に動揺して定まらず、常に外界(がいかい)に駆(か)け、外境(がいきょう)に引かれようとする。

これを心霊の奥深く守り住(じゅう)して一心一徳、無生老〇(ラウム)を仰ぎ念じなければならない。

無我の境(きょう)に入れば、すべての雑念や誹謗(ひぼう)に惑わされたり、間違った意見に左右されることはないである。

続く


天道推奨~(三)天道問答録 3

2022-07-20 19:43:55 | 天道推奨

問:既に別の信頼できる宗教に入っていても、尚、天道を求める必要がありますか。

答:必要があります。宗教と天道は元より相克の関係ではなく、寧(むし)ろ密接に連携された間柄になっているのです。

と云うのは天道は宗教以前の存在であり、万有、万里を貫く本元であり、発祥源であります。

宗教の歴史は浅く二三千年でありますが、天道は無限の生命をもっております。

宗教の教律は天道の理を汲んで聖人が組織的に確立しただけで、天道ありてこその宗教であります。

宗教の開祖はすべて道を得て、道の代弁者となっただけで

述べられた冥利は聖人個人の所有物ではなく、聖人自身が大道の証者(しょうしゃ)だったのであります。

宗教は天道に至る段階で心身修練、人格涵養(じんかくかんよう)を完(まっと)うしてその奥へ進んでゆくのが順序であります。

宗教の救い得る限界は罪の軽減ができても消滅することはできず、精神の安定を得られても過去歴世の因業を根徐(こんじょ)することはゆるされません。

天道の心法を得れば容易にその繋縛(けいばく)を解くことができます。

しかし、天道の真伝を得る資格者は誠意と熱意を備えている人か、亦は敬虔(けいけん)なる信仰の持ち主に限られていますから、何らかの宗教に入って大いに培っておれば寧(むし)ろ、価値づけられて結構であります。

道統の祖師の方々も多くは徳の高い、修業の深い、聖者、高僧の御出身であるのを見ても窺(うかが)い知ることができます。

所が近世の宗教が専門的職業とした人になりますと事情が大部変って、組織とか形式とか、派別とか財力とかの横の繋がりばかりを重んじて上との連絡を軽んじてしまいがちです。

末端的な色彩にばかり拘(こだわ)って、真正の道理探究者としての在り方を忘れ果ててしまいました。

勢力拡張の為、信者に相互間の監視制を取ったり、神仏の名の下に於いて、勝手に罰則を決めて他教に行かせまいとします。

これらは皆、昔の聖者に反したやり方であります。

局限された狭い地球上に住み、複雑な心理要素や風俗習慣をもちながら、一教の理論を以てすべてに適用することは絶対不可能なことであります。

無窮無尽(むきゅうむじん)の妙理を一方から進むよりも多方面から入った方が遥かに完璧を期待できましょう。

一宗派だけに偏執(へんしゅう)すると量見(りょうけん)が狭くなって角張った人間になってしまいます。

お互いに誹謗(ひぼう)したり、排斥(はいせき)したりするよりも、大局的見地に立ってお互いの相違点を調整し、尊重しながら共通する所を一緒に和合して世人を正しくする方が至当(しとう)だと思われます。

相手の大事な所まで破壊しようとするから、皆必死になって悪を隠し、譲らずに攻撃し合っているのです。

後来(こうらい)の弟子達が型造っただけであっても釈迦も孔子も老子もキリストも元は多方面の求道者だった筈です。

宗教の教え方まで統一するから反目が生じますが、道を中心にしていれば、速やかに収まるものであります。

天道の範囲は際限ありません。

何処へでも亘(わた)って奥深く、無尽蔵に真理を高めて下さるので、天道によってこそ永遠の生命を確立することできるのであります。

宗教はわれわれに修道の指針を与えて下さいますが、天道はズバリ、道の本体を与えて下さいます。

一歩一歩の登山を一気にロープウエイで運び上げられるのにたとえられ程であります。

従って宗教の果たすべき役目は天道に至る過程と申せます。

究極に到達する目的地が天道である訳であります。

だが修道の途中で慢心したり、派別に対する固執性が強くなったりしますと、急に進歩が停まり、成長が中止して人間が小さくなり、考えが狭くなってしまいます。

譬(たと)えば、頂上まで登山した人は十方の絶景を一望千里の如く眺められますが、七、八合目当たりで引き返した人は一方だけの景色しか見られないのと同じであります。

天道に至ってこそ凡(あら)ゆる事物の理に徹し、超然とした心持になれます。

天道の法を得、各宗教の在り方を明らかに悟って、本末一如、体用を兼ねて修業すれば、短期間に多大なる収穫を得られ、尚、一層の輝きが増すものであります。

実(げ)に天道こそ凡(あら)ゆる宗教を活かし、正しくする大原動力であり、母胎(ぼたい)でもあるわけです。

続く


Rayの呟き~陽炎(かげろう)

