死とどう向き合うのか?

釈迦先生の仏教が伝える死への向き合い方のブログです。

盤珪禅師法語 第8

2019-07-19 21:31:10 | 盤珪先生


盤珪禅師の法語の続きをご紹介します。


「盤珪禅師法語集 上 網干の巻 藤本槌重編著 春秋社刊」を参考にして、

管理人が口語風に訳しています。


『 不生にして霊明なのが、仏心に極まったという事を決定すれば、


千万人、乃至、天下の人が寄り集まって、


口をそろえて、カラスをサギと言いくるめても、カラスは染めなくても黒く、


サギは染めなくても白いという事は、いつもよく見て知っていることですから、


どんなに人が言いくるめようとしても、なかなか言いくるめられずに確かになります。



まず、そのように不生にして霊明なのが仏心、


仏心は不生にして一切の事が調うということさえ、


人々が確かに決定して知っていれば、


最早、人に間違ったことを教え込まれることもなく、


言いくるめられることもなく、人の惑わしを受けないようになります。


そのように成った人を、決定した人と言って、


すなわち、今日、不生の人で、未来永劫の活き如来であります。


身共が若き時分、


はじめてこの不生の正法を説きだしたころは、


皆の人が理解することができず、


身共を外道(仏教以外の教え)か、


また、キリシタンのように思って、


みんなが恐ろしがって、一人も寄り付きませんでした。


次第に、


皆、身の上の非(至らないこと)を知りまして、


正法であるということをよく存じて、


ただ今は、むかし一人も寄りつかなかったのに替わって、


あまり、また、人が来過ぎまして、


身共をせっつき、逢いたがって、身共がゆっくりできぬようになりました。


ものごとには時期というものがあります。


身共がここに住してから四十年ほど、


たびたび人に法話をしますから、


このあたりには、仏道の良き指導者が多くでき、


皆さん方も、このたび、遠方よりはるばる来られたからには、


仏心(慈悲のダンマ)を、心(念・想い)に置き換えないように、


不生の道理をとっくりと決定し、法を成就してお帰りください。



禅師、一日、人々に示して言われました。


一切の迷いは、皆、エゴ(身のひいき)ゆえに、迷ってしまうのです。


エゴ(身のひいき)と離れたならば、一切の迷いはできません。


たとえば、隣の人がけんかをすれば、


自分に関係ないことであれば、聞こえるだけのことで、自分の腹は立ちません。


また、自分の腹が立たないだけではなく、


道理にかなっているか、かなっていないかについても、


明らかに聞くことができますが、


もし、我が身に関係することであれば、


向こうの物に関心を持ち、


執着して、霊明なものをごまかして、


道理が明らかになっているものを、


エゴ(身のひいき)に引かれて、


道理側も無理筋側も、


道理が自分の方にあるように理屈をつけて、


腹を立て、仏心をつい修羅に置き換えて、


互いに責め合います。


或いは、また、仏心は霊明ですから、


過去より自分が為してきたことの影が、


写らないないわけではありません。


写ります。


その写る影にとらわれると、


つい、また、迷ってしまいます。


心(想い)は底にあって起こるものではありません。


過去より見たり聞いたりした事の縁によって、


その見たり聞いたりした記憶を入れておいた、


その記憶が出て来て、


影が生じ、


写るというものございます。


本来、心(想い)には実体がありませんので、


写れば写るまま、起こったならば起こったまま、止めば止むままにして、


その写る影にさえとらわれなければ、迷うことはできません。


とらわれなければ迷いませんから、いくら影が写っても、写らないのと同じことです。


たとえ、心(想い)が、百、千、と起こっても、


起こらないのと同じ事で、少しも妨げにならなければ、


払う心の、断つ心の、と言うのは、一つもありませんから、


よく納得(合点)してください。



以上、「盤珪禅師の法語 第8」を終わります。



修行する者にとってとても参考になる法話です。


「あるがまま」として、とらわれず、「そのまま」にする方法もあります。


お役に立てば幸いです。
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