釈尊と造化三神と盤珪禅師の悟りが預言する ~神道にも悟りがある

悟り(魂の研磨)を広報伝達する。悟って輪廻を卒業する。悟って自己実現する。悟って神仏習合・ユートピア実現。

臍下丹田(せいかたんでん)の底から突き上がる神の心に気づきましょう

2020-10-22 09:38:49 | 不生の良心のダンマ(法・神)
臍下丹田(せいかたんでん)の底から突き上がる神の心に気づきましょう

臍下丹田(せいかたんでん)の底から込み上げる、と表現できる場合もあります。

臍下丹田(せいかたんでん)は「おへその下あたり」を言います。

臍下丹田の底ですから、おへその下あたりのもう少し下あたり、です。


そのあたりから、神の心が頭頂部を目指して突き上がり、ます。

それが、神の心、です。


神の心と感情は違います。


感情は脳の主に大脳辺縁系を始点としています。感情は脳が始点です。

神の心は臍下丹田の底が始点です。


感情は起こってもそのままにしておけば消えてゆきます。そのまましておかずに感情が成長して行きますと、感情は現象化して消えて行きます。

これが感情の終点です。


それに対して神の心は頭頂部を突き抜けて頭上に留まります。


このように神の心と感情では始点と終点が異なるのです。

仏教でいえば、感情は「縁(えん)」になります。縁起の法(原因・縁・結果の法則)の「縁」です。

それに対して、「臍下丹田の底から突き上がる神の心」は、盤珪禅師の「不生の仏心のダンマ(法)」になります。このブログでは「不生の良心のダンマ」とも呼んでいます。


神道では、「臍下丹田の底から突き上がる神の心」は、造化三神の「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)=不生の良心の神」と呼んでいます。

英語で言えば、「臍下丹田の底から突き上がる神の心」は「ホーリー・スピリット(聖なる魂・聖なる心)」と表現できるでしょう。


上記のことは理論ではなくそれぞれの内面において確認できることです。

無財の七施(むざいのしちせ)の「捨身施(しゃしんせ)」は
「臍下丹田の底から突き上がる神の心」を目覚めやすくしたり
成長させたりするのに有効です。

捨身施は身体を使うボランティアです。

エゴを捨てるボランティアです。

ただし身を滅ぼすようなことはしないでください。


たとえばゴミ拾いのボランティアをするとします。

この時、集団でするのではなく、一人でします。

一人でするのは、照れ臭い、恥ずかしい、複数以上でしたい、などと思うでしょうが、一人でします。

照れ臭い、恥ずかしい、複数以上でしたい、はエゴが痛んでいるのです。

ごみ拾いなどの捨身施のボランティアをするときは事件や交通事故に巻き込まれないように注意してしてください。
夜間はやめてください。
下を見ていますから周りに注意しながらしてください。

私は、このようなボランティアをしてますよと、人にエゴを誇ってはなりません。

エゴを誇っていると「臍下丹田の底から突き上がる神の心」は目覚めませんし成長しません。

プラスとマイナスを合わせていると、せっかくの捨身施の有効性はゼロになります。

「臍下丹田の底から突き上がる神の心」を目覚めさせる修練ですから根気よく謙虚に続けて行きましょう。

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輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情について  ②

2020-10-19 13:16:56 | 輪廻を言わなくなった諸事情について
輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情について  ②

釈尊は、魂の苦しみを滅する方法として、
輪廻を卒業すること(解脱)を示されたのですが、
前回の諸事情の一つ目と、以下の諸事情の三つの理由によって、
人々から輪廻を卒業する気持ちが消えて行きました。


諸事情の二つ目は、
ほとんどの法を説く者(説法者)が、
輪廻から卒業する方法を具体的に示すことができなくなったことです。

説法者が、輪廻から卒業することを人々に説いたとしたら、
いつか必ず、人々から輪廻を卒業するにはどうしたら良いですか? 
の質問を受けることになるでしょう。

この質問に、
ほとんどの説法者が
輪廻から卒業する具体的方法を示すことができませんから、
説法者はとても困った状況になります。

それならば
はじめから輪廻は言わないことにしようとなっているのでしょう。

諸事情の三つ目は、
お手軽な「南無〇〇〇・・・・」を創作し、
これによって「浄土に移転しよう」とか、
「何々と一体になろう」とかいうような
即席の教えが出て来ましたから、
人々から「輪廻を卒業する」という課題が消えて行ったのでした。

