真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

観音菩薩伝~第26話 老人、大師に神鴉嶺の危険を説く、 第27話 大師、乾飯を神鴉に与えて難を免れる

2021-10-07 22:33:21 | 道すなわち真理

             

第26話 老人、大師に神鴉嶺の危険を説く

食後、老人は三人を見ながら

「見掛けない人達だが、どこから来たのですか」

と訊ねました。大師は、越えてきた高い山を指差しながら

「これから須弥山へ行くところです」

と答えました。これを聞いた老人は、驚いた顔で三人を見回しながら言いました。

「これは、奇蹟と言うべき事です。よくもここまで、無事に来られました。御尼僧方は何も知らずに通って来たのでしょうが、彼の山は戒首山(かいしゅざん)といって虎狼が棲み、とても人の通れる所ではありません。その上に、あの山の洞窟で一夜を過ごされたとは驚きました。ところで、御尼僧達の道が間違っていました。あの戒首山の麓に南北に分かれた二つの谷があり、南谷は少し険しいが、その道を辿って行くとやがて大きな道路に出ます。その道を真っ直ぐに行けば須弥山に行けましたのに。間違って北に来たために、二百里余り回り道をしてしまいました」

三人は驚きましたが大師は、無事に越嶺出来たのも弥陀・仏陀による庇護の賜であると、胸に掌を合わせて心から感謝しました。永蓮は、落胆したような声で老人に訊ねました。

「また引き返して彼の山を越えなければ、須弥山に行けないのでしょうか」

老人は、暫く考え込んでから

「ここからでも、行けることは行けます。このから西南に通じる道路があり、それを三十里ほど行った所に神鴉嶺(しんあれい)という山があります。これを越えて更に百里ほど南に進めば南東に通じる道路に出ますから、その道を進めば須弥山へ行き着くことが出来ます」

ここで老人は言葉を止め、顔を引き締めながら三人を見回して

「しかし、この神鴉嶺という所が難所です。なかなか容易に越せる所ではありません。何故ならこの山中に三千羽以上の大鴉(カラス)が群がっておりますが、図体は鷹(タカ)よりも大きく、性格も獰猛で肉食を好み、人を見たら襲い掛かり食い殺してしまうと言われております。この鴉が人を襲うようになったのは、遠い昔、山麓に住んでいた住民の中に鴉を天地神明や仙仏のように尊敬信仰する迷信があって、鴉に肉や魚を与えて吉凶を占う行事があったのが原因です。この占いというのは、毎年の祭礼に肉・魚を供え、その日の内に鴉がこれを食いに来ればその年は大吉と言い、翌日になれば中吉、三日経っても来なければ大凶と言われるものです。大凶の年は旱魃や洪水、あるいは疫病が流行(はや)るなど大難が来ると恐れられていました。このような事から鴉に肉食の習慣が付き、飢えているときには人を襲うようになってしまいました。神鴉嶺はこのように危険な所ですが、戒首山のように道が長く猛獣が棲むという所ではありません。昼間の中に越せば鴉に出会わないこともあり、道も僅か十里余りです」

ここまで話した老人は、ふと思い出したように膝を叩きました。

「そうだ。もう直ぐお祭りになります。祭りになれば大鴉の群れが魚肉を食いに集まりますから、その時機を見計らって越したら大丈夫でしょう。それまでの間、このに滞在されては如何でしょうか」

保母は、大師の気持ちを察して言いました。

「急いでおりますので、他に道はありませんか」

「もう一本小道はありますが、もっと危険です。猛獣だけでなく、悪魔や妖怪が出没すると聞いています。敢えて危険を冒さず、ここに滞っては如何ですか」

黙って聞いていた大師は、ここで初めて声を出しました。

「いろいろとご親切に、有り難うございました。お引き留め下さるお気持ちに感謝しますが、私達は明朝にも神鴉嶺に向けて発ちたいと思います」

大師は、老人に向かって叮嚀に頭を下げてから、側の二人に言いました。

「そなた達、怖れの心を生じてはなりません。私達は、出家人です。仏に仕える身の私達に、神鴉と呼ばれる鴉が襲い掛かる筈はありません。雑念に囚われず、進むことです。これからの前途には、まだ多々難所がありましょう。仏を信じ、真心をもって修行すれば、きっと須弥山へ行けます。さあ、元気を出しなさい」

 三人は、老人の歓待を快く受け、静かな山村で身体を休めました。

 

