釈尊と造化三神と盤珪禅師の悟りが預言する ~神道にも悟りがある

悟り(魂の研磨)を広報伝達する。悟って輪廻を卒業する。悟って自己実現する。悟って神仏習合・ユートピア実現。

古事記の造化三神「神産巣日神・カミムスビノカミ」が般若心経の世界を科学的に表現する

2020-10-28 08:10:25 | 古事記の序文「造化三神」を科学的に表現する
古事記の造化三神「神産巣日神・カミムスビノカミ」が般若心経の世界を科学的に表現する

何も無い空間に、無量の光子と、無量の陽極の電子と、無量の陰極の電子が現れて、この現象世界のベースを造りました、と前回に述べました。

前回は書いておりませんでしたが、無量の光子(光)は情報を伝えることが出来ます。「何も無い空間」すなわち「根源」を、「神」と表現するのは情報の源だからでしょう。

それらのベースの上に「原因・縁・結果の法則」が加わって、バーチャルの立体映像の現象世界ができています。

その現象世界は、粒子による物理現象の世界と、波動による想念現象の世界の、二つの世界に分かれたと述べました。


塊(かたまり)のように見える物質は、現実は、塊(かたまり)ではなく、ほとんどスカスカの空間なのです。それを科学的に分析することができます。

最近では、人体は37兆個の細胞で成り立っている、と言われています。

それらの細胞を小さく分析しますと「分子」というものに行きつきます。分子とはそれぞれの物質の性質を失わない最小の単位と言うことができるでしょう。

これらの分子をさらに小さく分析しますと「原子」というものに行きつきます。たとえば水の分子(H2O)は、水素の原子2個と、酸素の原子1個でできています。

1910年ごろまでは「原子」が物質の究極の姿だと考えられていました。

しかし1910年代に入ってから「原子核」が発見され、「電子」が発見されて、原子は「原子核」と「電子」から成り立っていることも発見されました。

原子は1センチの1億分の1という大きさです。

原子の中心となる「原子核」は1センチの1万億分の1です。原子核は原子の1万分の1の小ささです。

電子は10万億分の1センチという大きさです。電子は原子の10万分の1の小ささです。

原子の中の「原子核」と「電子」の間には「空間」が存在しています。

あまりにも超ミクロの世界ですので拡大してご説明します。

原子核をバレーボールぐらいの大きさとしますと、電子はビー玉ぐらいの大きさになります。原子核と電子の間は75キロメートルぐらいの距離が離れています。東京駅から小田原駅ぐらいまでの距離です。
その75キロメートルぐらいの距離が離れた間は「何も無い空間」になっています。

つまり、原子は、バレーボールぐらいの大きさの原子核と、ビー玉ぐらいの大きさの電子、で成り立っており、バレーボールとビー玉の間の距離は75キロメートルぐらい離れているのです。このような感じの存在が原子なのです。

原子はほとんど何も無い空間でできているのです。

人体は原子の集まりでできていますから、人体のほとんどは何も無い空間なのです。

しかし目は人体がほとんど空間なのに塊(かたまり)であるように見えます。


また、一人の人体の空間を無くして原子核と電子だけにしますと、たとえようもなく小さくなりますので、20億人分の原子核と電子を集めたとしますと、20億人分の元素の体積がアズキ1粒ぐらいの大きさになります。

一人の人体の29種類の元素の体積はアズキ1粒の20億分の1ぐらいしかないのです。

人体は29種類の元素がふくらんでいる、ほとんど空間だけの構造体なのです。

地球も原子核と電子だけにしてしまうと、リンゴ1個分ぐらいにしかならないのです。

人体だけではなく、植物や、動物、鉱物、ウイルス、空気までもが、大きくは宇宙の星たちも、みな、原子核や電子でできていますからほとんど空間なのです。

基準の取り方で若干の差はあるでしょうが、ほとんど空間という感じなのです。

私たちはほとんど空間の立体映像の物質世界にいます。

個人差はありますが、古事記の造化三神のひとつ「神産巣日神・カミムスビノカミ」を実現しますと、自ずから在るがままに観ることができて、般若心経の世界を一瞥できるのです。