2022-07-20 09:14:00 | Rayの呟き

ユダヤ十二氏部族の二部族は福建省の客家に歴史を鎮めてきました。

中国の習近平氏も安部晋三氏も李家(ユダヤのレビ族:ユダヤ教の祭司ラビの由来)であり、ユダヤ十二氏部族の長であるため、今回の歴史的世界改革では重要な役割を帯びていました。

因に李家は東西の文明の基礎となった道徳経・老子(李耳:りじ)が発祥であり、老子(道教)は紀元前1000年前、日本の皇統から天命を受けています。

7月8日暗殺という周到な計画によって役割の終焉を宣言した訳です。

安倍氏は嘗て茨木県鹿島神宮の「要石:かなめいし」を奉納しましたが、日本のレイライン上で時代の節目を司っていたことを自ら担ったことになります。

韓国初代大統領の李承晩、台湾の李登輝、シンガポールの 李光耀などアジアの政界や実業界も中心は李一族でした。

世界銀行の副頭取が勝茂夫(弟の勝栄二郎は財務省理財局長)だった1980年代当時、世界の金融システムは縮小されました。

李家の最期の金融担当 李 老氏や米国の財務長官世界などは、世界は隠された歴史的財宝のあり所と次の仕組みを探し回っていました。

更に大きな波は2008年のリーマンショックで、世界のトップクラスの銀行や証券会社が清算状態になりました。

皆さんが今見ている混乱状態は30年にも渡る本格的な世界改革の守旧派と改革派の内部争いです。

古い体質が内部崩壊しています。

金本位もロシアのように挑戦しますが、世界の足並みはそろいません。

バーチャル通貨も法定通貨を目指しますが暴落します。

人々の智慧はまだまだ進化します。

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天のデザイン(轍:わだち))

2022-07-20 07:26:36 | 道すなわち真理

決して誇張するのではなく、世界の神秘学者・由緒ある大学の研究者・宗教学者・自然科学や生物学者、そして物理や量子学の最先端に於いても「真理」が明らかになるということは、驚愕することなのです。

日本の東大や京大も皇統などの文部として「真理」の探究を最高レベルの課題としています。

それは古代に於いては、皇位を決定づける「天命」に中るからです。

もちろん紀元前600年前神武天皇から始まった天皇のは「天命」は降されず、皇統は「天皇制」として本来「天命:道すなわち真理」が有ることを継承する役割となりました。

現在、茶道・華道などの襲名制度を保っている「道」の世界には、八紘一宇などを担う隠された口伝伝承の実態があります。

人類の秘法(道=真理)その鍵がどのように伝えられてきたのでしょうか、正しい宗教の経典にはその極意が伝承されてきましたが、時代が下るほどに異端が跋扈し真実は有名無実となってしまいました。

老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が秘伝の法灯を伝授しました。

老子は、道徳経、第一章の中で「道可道、非常道、名可名、非常名、無名、天地之始、有名、万物之母、故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其竅、此両者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、」

【解釈】:道というは、常にいうその道ではない。その名でもない、名が無いが、「天地の始め」であって、その名をあえて、「万物の母」という。つねに無欲である故にその妙を観る。「天地の始め」であり「万物の母」この両者は、同じ根源から出ているが、名を異にしている。これを玄(玄関)という。玄の中の玄を、あらゆるものを生み出す神秘の中の神秘、それを衆妙の門という。(衆妙の門:多くの人々に付与された命の微妙な出入り口)、玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源、と解釈してます。

※  「玄関」と言う日本語の漢字は、中国では使われていません。仏教の経典の中にしか使わない聖なる言葉を日本語では人の出入りする「戸」のある場所、聖なる「玄関」と言う言葉を日常に使っています。

清静経では、「大道は無形にして天地を成育し、大道は無情にして、日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す。吾その名を知らず。強いて名付けて道という。」

 ※老子は道徳経・清静経・黄庭経の三経を遺しています。

【解釈】:大道は本来形象はないが、よく天を生じ、地を育てることができる。本来感情はないが日月を運行することができる。本来名称をもって表現できないが、天地間の万物を養育することができる。私自身、その名前を知らない。それで強いて道と名付けた、と伝えています。

釈迦は、弟子スプーティに「解脱に至る道(真理)は、どのような道でしょうか。」と問われ、「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一(真理)を得ることが、その一切である。」と答えました。

また、摩訶迦葉に法灯を伝える時「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す。」「粘華微笑(ねんげびしょう)、玄嚢鼻直(げんのうびちょく)」と説き、正しい法が眼の蔵(老子:谷神)にある。それは涅槃(天国)へ通じる道で、あるといえば無い、無いようである、微妙な法門である。文字を立てず(文字に表すことはない)、教えの外に別に伝える(誰にでも教えるものではないし、教えるというものでもない)、一人から一人に単伝独授するもので、これを摩訶迦葉に附嘱(一指相伝)し、その機微を顕しました。そして鼻を捻って微笑し(粘華微笑)それは鼻の玄嚢の直すぐ上である、と記しました。

