真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

道を得る時

2020-02-14 09:47:20 | 道すなわち真理

時代こそ違いますが、お釈迦様もしかり、観音様も解脱の道を求めて修道をしていました。

「私は、未だ得道していません。人心を明師から直指(じきし)されていないので、未だ明心見性の境に達していません。悟っては迷い、迷っては悟りして未だ究竟(くきょう)の般若(はんにゃ)を開かれていません。得道するまでに三千の功徳を積み、八百の果を重ね、数多くの魔障を受けてもなお不退転の意思を持ち続ければ、何時か必ず得道の機会が訪れましょう」” と、おしゃっておられるように、3千年前からつい最近の百年ほど前までは、聖人から聖人にのみ伝えられていたため求道し得道することは至難の技でした。

しかし、聖人・仏など高次元の聖霊が天地造物主へ働きかけ、私達凡人でもこの「道」を得ることができるようになっています。今日は偶然このことについて、アルクトゥルス・・・2015年1月28日 惑星 の次元上昇で、多次元宇宙を体感する7次元以上の物質界を超える道が開かれていることを語っています。

このことが、この時期人類にとって最も重要な課題です。戦後72年間、安全で豊かな軌跡の生活環境で育ってきた日本人が、これから経験する自己との対面と経済社会の激変の中で、何を求めなければならないかが明確になってゆきます。

どんな高度な情報でも手に入りやすくなっている情報社会で、優秀な人ほどその情報で自己を確立していますが、それは入口を狭め、落とし穴を深く掘ってしまうことになってしまいます。「道」は情報や知識ではなく、天命を果たすため天地造物主(母親)から離れたあなたが母の元に無事に還れるよう、母親が持たせてくれた「お守り」です。それを道といい、真理ともいいます。

道は、あなた自身によって真の気づきの真の(縁)をもたらします。

参照:一なるもの~さらなる進化の始まり


聖なる道~道と教(宗教)とはどうちがうのか

2020-02-14 09:39:47 | 道すなわち真理

http://blog.goo.ne.jp/oppt777/e/2f5dad0de6cac971986e48c326959fd4

孔子・中庸:天の命ずるこれ性と謂い、性の率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教えと謂う。道は須臾も離れるべからざるなり。離れるべきは道にあらざるなり。

道は性理の本体で真理です。これを人に与えれば性(霊)となります。故に「性理」または「良心」とも言います。この性理は私たちの先天的(生まれる前からのもの)根本で、生命の大本です。人は誰でも皆これを受けてこの世に生まれ、またそれぞれの因果や性理に応じて死にいたります。

このように生と死は必ず経由する路であり、古来最も神秘的なこの「性理真伝」を文字で書や経典などには書きあらわさず、口頭で授けられ「以心伝心」のうちに伝えられてきました。そして、唯一絶対の造物主の天命により、この世に降りてこの道を伝えるために来た者は、たとえ仙佛、聖人といえども、この機密をもらすことは決して許されませんでした。

そして、儒教の四書五経、仏教の金剛経、老子五千言の道徳経・清浄経・黄庭経などのところどころにこの証を秘蔵し、それとなく読む者に暗示を与えてきました。時の実りによって、老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯を伝授しました。このように天命を受けた明師が降臨して、この道を伝えてきました。

それに対し教は、道の伝授により、道より発生したところの法と行事によって人々を教化する行為です。道が主体で教は功用になります。樹木にたとえればその根元が道、枝葉が教です。いわゆる五教(仏教・儒教・道教・キリスト教・回教)は皆この道から発生したものです。

儒   教  存心養性  執中貫一 (一を貫く)       忠恕   聖(ひじり)

仏   教  明心見性  万法帰一(一に帰す)  慈悲  仏(ほとけ)

道   教  修心煉性  抱元守一 (一を守る)    感応  神仙(せんぶつ)

キリスト教    洗心移性   黙祷親一 (一に親しむ) 博愛  神(かみ)

回   教  堅心定性  清真返一 (一に返す)     清真  僕(しもべ)

※日本伝承の 一厘の仕組み、〇チョンも同じです。

このように五教の起源と宗旨は同一です。この「一」は、「道」であり「真理」であり、孔子はこれを「吾が道は一をもって之を貫く」と言われました。

教は善行を奨励し、修養して徳を積み、出世(社会を離れ)して修行を極め、道を得るための準備をする段階です。道は教の真髄で、道を得ることより師の指示・伝導を直接得ることができ真の人として進化に万全の備えをすることができます。

孔子の弟子の子貢が「孔先生の文章や学問は学ぶことができましたが、先生の性と道に関して学ぶことができなかった」と謂っています。前者は教であり、後者は道のことです。これが道と教の相違点であり、教は何時でも授けられますが、道は非常時(歴史的な節目)でなければ授けられません。道は時には隠れ、時には顕現するものです。それは、道は時に応じ世にくだり(興り)人を選んで伝授するからです。教はどんな時代でもあります。道が伝えられない時でも教は存在し、道が盛んに興るときでも教はやはり存在しています。その理由は、教は人道の基本を強化するものであり、なるがゆえに道は教を離れることはなく、教もまた道を離れることはありません。なぜなら道がもし教を離れれば、教が道から離脱し、異端邪説に走ってしまうからです。

道を信奉すれば、生死を超越して、輪廻を離脱し、西方極楽に登り、あらゆる災難を避け、恨仇を解消し、罪を消滅し、運命を改善して果報が得られます。故に古人が「天上天下を通じ唯一道のみ最も尊し」と言われたのも決して虚言ではありません。