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宇宙のはじまりは古事記の造化三神によって造られた

2020-10-24 20:59:27 | 古事記の序文「造化三神」を科学的に表現する
古事記の序文「造化三神」を科学的に表現します。

三種の神器によって封印されていた造化三神をすでに解放いたしました。

今回は科学的に表現して造化三神をさらに解放したいと思います。


人には二つの脳があると言われています。一つは「臍下丹田の脳」です。もう一つは「頭の脳」です。

頭の脳を休める習慣がありますと、頭の脳はあまり動かずに、臍下丹田の脳がよく働くようになります。

二つの脳があるのですから認識も二つあります。


臍下丹田の脳の認識によりますと、古事記の序文には自然科学的な真理が隠れているように観えます。


古事記の序文

『天地が初めて分かれた時、

高天原(たかまがはら)に登場した神の名は、

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、

次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、

次に神産巣日神(カミムスビノカミ)。

この三柱の神は、

みな獨神(ひとりがみ)と成りまして、

身を隱(かく)したまひき。』とあります。



「臍下丹田の脳」が認識する造化三神を科学的表現によって解放します。

古事記の序文は次のような科学的表現になります。

『「天地=何も無い空間」から、
無量の光子(天之御中主神・アメノミナカヌシノカミ)が現われました、
次に無量の陽極の電子(高御産巣日神・タカミムスビノカミ)が現われました
次に無量の陰極の電子(神産巣日神・カミムスビノカミ)が現われました。

それぞれは空間に単独で存在しています、
それぞれは空間に隠れています』


この宇宙のはじまりのとき、造化三神はほぼ同時に現れたでしょう。


古事記が伝えるこの宇宙のはじまりを簡単な二枚の図にしてみました。


一枚目
             ⇒無量の陽極の電子⇒
                       ↓
何も無い空間⇒無量の光子 ⇒無量の光子  ⇒ ⇒原因と縁と結果の法則⇒現象世界⇒
(根源)                   ↑
             ⇒無量の陰極の電子⇒




二枚目
         ⇒粒子による物理現象 ⇒自然循環
        ↑
⇒ 現象世界 ⇒  
        ↓
         ⇒波動による想念現象 ⇒自然循環(輪廻)






解 説

宇宙はじまりの時、何も無い空間に、無量の光子と、無量の陽極の電子と、無量の陰極の電子、が、ほぼ同時に現れました。

これが宇宙はじまりの、大爆発、ビッグバン、です。


無量の光子を、無量の陽極の電子と無量の陰極の電子よりも、少し先行させて図を書きました。


無量の光子と、無量の陽極の電子と、無量の陰極の電子は、この宇宙のはじまりの基礎を造りました。


〇光子(光)と電子(電気)の二重性について:

量子力学によりますと、光子(光)と電子(電気)は、「粒子」と「波動」という二つの性質をあわせ持っています。

よって、現象世界は、粒子によって起こる物理現象と、波動によって起こる想念現象の、二つの世界ができました。


〇私たちが生きているこの現象世界は、
何も無い空間に、
無量の光子と、無量の陽極の電子と、無量の陰極の電子、
が基礎を造りました。
その基礎の上に「原因・縁・結果の法則」が加わって
バーチャルな立体映像の現象世界ができました。

現象世界は、
粒子による物理現象の世界と
波動による想念現象の世界の二つに分かれました。

このように臍下丹田の脳から観れば
古事記の序文に自然科学的な真理が隠れているのが観えます。

また、臍下丹田の脳を生き方に活用しますと、
現代人一般の生き方よりもだいぶ楽になるでしょう。

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臍下丹田(せいかたんでん)の底から突き上がる神の心に気づきましょう

