ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

今回のチベット人の「決起」について思うこと

2008-03-16 22:12:05 | ダライラマ



かつて三島由紀夫は次のように語った。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」
(「サンケイ新聞」1970年7月7日)

又、生長の家創始者谷口雅春先生の「占領憲法下の日本」の序文で、次のようにも書かれている。

「このたび谷口雅春師の『占領憲法下の日本』という、憂国慨世の書を読むに当たり、私は殊に、その「生命体としての日本国家」の章に深く感動した。これこそは久しく私の求めていた国家像であり、生命体としての個的自覚と、生ける全体とをつなぐ唯一の橋がここに語られていると思われた。」

今度の、チベットにおけるチベットの人たちの決死の覚悟の「決起」をまのあたりにして、この三島由紀夫の日本に対する「遺言」を思い出さずにはおられなかった。チベットの人たちも、チベットの「国体」を日々蝕んでいく現状には我慢ならなかったのであろう。三島由紀夫と同じように、このままいったら、チベットはなくなってしまうのではないかという憂国の情が日ましに高まっていったのであろう。私はこのたび決死の覚悟で「決起」した人たちには、心からの連帯の気持ちを感じる。タイム誌も書いているように、チベットにとって、ターニングポイントになったように、私にとっても、様々に意味で、ターニングポイントとなったチベットの人たちの勇敢な行動であった。この行動によって、何かかが変わっていくはずだ。この「何か」は何であるかはまだ分からない。だが、行動を起こさなければ何も変わらないのだ。

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