第27話 大師、乾飯を神鴉に与えて難を免れる

翌朝三人は、老人から心尽くしの食事を頂き、身支度を整え、厚く感謝の礼を述べて出発しました。夕方までには神鴉嶺を越す予定で道を急ぎ、悪路を克服し、昼近い頃には山の中腹に辿り着きました。この辺りは森林が連なり、様々な形の嵯峨石巌(さがせきがん)が屹立(きつりつ)していました。

不気味なまでの静けさに永蓮は、不安が高まり、突然鴉に襲われはしないかと怖れながら、大師の後に従って山道を登り続けました。幸い何事も起こらず、一行はようやく頂上に達しました。

下りの山道をゆっくりと中腹まで下ってきたところで、遙か彼方の麓に大きなが見えてきました。大師は、その方を指差して二人に言いました。

「見てご覧、麓の方にが見えるでしょう。さあ、早く行って休みましょう」

三人は、これでほっとしました。今までは不安と緊張のため歩調も早くなって夢中で歩いたので、両足が棒のようになりました。無理もありません。半日に五里余りを歩き、その上に山越えをしたのです。普通の人間には、真似の出来ない難行です。

が見えた途端、気が緩み、疲れが一度にどっと出て、三人は立ち止まってしまいました。体力のない保母は苦痛に耐えかねヨロヨロと倒れそうになり、見かねた大師は保母の腕を取って抱き寄せ

「鴉にも出会わず山を越えてきたのですから、ここらで暫く休息しましょう」

と言われましたが永蓮は、保母の疲れた様子を知りながらも鴉の恐怖感に取り憑かれ、オドオドしながら言いました。

「大師、昨日の老人は私達に、出来るだけ昼間の内に早く越すように言われたではありませんか。それに、少しでも休むと、更に疲れが出て歩けなくなります。もう一息ですから、道を急ぎましょう」

しかし保母は

「此処まで来ても何事もなかったのですから、暫く休んでも差し支えないでしょう。少し足を休ませれば、今度歩くときは大変楽になります」

保母の余りにも疲れた声に永蓮も反対できず、とうとう三人は、腰を下ろしてしまいました。暫くしてから三人が腰を上げ荷物を背負って歩き始めようとしたとき、突如けたたましい鴉の鳴き声が耳を打ちました。

声のするほうを見ると、森の向こうから鴉の大群が迫って来ます。けたたましく騒ぐ声は草木を揺さぶり、群れは空を覆って陽を遮り、その勢いは見る人をして恐怖の底に落とし入れてしまいます。三人の頭上で旋回する鴉の群れは、だんだんと輪を縮め、今にも三人に掴み掛からんばかりです。保母と永蓮は、生きた心地もなく、ただ大師に取り縋るばかりです。

大師は、少しも慌てず騒がず落ち着き払ってその場に坐り、二人に言いました。

「私に妙案があります。二人とも坐って、心神を落ち着けなさい」

大師の力強い語調の指図に従って二人は背中合わせに坐りましたが、心神は落ち着くどころか何処かに飛んで行ってしまって、ただ大師に寄り添うばかりでした。人は誰しも、突然の恐怖に襲われれば取り乱してしまうものです。

鴉の旋回は半時の間も続きましたが、不思議な事に、未だ三人を襲う気配がありません。あれほどの勢いで迫ってきた鴉が、襲いもせず去ろうともしないのは何故でしょうか。鴉の目にも霊気の明暗が映るのか、大師の持つ威厳が鴉の獰猛性を圧したのか。

すると大師は、ゆっくりと袋の中から乾飯を取り出すと、思い切り遠くの平地に撒き散らしました。これを見た鴉の群れは、一斉に舞い降り、その乾飯を争って啄み始めました。袋の半分を撒いた頃には、空中に一羽の鴉もいなくなっていました。大師は急いで二人を促し、この隙に逃げ出しました。鴉は乾飯を食べるのに夢中で、三人の動きには全く関心を示すことなく追ってくる様子もありません。

陽がすでに西に沈んだ頃三人は、やっとの思いでに辿り着きました。夢中で駆け下りるとき石に躓いて切ったのか永蓮の左足の親指から血が流れ、保母の右足も傷付いて痛々しい姿でした。大師は、自分の手拭を割いて二人の手当をしてやりました。

三人の姿を見た者が注進したのか、の長老と思われる人物を中心に大勢の村人がやって来ました。皆は、不思議そうに三人を見回しています。やがて長老が、進み出て言いました。