2020-10-22 09:38:49 | 不生の良心のダンマ(法・神)
臍下丹田(せいかたんでん)の底から突き上がる神の心に気づきましょう

臍下丹田(せいかたんでん)の底から込み上げる、と表現できる場合もあります。

臍下丹田(せいかたんでん)は「おへその下あたり」を言います。

臍下丹田の底ですから、おへその下あたりのもう少し下あたり、です。


そのあたりから、神の心が頭頂部を目指して突き上がり、ます。

それが、神の心、です。


神の心と感情は違います。


感情は脳の主に大脳辺縁系を始点としています。感情は脳が始点です。

神の心は臍下丹田の底が始点です。


感情は起こってもそのままにしておけば消えてゆきます。そのまましておかずに感情が成長して行きますと、感情は現象化して消えて行きます。

これが感情の終点です。


それに対して神の心は頭頂部を突き抜けて頭上に留まります。


このように神の心と感情では始点と終点が異なるのです。

仏教でいえば、感情は「縁(えん)」になります。縁起の法(原因・縁・結果の法則)の「縁」です。

それに対して、「臍下丹田の底から突き上がる神の心」は、盤珪禅師の「不生の仏心のダンマ(法)」になります。このブログでは「不生の良心のダンマ」とも呼んでいます。


神道では、「臍下丹田の底から突き上がる神の心」は、造化三神の「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)=不生の良心の神」と呼んでいます。

英語で言えば、「臍下丹田の底から突き上がる神の心」は「ホーリー・スピリット(聖なる魂・聖なる心)」と表現できるでしょう。


上記のことは理論ではなくそれぞれの内面において確認できることです。

無財の七施(むざいのしちせ)の「捨身施(しゃしんせ)」は
「臍下丹田の底から突き上がる神の心」を目覚めやすくしたり
成長させたりするのに有効です。

捨身施は身体を使うボランティアです。

エゴを捨てるボランティアです。

ただし身を滅ぼすようなことはしないでください。


たとえばゴミ拾いのボランティアをするとします。

この時、集団でするのではなく、一人でします。

一人でするのは、照れ臭い、恥ずかしい、複数以上でしたい、などと思うでしょうが、一人でします。

照れ臭い、恥ずかしい、複数以上でしたい、はエゴが痛んでいるのです。

ごみ拾いなどの捨身施のボランティアをするときは事件や交通事故に巻き込まれないように注意してしてください。
夜間はやめてください。
下を見ていますから周りに注意しながらしてください。

私は、このようなボランティアをしてますよと、人にエゴを誇ってはなりません。

エゴを誇っていると「臍下丹田の底から突き上がる神の心」は目覚めませんし成長しません。

プラスとマイナスを合わせていると、せっかくの捨身施の有効性はゼロになります。

「臍下丹田の底から突き上がる神の心」を目覚めさせる修練ですから根気よく謙虚に続けて行きましょう。

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輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情について  ②

2020-10-19 13:16:56 | 輪廻を言わなくなった諸事情について
輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情について  ②

釈尊は、魂の苦しみを滅する方法として、
輪廻を卒業すること(解脱)を示されたのですが、
前回の諸事情の一つ目と、以下の諸事情の三つの理由によって、
人々から輪廻を卒業する気持ちが消えて行きました。


諸事情の二つ目は、
ほとんどの法を説く者(説法者)が、
輪廻から卒業する方法を具体的に示すことができなくなったことです。

説法者が、輪廻から卒業することを人々に説いたとしたら、
いつか必ず、人々から輪廻を卒業するにはどうしたら良いですか? 
の質問を受けることになるでしょう。

この質問に、
ほとんどの説法者が
輪廻から卒業する具体的方法を示すことができませんから、
説法者はとても困った状況になります。

それならば
はじめから輪廻は言わないことにしようとなっているのでしょう。

諸事情の三つ目は、
お手軽な「南無〇〇〇・・・・」を創作し、
これによって「浄土に移転しよう」とか、
「何々と一体になろう」とかいうような
即席の教えが出て来ましたから、
人々から「輪廻を卒業する」という課題が消えて行ったのでした。

「南無〇〇〇・・・・」では、輪廻の中にあり続け、
輪廻を卒業することはできません。


諸事情の四つ目は、「本来の菩薩道を歩む」のではなく、
「エゴの菩薩道を歩む」ことに満足しているために、
人々から輪廻を卒業する気持ちがなくなったことです。

エゴの内でも、特に、
本人が所属している仏教教団の教えへの執着(エゴ)が強いために
エゴの菩薩道になっており、
人々は、執着を薄め無くしていく、
本来の菩薩道はいらないという状態になっています。