「南無〇〇〇・・・・」では、輪廻の中にあり続け、
輪廻を卒業することはできません。


諸事情の四つ目は、「本来の菩薩道を歩む」のではなく、
「エゴの菩薩道を歩む」ことに満足しているために、
人々から輪廻を卒業する気持ちがなくなったことです。

エゴの内でも、特に、
本人が所属している仏教教団の教えへの執着(エゴ)が強いために
エゴの菩薩道になっており、
人々は、執着を薄め無くしていく、
本来の菩薩道はいらないという状態になっています。

そのために本来の菩薩道は無いものとされています。

真理と教えは異なっているのですが、その区別がつかないようです。

だいたい以上のような諸事情によって、
人々から輪廻を卒業したいという要望が消えて行きました。

これでは人々は輪廻を卒業したくても
輪廻を卒業する情報を知ることはできません。


日本仏教だけでなく、東南アジアの南伝仏教(小乗仏教)でも、
菩薩道を通らない縁覚(えんがく)や阿羅漢(あらかん)の悟りによって輪廻を卒業する状況ですから、
菩薩道を通って、仏に成って(無我の体験のダンマを実現して)、輪廻を卒業する道は無い状況です。

現在、
菩薩道を通って仏に成って輪廻を卒業する道が広くあるのなら、
世の人々の内面は、赤ちゃんが誕生した時の場のように
明るく喜びがあり安らいで居るでしょう。

そのような人々の集合体である世の中も
明るく喜びがあり安らいでいるでしょう。


東南アジアの南伝仏教では、お布施をした在家者が、
お布施を受けた出家者に感謝します。
出家者は、布施をした在家者に感謝をしなくてもいいのです。
このような状況では、
南伝仏教の出家者が菩薩道を実現することはなかなか難しいでしょう。

その結果、
菩薩道を通らない縁覚(えんがく)や阿羅漢(あらかん)になって
輪廻を卒業することはできますが、

菩薩道を通って、仏に成って(無我の体験のダンマを実現して)、輪廻を卒業することはできないのです。


菩薩道をしないと、
輪廻の下位に落ちていくリスクがあります。

大乗仏教で言いますと、
菩薩道をしないと、
人界より下位の修羅界に落ち、
さらに下位の畜生界に落ち、
さらに下位の餓鬼界に落ち、
さらに下位の地獄界に落ちるリスクがあるのです。

このブログでは、
菩薩道を通って(不生の良心のダンマを実現して)、
仏に成って(無我の体験のダンマを実現して)、
輪廻を卒業する方法をお伝えしています。

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輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情について  ①

2020-10-17 12:15:01 | 輪廻を言わなくなった諸事情について
輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情について  ①

日本の仏教は、釈尊のおられたインドにはじまり、次にインドから中国に行き、さらに中国から日本に伝えられたものなのです。このように三か国を通って伝わって来た日本の仏教を「三国の教え」とも言います。

日本仏教は三国の教えですから釈尊の仏教と大きく異なっています。

何も知らない者が日本の仏教を学んで釈尊の悟りを実現することはとても難しいことなのです。


苦諦の理解ですが、釈尊の悟りの場合と、日本仏教の場合とでは異なっています。

日本仏教の苦諦は、人生は苦しみである、一切は苦しみである、と肉体に関連する苦しみを言っています。

苦しみの内訳は、
生・老・病・死の四つの苦しみ、

それに、
愛別離苦(あいべつりく:死別など愛する者と別れなければならない苦しみ)
怨憎会苦(おんぞうえく:怨み憎む者と会わなければならない苦しみ)
求不得苦(ぐふとっく:求めても得られない苦しみ)
五陰盛苦(ごおんじょうく:色・受・想・行・識という生命を構成する五つの要素が盛んであるため生じる苦しみ)

の四つが加わって、合計八苦とされています。


苦諦を上記のように肉体に関連するように理解しますと、管理人はけだるさの感覚が生じ、エネルギーが失われていくのを感じます。

肉体に関連させて苦諦を理解しますと、

けだるさの感覚が生じますから、

苦諦とは、輪廻する(前世の記憶を失って生き通す)ことによる苦しみである、と理解しています。


苦しみを「輪廻から生じる苦しみ」と理解していますから、輪廻から脱出しよう、菩薩になろう、仏にをなろう、神になろう、と自然に導かれ、それによってエネルギーが充ちて来ます。