「お見受けしたところ尼僧達はこの近郷の方ではないようだが、どちらからお出でですか」

「私は妙善と申し、興林国耶摩山にある金光明寺に住む者でございます。実は発願をして二人の従者と共に須弥山に行く途中で神鴉嶺を越え、只今この地に到着したところです」

群衆は、声にならない声を出してどよめきました。それが止むと、一斉に

「無事に神鴉嶺を越えた者は居ない。嘘ではないのか」

「神鴉の害を受けずに越せる筈がない」

「この尼僧達は、きっと何か魔力を備えているに違いない」

口々に言う村人を制して、長老は言いました。

「私が見たところ、この尼僧方は只者ではない。まして修行中の方は、上は三十三天から下は三十六道に至るまでの仙仏から尊敬されている。神鴉は霊鳥であるから、仙仏が尊敬する方には加害しなかったに違いない。折角わが村に来られたのだ。これも何かのご縁に由るものであろう。今夜は、村にお泊めしようではないか」

村人達には、もちろん異議はありません。

「ご好意に甘えて、お世話になります。私達に、簡単な素食を与えて下されば幸いです。明朝は早く発ちますので、よろしくお願いいたします」

このとき、気品のある婦人が進み出ました。

「幸い、私の家に空き部屋があります。よろしければ、私どもの所でゆっくりおくつろぎ下さい」

大師一行は、揖礼(ゆうれい。両掌を胸の前に合わせて行う礼)して感謝し、婦人の家に案内されました。大師らは、身を清めてから家人に挨拶しました。貴相が具っている気高い大師を見て、家人は心から歓迎しました。とりわけ十歳になる娘は、忽ち大師に懐いて側から離れようとしません。

その内に村人達が次々と訪れ、それぞれに我が家で持て成しをしたいから是非一日来て欲しいと大師に望みましたが、大師は皆の好意に感謝しながらもこれを断り、その代わりとして説法会を催すことにしました。この話が村中に広まり、夜になると村人達がこの家に続々と詰めかけ、座敷に入り切れない人達は庭に座って大師の説法に熱心に耳を傾けました。今までこの村では、このような深遠な法義を聞いたことがなかったのです。

大師は、人間本来の真諦を求めて永生を願うことの必要を諄々と説き明かしました。説法を終えた大師は、清潔な居間で坐行を組んで静かに休まれました。

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真の学問と学の階級

2021-10-07 18:57:23 | 道すなわち真理

21世紀が感性や直感だけの世界になるような風潮がありますが、確かに今までがあらゆる面でマニアル化され自分自身を見失っていた時代ですから、感性や直感という気づきの段階が必要でした。

しかし、人は個々それぞれの進化の存在で、多種多様な環境に置かれています。21世紀は太平の世、大同世界に入りますが、今までの経済中心の汚濁の世界は徐々に風化して、生命本来の道徳的環境が復活してきます。

そこは神々の奇跡、無限の叡智の世界です。自由と尊厳を回復する美しい生活空間ですが、汚れた土足で踏み込むことはできません。身の丈にあった入り口が用意されてます。それが学問の機会です。

真の学問と学の階級

學問の道は極めて広泛で奥深く、一生かかっても極めつくされるものではありません。
これを会得するのに、平易な物もあれば困難なものもあり、滑らかなものもあれば険しいものもあります。何れも努力を必要としないものはありません。學問は人に及ばないものであるが、又人より失い易いものであります。ちょうど逆水に船を漕ぐようで、進まなければ即ち後退してしまいます。限度が無いから自分の程度が分かりません。學問は真理に近づく道でありますから分野や性質が違っても完成への到達点は一つであります。

人によって道程の差異はあっても、極めるのに純粋性がなければなりません。頭脳・性別によって早晩の別はあっても、熱意が欠ければ不可能です。孟子は「学問への道は放蕩化・散漫化した心を収めることに外ならない。」といわれました。堕落・怠惰した心に鞭を加えて、奸巧なく精勤し完成にいそしむことです。いかなる道であっても、習い學ばなければ成就できません。

老子は、「わたしは聖人ではない、學んで知ったのである。」といわれました。
孔子は、「わたしは、生まれながらにして道を知り物識りになったのではない、ただ古の道を好んで黽勉(勉強)怠らずして、ついに求め得ただけのものである。」また、「わたしは、何でも知っていると人は思っているらしいが、別に何でも知っている訳ではない。

