ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

ロバート・サーマン教授のダライラマ法王論

2006-11-09 19:58:55 | ダライラマ
前回に引き続いて、ダライラマ法王来日中ということもあり、チベット仏教研究者ロバート・サーマン教授が、タイムアジア版に寄稿した記事を、以前、訳したことがありましたので、それをここに載せます。 原文は↓のURLにあります。

 http://www.time.com/time/asia/asia/magazine/1999/990823/lama1.html

 ◆ダライ・ラマ法王略年譜
 1935年7月6日、アムド地方で生まれる。
 2歳の時、ダライ・ラマ14世と認定される。
 1950年、宗教上政治上の全権を賦与され、中国とチベットの主権をめぐり、交渉開始する。
 1959年、8万人のチベット人と共に、インドへ亡命し、ダラムサーラにチベット亡命政権を樹立する。
 1987年、「五項目チベット和平案」を提案。
 1989年、ノーベル平和賞を受賞する。

中国共産党の軍隊による侵略により、祖国チベットから余儀なく脱出せざるを得なかったが、微笑を絶やさないチベット仏教の僧侶は、平和の主唱者として、何百万人もの人々の魂を鼓舞し、全世界にチベットの窮状を訴えている。

 最近、CNNを見ていたら、突然、現地時間早朝4時のダラムサーラにあるダライラマの書斎や瞑想ルームに連れていかれた。私はダライラマを30年以上にわたって知っているが、そのような早朝に、そういうプライベートな場所で、彼と一緒になったことはない。

 だから、ダライラマが瞑想をしたり、朝の祈りの言葉を唱えたり、時折あくびをしたりして、カメラから何も隠さずに行動している場面を見て興味 をそそられた。ある場面では、撮影の合間に、撮影者に何をしているのですかと尋ねられたとき、ダライラマは、「モチベーション(動機)を作っています。」 と答えた。何ですって?、と質問者。ダライラマ答えて曰わく、「一日の活動のための、私自身のモチベーションを形作っているのです。」

ダライラマは現在64歳(1999年当時)であるが、60年に及ぶ研究、修行、そして知的、霊的達成の後、自己の日々の考えや言葉や行動が、自分のまわりのすべての生き物の利益になるように、利他的なモチベーションを高めている。

 一体何がダライラマをこんなに興味深い人間にしているのだろうか? 何故世界中の人々が、いまだに国際社会から認められていない亡命政府と600万人のチベット人の頂点に立つ、一介の仏教僧侶のことを心配するのだろうか? たぶん、ダライラマが外交官であり、ノーベル平和賞受賞者であり、非暴力の主導者であり、地球的な責任感という考えの唱道者であり、彼が、「われわれの共通の思いやリのある、人間の宗教」と呼んでいるものの偶像であるからであろう。

 わたしたちは現在、極端なパラドックスの時代に住んでいると言える。技術は大衆によりたくさんの情報を与えるが、彼らが目にする事態のまえ で、自分たちの弱さを痛感する。病人や傷ついた人々への介護はより洗練されてきているが、狂信者の残虐な行為はより暴力的に荒れ狂っている。われわれの環 境を改善させるための知識や機械装置のパワーは限界を知らないにもかかわらず、わたしたちの地球の破壊は容赦なく続いている。このような種々の絶望的な状 況の中で、ダライラマは、異次元の文明から、はるかな高地から、そして、非常時における静寂の、苦悩時における辛抱強い忍耐の、混乱時におけるユーモアの ある知性の、切迫した破滅に直面した状況のなかでの不屈の楽観主義の、生ける手本として、わたしたちの前に現れた。

ダライラマは1935年7月6日、チベット東北部にあるアムド地方(現在中国の領土の一部)の農家に9番目の子供として生まれた。2歳の時、偉大なる精神 的指導者、ボーディサットヴァの14番目の生まれ変わりとして認定された。16世紀に、この偉大な精神的指導者の三回目の転生のとき、モンゴル王によって ダライラマという称号を与えられ、1642年には、ダライラマ五世は、チベットの政治と宗教の統合者の座に就いた。