そのために本来の菩薩道は無いものとされています。

真理と教えは異なっているのですが、その区別がつかないようです。

だいたい以上のような諸事情によって、
人々から輪廻を卒業したいという要望が消えて行きました。

これでは人々は輪廻を卒業したくても
輪廻を卒業する情報を知ることはできません。


日本仏教だけでなく、東南アジアの南伝仏教(小乗仏教)でも、
菩薩道を通らない縁覚(えんがく)や阿羅漢(あらかん)の悟りによって輪廻を卒業する状況ですから、
菩薩道を通って、仏に成って(無我の体験のダンマを実現して)、輪廻を卒業する道は無い状況です。

現在、
菩薩道を通って仏に成って輪廻を卒業する道が広くあるのなら、
世の人々の内面は、赤ちゃんが誕生した時の場のように
明るく喜びがあり安らいで居るでしょう。

そのような人々の集合体である世の中も
明るく喜びがあり安らいでいるでしょう。


東南アジアの南伝仏教では、お布施をした在家者が、
お布施を受けた出家者に感謝します。
出家者は、布施をした在家者に感謝をしなくてもいいのです。
このような状況では、
南伝仏教の出家者が菩薩道を実現することはなかなか難しいでしょう。

その結果、
菩薩道を通らない縁覚(えんがく)や阿羅漢(あらかん)になって
輪廻を卒業することはできますが、

菩薩道を通って、仏に成って(無我の体験のダンマを実現して)、輪廻を卒業することはできないのです。


菩薩道をしないと、
輪廻の下位に落ちていくリスクがあります。

大乗仏教で言いますと、
菩薩道をしないと、
人界より下位の修羅界に落ち、
さらに下位の畜生界に落ち、
さらに下位の餓鬼界に落ち、
さらに下位の地獄界に落ちるリスクがあるのです。

このブログでは、
菩薩道を通って(不生の良心のダンマを実現して)、
仏に成って(無我の体験のダンマを実現して)、
輪廻を卒業する方法をお伝えしています。

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輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情について  ①

2020-10-17 12:15:01 | 輪廻を言わなくなった諸事情について
輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情について  ①

日本の仏教は、釈尊のおられたインドにはじまり、次にインドから中国に行き、さらに中国から日本に伝えられたものなのです。このように三か国を通って伝わって来た日本の仏教を「三国の教え」とも言います。

日本仏教は三国の教えですから釈尊の仏教と大きく異なっています。

何も知らない者が日本の仏教を学んで釈尊の悟りを実現することはとても難しいことなのです。


苦諦の理解ですが、釈尊の悟りの場合と、日本仏教の場合とでは異なっています。

日本仏教の苦諦は、人生は苦しみである、一切は苦しみである、と肉体に関連する苦しみを言っています。

苦しみの内訳は、
生・老・病・死の四つの苦しみ、

それに、
愛別離苦(あいべつりく:死別など愛する者と別れなければならない苦しみ)
怨憎会苦(おんぞうえく:怨み憎む者と会わなければならない苦しみ)
求不得苦(ぐふとっく:求めても得られない苦しみ)
五陰盛苦(ごおんじょうく:色・受・想・行・識という生命を構成する五つの要素が盛んであるため生じる苦しみ)

の四つが加わって、合計八苦とされています。


苦諦を上記のように肉体に関連するように理解しますと、管理人はけだるさの感覚が生じ、エネルギーが失われていくのを感じます。

肉体に関連させて苦諦を理解しますと、

けだるさの感覚が生じますから、

苦諦とは、輪廻する(前世の記憶を失って生き通す)ことによる苦しみである、と理解しています。


苦しみを「輪廻から生じる苦しみ」と理解していますから、輪廻から脱出しよう、菩薩になろう、仏にをなろう、神になろう、と自然に導かれ、それによってエネルギーが充ちて来ます。


苦諦を「輪廻からの苦しみ」と理解すれば、

今世において輪廻を卒業する目標も設定できますし、

死後肉体から思考が離脱したときの対応の準備もできますし、

来世への準備もできます。

まるでこれから小学校を卒業する小学六年生のように、

中学校に入学する準備しているようなものです。

日本仏教では、

苦諦が釈尊の仏教と異なった理解になっていますので、

本来の、輪廻によって生じる苦しみ、

を人々から覆い隠しています。


以上が、輪廻(生き通し)を言わなくなった諸事情の一つ目です。

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