ただどんなに卑しいつまらぬ人でも誠意をもって聞く時、袋の底を叩いて中のものをすべて外に出し尽くすように、その善悪・陰陽・因果その他何でも両端から説き質して本当のことを懇切に教える。それで教えを受けた人にとって、私は何事も知り尽くしているように見えるかも知れないが、ただ自分としての誠意をもって教えているだけである。」と謙遜されました。學問の大事は博く学ぶのと、深く思考することです。

大事なことを忘れず、変わらない熱意をもって追求して已まず、積極的に勉強して気を散らさず、日々発奮して気を換えてなりません。何れの學問を極めるにしても、自己完成の學を好むものにして始めて出来るものです。顔回(孔子の弟子)の「學を好み、怒りを遷さず、過ちを再びとしない」態度は典型的であります。

一人一人の霊気によって頭脳も違います。これを孔子は、人間の天禀には四通りの等差がある。第一は、生まれながらにしてあらゆる徳義を知り尽くしている者があるが、これが最上級である。(恐らくは聖人がこれに当る)第二は、学びてこれを知る者が次であり、
第三は、初めは學に心坐さず、いよいよ行き詰まって困ったあげくに苦しみ苦労して学んでやっとわかる者はその次であり、第四に、行き詰まって困りながらも学ぶことを知らず、苦しんで学んでも大事なことの分からない人、学ぶ気のない人は、更にその下である。と、四段階に別けて論じられました。

學問は中道の道に達してこそ円熟が得られます。中道の道に反した學問の存在はあり得ません。孔子は、子路に六言六蔽を引用し學問の重要性を説かれました。つまり學には仁、知、信、直、勇、剛の六つの徳目があり、學を好まない為に生ずる六つの弊害が起こることを知らしめたのであります。

一、仁徳・美徳を好むことは極めてよいことであるが、學をこのことをしないと、愚の弊に陥り陳腐します。お人好しの行き過ぎは愚かであり、人に欺かれます。愛着に溺れると反って人間を害毒します。

二、知を好んで、それと共に學をしてよく磨くことをしなければ、空想・妄想家になり、一人合点して取り留めのないことを考えます。行いに締りがなく、ただ徒に高きに馳せ、広きを喜ぶ弊に陥ります。

三、信を好んで學を好まないと條理を弁えず、真実の信を弁えなければ、只徒に盲信してその言葉を守り、間違った約束を守って悪い仲間に落ち入り、物事を傷り害う弊害に陥ります。

四、直を好んで學を好まないと、人間を相手にして人間以上のものを求め、相手に無理を強要し、相手を生かさずに傷つけ責めるのを急ぐあまり、狭くてゆとりのない窮屈な弊害に陥ります。

五、勇を好んで學を好まないと、物事の道理が分からなくなり、乱暴・我儘になります。
徒に人に加える方面にのみ働くから、その末は、叛乱さえも起こすに至る弊害に陥ります。

六、剛を好んで學を好まないと、物事の道理が分からず偏見・狂気になり、落着するところを失って、徒に力を振り回す狂者の弊害に陥ります。要するに六者は美徳ではあるが、その美徳を全うする為には、広い見識を立てる為の學が必要であることを教えたものであります。

これによっても如何に學問を積むことが肝要であるかが想像されましょう。學問家とは、傲慢・不遜の態度をさしているのではなく、學問臭いところがないのが真の學問であります。學の階級は継ぎの五通りの段階に区別されます。

すなわち変化學、認識學、治平學、理数學、性心學であります。これを説明しますと、

一、変化學
これは、通常の社会人が知っている狭義的な変化學ではなく、極めて広い範囲の意味を含んでいます。すなわち神から与えられた宇宙・万象すべての物質が人間の頭脳の機知変化によって一つの物体、一種の利用価値のあるものに創り出されることを変化學といいます。自然的形体から人為的加工体に造り換える學問であります。一脚の机をもって例えると、机の本質も元は樹木で、人間の加工によって変化したものであります。茶碗の元は粘土であり泥であったが、人間の手によって型作られ、それを炉に入れ焼かれることによって成り立ったものであります。一組の機械も同じことで、元はただの鉄や鋼にすぎませんが、人間の精密な研究と努力とによって組み立てられたものであります。数種の物質を応用加工して一個の生産機に造り換えるには、多大の精神力と代価を払わなければなりません。数多い試験と失敗を繰り返してから漸く成功します。また、性能の低いものから性能の高いものへ、粗末劣悪の品質から優良精密の品質へと改革・改良していくには相当の努力を必要とします。生産の遅い、旧い悪い形のものから理想的な新しい良い型のものへと造り換え、自動大量生産化していく、これらの能力を有している人を発明家、又は學士・博士とも言います。工学、農学、建築、物理、化学などはこの中に含まれます。士とは、成功者対する美称であり、學とは、浅きから深きへ、悪しきものから好きものへ、不理想から理想へ、工夫改善することで、博とは広く見聞や研究をされた意味を表します。