 生まれ変わりの思想はチベットの社会では、非常に重要な役割を果たしている。仏教の僧侶が統治するチベットでは、正統的な支配者の地位は、特 定の氏族による世襲制度ではなく、輪廻転生思想による活仏制度によって決定されるからである。歴代のダライ・ラマは、チベットを、賢明に平和に300年以 上の間統治してきて、チベット人から深く敬われている。ダライラマは西洋のジャーナリストからgod-kingと呼ばれるときがあるが、これは間違ってい る。チベット人は、ダライラマの人間性、僧院における戒律の厳守、知的、霊的達成に絶対の信頼を寄せており、ダライ・ラマを僧侶の王と考えている。ダライ ラマの制度の誇るべき点の一つは、ダライ・ラマに選ばれた人間は、みんな貧しい家柄からの出身であり、あたかもプラトンが理想と考えた哲人王を養成するた めに考案されたかのような、厳格な規律の下で教育されたことである。チベット人は、悟りを開いて統治するために、その統治者に対して、高い基準を設定し た。

 私が、1960年代の初めのころ、ダライラマと初めて接触し出した時、 彼はインドの北西部のダラムサーラで5年目の亡命生活を送っており、 ちょうど29歳だった。ダライラマは現代世界の中へと歩み出し始めて いたが、その間も出家修行者として、仏教哲学や霊的修行の研鑽に いそしんでいた。彼は勇敢に亡命チベット人社会のための責任を引き 受けていた。そしてチベットを追い出された人たちが再び自分たちの 国へ戻ることができるよう世界中に働きかけていた。チベットは中国の 軍事占領下にあり抑圧されており、毛沢東の暴力的な政治的、文化的 革命によってもたらされた混乱の中で苦しんでおり、その間に、100万 人以上のチベット人が生命を失ったにもかかわらず、世界から無視さ れていた。

その当時、私はこのような出来事に全く注意を払っていなかった。 というのも、私は若すぎたし、僧侶になろうと一生懸命だったからで ある。私はその当時、毎週法王のもとへと訪れて仏教について質問 した。そのとき、法王は私に西欧に関する事柄についてたずねてきた。 私は、カント、フロイド、ユング、ライヒ、アインシュタイン、ジェファソン、 トックビル、ウェーバーなどの西欧の思想家の思想を伝えるために、 新しいチベット語を作らなければならなかった。ダライラマは何事に関 しても、好奇心旺盛で、思慮深く、理解が早く、創造的であった。 私はかつて法王に、ダライラマとしての政治的役割についてたずねた。 法王は同胞の緊急の要望がなかったならば、自分は喜んでダライラマ としての政治的地位を降りて、研究と瞑想の生活を送るだろう、と語っ た。

 正式に僧侶として認められた後、私はアメリカの僧院に戻らなければ ならなかった。後に私が僧侶を辞めて在家の身分へともどるとき、法王 は残念がった。しかし、私が博士号の研究のためにダラムサーラに一 年間滞在するためにもどってきたとき、わたしたちは再び対話を開始し、 法王は私の博士論文のために協力してくれた。私は法王の哲学的思索 力が非常に鋭くなっていることを発見した。私がアメリカに帰っていた間、 猛烈に勉強したのだ。

 70年代は、わたしたちは8年間会うことはなかった。政治的理由に より、法王はアメリカを訪問できなかったからである。法王は4,5年 の間、断続的に隠遁生活に入り、タントラの瞑想の技法をマスターし、 定期的に政治の任務をこなしていた。法王は、中国がソ連に対抗す るためにニクソン・毛同盟を結び国際社会で台頭してきたことにも めげず、機会あるごとに、チベットの窮状について訴えた。が、一般的 に言えば、世界の人たちにとって、チベット人の自由を求める闘いは、 挫折した運動の範疇に入るものであった。

1979年、法王に対するアメリカ訪問禁止措置はついに解除された。 私がその年、法王に会ったとき、法王の霊的オーラの新たな強烈さ、 仏教修行によりもたらされた瞑想技術の進歩に驚かされた。私は法王 のチベットの自由を求める闘いにかける情熱に力強く反応している自分 自身を発見した。法王の楽観主義は、私に、不正義を正したり、無慈悲 極まりない心を和らげたり、絶望のどん底の状況を変えたりすることに は、遅すぎるということはないのだ、ということを教えてくれた。私はこの 状況に対して、どのような支援の方法があるのかをたずねた時、法王は、 私に、チベット仏教の文化の知識を広めたり、その保存のためのエネル ギーを喚起するために、アメリカにチベットハウスを設立するように熱心 に勧めてくれた。私はその年の秋、法王と一緒にインドへ戻り、一年間 のサバティカルを過ごし始め、その間、法王と三回目の対話を行った。 この対話において、私は法王の仏教やチベットの将来のみならず、地球 の将来の行方に対しての、新しい、深い洞察力と献身に感銘を受けた。 法王は地に足のついたユーモアや謙遜、好奇心や友情を保ち続けた。