達磨大師は釈迦以来の四諦句として「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」とその奥義を禅宗に遺されました。一つ一つの四字成語をよくよく観察してみて下さい。どの経典でも、これは名のつけようもなく、経典の文字をいくらあさっても解るものではないと伝えられています。

一指相伝:一を指して相伝える、直指人心:直かに人の心を指す、など似たような表現ですが、ではそれが具体的に何を意味するのかと考えると曖昧になります。つまり求めなければ得られないものの特徴です。

また、面目と言う言葉は、顔面の目と言う意味であり、すなわち「大元である」という意味ですが、熟語には「面目一如」一の如く、「面目一新」一に新(親)しむ、「面目躍如」躍するが如く、「一」に関することでそれによって改まること飛躍(脱皮)するとは…、このように日常の様々な言葉の中に「道:真理」は隠されています。

この「道」は、無形無相、無声無臭で、見ることも聞くことも嗅ぐことも触れることもできません。これが道の実体です。

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれも私(道)によらないでは、父のみもとにゆくことはできない。」 (ヨハネ伝第14章)と言いました。

※    イエスの墓が青森県三戸郡新郷村大字戸来にありますが、地名の「三戸」「戸来」あるいは「戸来人」などの「戸」の由来について論語の中で次のように解釈しています。

雍也第六:子曰誰能出不由戸何莫由斯道也

解釈:子曰く、誰か能く出づるに戸に由らざる。何ぞ斯の道に由ること莫からむ

真理を得ていない場合は次のように教訓的な解釈になります。

「誰か外に出るに戸によらないものはない、どうして、(生きるに)この道によらないことがなかろうか。普通戸の無いところから出入りすることはなく、人は、無意識的に戸を用いる。道路も、無意識的にそこを通るが、もとからあったものでなく、人々が往来するから道路となったものである。道路には通る人々により、悪しき所に通じるものも、善き所に通じるものもある。道とは、ここでは、人が生きる道のことであるが、さまざまな道がある。無意識的に生きているのかもしれないが、先人の道を辿っているものである。(周公のごとく)生きた人の道(斯道)によるべき、・・・」

孔子が伝えているのは「人間の魂はどこから来てどこへ往くのか、この戸による・・・」つまり、元きたところに帰る道のことでした。

神は、イエスによって「道であり、真理であり、命(性命=霊)」ものを証するために、十字架で磔の機会を与えました。この時の場所は「ゴルゴダの丘(しゃれこうべの丘)」でした。つまり人の頭の部分です。そしてイエスと共に2人の盗人が処刑されました。三人が同時に磔になりました。

 ※実際はゴルゴダの丘もありませんし、キリストも処刑されていません。預言者のが伝える神々の創造を真理を伝えるために聖書に印したものです。原罪の意味も同じような啓示です。皆さんもこれからあたらしい世界を創造する中で善悪を越えた伝承の必要を知るでしょう。完璧は完璧ではありません。真理が唯一です。

汝姦淫するなかれ”と言いますが、姦淫の源は目にあります。目で色を見ることで心が動じ罪を犯します。つまり左右両目は磔になった2人の罪人で比喩し、イエスは真中の十字架で〝私は真理である“ことを比喩しました。

また仏教の「如來」は、済いとは「菩薩が來るが如し」と言う意味に使います。この「來」と言う文字は「十」の字に「人」と言う文字を3人を書いた字です。つまり十字架に3人が磔になったことと同じになります。

如=女の口=玄牝之門(老子道徳経で“玄なる牝の門”と表現)

來=十(十字架)に从(罪人が2人従う)もうひとり、「人=キリスト」が真ん中にいて十字架に人が3人、3っの目を意味していました。

そして「戸」と言う文字について、聖書の中で「戸をたたく」と言う真理に関する機密の表現がありますが、「戸」の「一」の字を取ると「尸」(しかばね)と言う字になります。「一」は「点」の伸びた形で、「一なるもの」の意味です。つまり真理の表現です。「尸」が「一」を得て「戸」になる、つまりこの「戸」が「真理」を表現しています。京都の大文字焼きの「大」の字も「人」が「一」を得て「大」になる、やはり「一」が真理であることを継承しています。

キリストの墓がある「三戸」「戸來」の地名については、東北方面の方はご存知のように青森県には「一戸」「二戸」と言う地名があり、キリストの足跡が秘められていると思われます。

「戸來」は「如來」と同じ意味で、そのときがくれば十字の秘密が公開され、真理が得られることを印しています。キリストが日本に、しかも東北に来た(さらに南米に向かったと言う説もあります)ことの意義はやがて歴史の真実として明かされ、世界がひとつになり、宇宙とつながる史実となってきます。聖人はそのために足跡を残すべく天命を担っていました。

昨今、次第に歴史の真実が明らかになってきていますが、「真理」に基づいて歴史が明らかになるのはこれからです。エジプトも中国もどの古代文明もすべて十字などの形象で顕した「真理」を探求する歴史そのものでした。天のデザインは細微に渉っています。             

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