二、認識學
これも広義的に説く認識學であります。すなわち宇宙間、上は日・月・星座星雲の天体から、下は河川・山岳・海洋の一切、中は動物・植物・鉱物の動・不動の形物に至るまで如何なる品名と性質を有しているか、その形態の状態とによって、どの地方に生産・発生されるか、どうして始まり、どのような経過を辿り、如何なる結果に終わるかなどを詳細に解明する學問であります。また、天地・気候・年代・潮流とどんな連携をもっているかが認識でき、そして人間に有効であるか否か、応用できるか否かなどを見極める學問です。
一つの薬物がどれ位病体・病状に影響するか、薬効の正確な判断は難しいことであります。一つの薬品が化合して何種もの物品の製造に役立つかを知ることも容易なことではありません。生物・天文・歴史・地理・考古・医学等はこの中に含まれることになります。
これらの能力を有している人を見聞家と称し、あるいは博士とも言います。

三、治平學
これは、徳を以て世の中を和合させ、統治する學であります。我々によって発明・製造された一切のものは、人類が享受する為に為されたはずであり、人々の便宜を図り、人々の幸せを思うがために尽くされたものであります。例えば花壇を造園するのも、人々に鑑賞させ楽しませるが為であり、一つの機械を発明するのも、我々に利用させ生活をより良く向上させるが為で、飛行機・気車・電車・船舶・自動車等の発明も、目的は人間の心を快適にさせ満足させるが為に追求されているに他なりません。人間最大の希望は永遠に争いのない、苦のない、不便のない、太平の幸福にあります。人間の本質は、決してそれを悪用して人類滅亡や幸福を脅かすことなく、又不幸、貧困、戦乱、災禍のない理想的な世界の実現を希望しています。しかし、有史以来の世界は、時には乱れ、時には治まり、不正常であります。人類の熱望するところの幸福の為には、昔から沢山の立派な英雄・豪傑や政治家が現れて暴虐を除き、善良な民を安護してきました。禍や災難を治めて平和たらしめ、天下の同胞が一方の塗炭の苦しみから解脱せしめ、不安恐懼のない安居楽業の生活を享受させました。範囲の広い幸福を計った人ほど人から崇拝敬慕され、これらの能力を有している人を治平家、または英雄と称されます。文学・教育・法曹・政治・経済等はこの中に含まれます。

四、理数學
この理数學も現代社会の知っているところの狭義的なものではありません。広義的理数學は、天地の開闢を知り、日月の盈虧を計り、陰陽の消長、寒暑の往来、世道潮流の変化、時運の変遷を理数の上から計算して悟得する學問のことであります。人心の善悪を弁別でき、時勢の推移を見通し、事の成敗、過去・現在・未来を的確に判断・計議できる能力を有している人を知識家と称し、また賢人とも称されます。易学・哲学・心理学・預言者などはこの中に含まれます。

五、性心學
この性心學も現代社会で知っている所の性心學ではなく、むしろ現代社会の知らない性心學であります。これは、先天・後天の在り方、宇宙森羅万象を含む一切の有形無形のものの創造理を悟り、それに通ずる學であります。すべての物体は、この定理・定数の範囲から出ません。物事の終始本末を悟り、万古不易の真理を定義し、由来と未来の理を確立して人類を苦の因果の梱縛から脱せられる法を参悟する學であります。霊の浄化、心の洗浄法を会得することは至難の業であります。どんなことでも、根本原理を追求して至らねばなりません。この原理は、千秋万古を経て真であり、常に不変の存在であり、如何に攻撃打倒しようとしても不動体であり、どんな強力な力でも覆すことはできません。この真理を求め、これを掌握し、大霊に融合する「道」を得た人、それに到達した人こそ最高の學を修得する人と言えます。前記の仕事を為し得られる人、または、これらの能力を有している人を知慧者と称し、あるいは聖人とも称されます。神學・宗教學はこの中に含まれ、老子・孔子・釈迦・観音菩薩・達磨大師・キリスト・マホメッドなどはこの域に達せられた方々であります。