80年代の初め、中国の胡耀邦首相はチベットを訪れ、毛沢東の破壊的政策 の影響を見て、明らかに動揺していることがうかがえた。胡は、抑圧的な政策 の一部をゆるめ、部分的に宗教や文化、そして外部の世界との交流を復活 させた。そしてチベット亡命政府と交渉を始めた。 このような中国側の政策の変化によて、チベットの地位やチベット人の生活の 本当に改善がなされるのではないかという希望が芽生えてきた。しかし、 これらの希望は、Deng Xiaoping が胡耀邦首相を解任し、ダライラマとの交渉 を打ち切り、過去の破壊的政策を再び始めたとき、潰えてしまった。

 ダライラマはこのような中国側の変化にもめげず、世界中の大陸の国々を 訪れ続けた。80年代の中ごろ、わたしたちは、ダライラマの周囲に広がって いた影響力のある友人たちの援助により、ニューヨークにチベットハウスを 設立することができた。1990-91年には、A Year of Tibetが宣言され、35ヶ国 でイベントが開催された。ニューヨークの続いて、チベットハウスは、メキシコ シティー、ロンドン、パリ、ミラノ、東京、その他の都市にも設立された。 ノルウェーのノーベル委員会は、1989年の平和賞をダライラマに決定した。 ベルリンの壁は崩れ、多くのソビエト陣営の衛星国は自主決定権を獲得した。 チベット問題解決のための希望は再び芽生えはじめた。

 しかし、それ以後の年は、チベット人にとって、失望の連続であった。 90年代の初め、チベットの新しい夜明けが、喪失と恐怖の長い夜に代わって、 始まるのではないかと思われた。賢明な、少なくとも、プラグマティックな政策が、 共産主義帝国の廃墟から、実施されるのではないかという期待を抱かせた。 しかし、Dengは頑固に、ダライラマへの攻撃や、チベット文化の弾圧を再開し、 チベット高原の集中的な植民地化や工業化を押し進めた。Dengの後継者も 同じように、チベット特有のアイデンティティーを圧迫し続けた。そして、再び、 共産主義者による思想改造を、僧院や尼僧院に対して実施し、抵抗する僧院 や尼僧院は閉鎖した。中国の権力者たちは、自分たちが勝手にパンチェンラマ の転生者を選定したが、ダライラマの同意がなければ、チベット人はそんなものは 認めることはあり得ないということを知らなかった。また、中国政府は、ダライラマ の写真を押収したり、あらゆる機会に法王を非難し、すべての対話を断ちきった。

 ダライラマはいつも明るく振る舞い、希望を絶やさず、以前と同様に、いつでも 対話を行う用意が出来ていた。重要な進展は、法王が初めて台湾を訪問し、世界 中の人々がダライラマは中国人の間で、いかに人気があるかを知ったとき、やって きた。

ダライラマ法王は世界で最も偉大な、非暴力と思いやりの生きた手本であり、 どんな信仰をもっている人間でも、法王から学ぶことが出来る。法王は誰であれ 強制的に仏教へ改宗させようとはされないし、異宗教間の寛容を説いている。 法王はガンディーやキング牧師の系譜に連なる霊的な活動家である。 法王の第一の責任はチベット人を守ることであるが、中国人(その指導者も含む) の霊的向上のために貢献する用意もできている。 法王は、説法や著書を通して、世界中の仏教徒や他の宗教を信じる人々の精神的 向上のために貢献し、魂を鼓舞している。

 ダライラマ法王は、来るべき世紀を、次の現在予想通りに起こっている四つの 変化のために、希望に満ち溢れた世紀になるだろうと予想している。 まず第一に、全世界的な戦争に対する嫌悪と、平和の力に対する確信へと人類 の意識が変わっていること。第二に、巨大なシステムに対する信仰の消滅と、自由 な創造的な個人を尊重する考えの復活。第三に、物質的科学に対する盲目的な 信仰から精神科学も認めていこうという意識の変化。そして、第四番目として、 技術にたいする絶対の信頼の崩壊と、地球上のすべての生き物が健康で幸せな 生活を送ることができ、環境のバランスを維持するために、自然の力を見直そう という人類の意識の変化。 20世紀の最も偉大な人間の一人として、ダライラマ法王は、人類は21世紀に、その 最も高い可能性に気付くだろうという力強いヴィジョンを発信している。 この意味において、ダライラマ法王の役割は、チベット人やモンゴル人のための Dalai Lama から、Dalai Lama の本来の意味である、全世界のための、大海の 師へと、拡大しているのだ。

 ◆Robert A.F. Thurman heads the Center for Buddhist Studies at Columbia University