苦諦を「輪廻からの苦しみ」と理解すれば、

今世において輪廻を卒業する目標も設定できますし、

死後肉体から思考が離脱したときの対応の準備もできますし、

来世への準備もできます。

まるでこれから小学校を卒業する小学六年生のように、

中学校に入学する準備しているようなものです。

日本仏教では、

苦諦が釈尊の仏教と異なった理解になっていますので、

本来の、輪廻によって生じる苦しみ、

を人々から覆い隠しています。


以上が、輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情の一つ目です。

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無財の七施(むざいのしちせ)

2020-10-15 19:53:00 | 不生の良心のダンマ(法・神)
無財の七施(むざいのしちせ)

お金や物がなくてもできる七つのボランティアが仏教にあります。

それを無財の七施(むざいのしちせ)と言います。


一つ目は「慈眼施(じげんせ)」です。慈しみの眼差しで人を見るボランティアです。

二つ目は「和顔施(わげんせ)」です。柔和な笑顔で人と接するボランティアです。

三つ目は「愛語施(あいごせ)」です。「おはよう」「ただいま」「はい」「ありがとう」「こんにちは」「こんばんは」「ごめんなさい」などはもちろんのこと、人に慈愛のこもった言葉を使うボランティアです。

四つ目は「捨身施(しゃしんせ)」です。身体を使ってするボランティアです。

五つ目は「心慮施(しんりょせ)」です。相手の立場にたっての、思いやりや、心くばりをするボランティアです。

六つ目は「床座施(しょうざせ)」です。座席や場所や地位などを譲るボランティアです。

七つ目は「房舎施(ぼうしゃせ)」です。本来は疲れ果てて困っている旅人に我が家をお貸しするボランティアでしたが、現代では一時的に持っているものをお貸しするボランティアになるでしょう。お借りしたものは必ずお返しするようにしてください。


上記の無財の七施を、自分のためにするのか? 相手のためにするのか?

どちらのためにするのかは、

無財の七施をする人の死生観によって変わるでしょう。


この人生で終わりだ、来世など無い、と思う人は、無財の七施を、道徳や倫理のように、社会的な義務として相手のためにすると受け取られるでしょう。


それに対して、輪廻して生き通しをしている、今は人間として生きている、と思う人は、無財の七施を、自分の来世のために善を積んでいると受け取られるでしょう。

自分のために無財の七施をするのですから力が入ります。

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五感でとらえられる全ての対象に対してエゴが痛むように感謝する

2020-10-13 13:29:49 | 不生の良心のダンマ(法・神)
五感でとらえられる全ての対象に対してエゴが痛むように感謝する

五感でとらえられる全ての対象に対して

エゴが痛むように感謝を重ねて行きますと、

次第に、

「不生の良心のダンマ(法・神)=高御産巣日神(タカミムスビノカミ)」が目覚めるようになって行きます。



今まで、

「無視していた、粗末にしていた、放っておいた、当然と思っていた、疎外していた、ないがしろにしていた、気が付かなかった、軽んじていた、かえりみることのなかった」

五感でとらえられる全ての対象に対して、

エゴが痛むように感謝をします。


たとえば、空気、を例にとります。

ネットで調べますと

『空気の役割は、成層圏のオゾン層と共に、地表とそこに生存する人や動植物を保護しています。 太陽の熱や光を吸収したり、いん石やチリなど宇宙からの落下物の影響を緩和したり、地球上の生物の生存に大きな役割を果たしています』とあります。


空気に上記の働きをしてもらって、人間の肉体は、私の肉体は、生きています。

「空気に上記のことをしてもらっていること」に対して、

私は、

「無視していた、粗末にしていた、放っておいた、当然と思っていた、疎外していた、ないがしろにしていた、気が付かなかった、軽んじていた、かえりみることをしなかった」

のどれかをしています。


空気を、

「無視していた、粗末にしていた、放っておいた、当然と思っていた、疎外していた、ないがしろにしていた、気が付かなかった、軽んじていた、かえりみることをしなかった」ことに対して

「空気さん、ごめんなさいね。今まで、かえりみずに、ごめんなさいね、ごめんね」などのお詫びの脳波(テレパシー)を空気に対して送ります。


また、「空気さん、いろいろしてくれていて、ありがとう」
「ありがとう。今までありがとうね、できるだけ空気を汚さないようにするからね」とお礼の脳波(テレパシー)を空気に対して送ります。

人との関りが無くても森羅万象すべてに対して、

お詫びとお礼の脳波(テレパシー)を送って、

森羅万象すべてに対してお詫びとお礼を表す感謝をすることができます。

一度試してみてください。

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