我々が学んでいる「道」は、すなわち性心學であり、最高位にあたる貴い存在であり、學の五階級の中でも第一等に算えられますが、さらに性心學は五段階に別けられます。

【粗理】=あらいり
聖人は、幽玄なる奥理を人に説明するのに、人によって法を説く関係上、 普通一般の人に説くのを主旨とされています。これは、因果応報の的確と、宿業罪業の報復を「瓜の種には瓜の実、豆の種には豆の実」と述べられています。すなわち善を為せば善の果を得られ、清白の行いがあれば清白の報いがあり、時期が到来すれば必ずその報いが来るという平易な理であります。一般人はこのような啓発によれば一番目覚め易いからであります。

【細理】=こまかいり
聖人が程度のやや高い知識層に説く主旨であります。聖人は、人々に道徳・倫理の根本を教え、義理と人情の必要を説き、禮教・仁愛の大事を納得させました。社会は、天下の人の社会であって、自分1個人の社会ではないから、相互の親愛がなければなりません。だから生きている以上は、人を愛し、世間の危機を救い、己の態度と行為を正しくし、意を誠にし、心を正し、身を修め、家を斎へ、国を治め、天下を平和にする順序を明らかに知り、対人関係に必要な孝・梯・忠・信・禮・義・廉・恥を具備することを教え、人格・教養・道徳を円満に修める為、必要な理を教えるものであります。

【微理】=かすかなり
聖人が程度の一番高い知識層に説く主旨であります。聖人は、聖書・経典を根本にして宣揚し、人々に聖人と凡人、仙人と俗人、仏と衆生の元は完全に一体であり、同様であることを示した理であります。我々の元は一様に、天地創造神・造物主から賦与された霊を持ち、父母から生育された身体を有し、天地から扶養されて生活していますが、ただここに迷いと悟りによって天淵の差に別れてゆくのであります。この理をいち早く悟ることを教えたのが微理であります。もし、明師から真傳心法の伝授を受けることができれば、人々は皆聖賢仙佛に成れましょう。ただ、切実な決心があるか否かによって分別されていくだけであります。この理を悟って偉大なる決意を持てば、万古流傳の名声を獲得できることは言うまでもありません。

【玄理】=おくふかいり
博く千経萬典を覧て、自己の真霊をますます深い玄理に結びつけて、日夜修行煉磨することであり、自己の霊光をいよいよ純熟に仕上げてゆくのを参玄と言います。

【妙理】=たえなるり
ここに到達した人は、もう一宗一派の所説に偏狭することはありません。最高の真理を掌握し、態度は超然として深い妙理のみを悟得師、自分の真なる智慧を発揮して不変不易の理想境界へ至ろうとします。これを「妙を悟る」といいます。まず、妙を悟ってこそ「道の真諦」を発揮でき、輪廻と煩悩、因果と恐懼を脱れて人々に人生の最高幸福を悟らしめることができ、この工夫に到達できる人の學は最高至極と言えます。

以上が性心學の大切を述べた論説で理論上,學問の根幹をなしているものであります。

※「性」とは「霊」とも言います。仏性とか真心とも言いいます。


【Ray:新しい世界を包含した法体系を築く時!】櫻井よしこ氏×原丈人氏×田口義隆氏 国をつくる礎とは何か

2021-10-07 18:20:22 | ONEメッセージ

この動画は旧体制の骨格を評論したものです。動画で触れてはいませんがUCC商業法や海事法で国際社会はがんじがらめにされています。

新しい時代は「個】の尊厳を基本にした法体系で、イギリスやアメリカ建国の民主主義のコモンローを礎に飛躍的に進歩した聖なる法が必要になります。

日本国という金縛りからどう脱却するか!この動画のように大東和共栄圏のような思想、天皇に司祭の役割があった時代の過去の仕組みが終わり、新しい「個」の時代の社会の仕組を創生するために、一番大事なことは旧い体制のガラクタをいち早く探し出し廃棄してゆくことです。

例えば、封建制の権威、天皇制(奴隷制)を権威づけること・・・などです。

泥沼でなければ蓮の華は咲きません。

櫻井よしこ氏×原丈人氏×田口義隆氏 国をつくる礎とは何か