「白洲正子文学逍遥記」
「かくれ里」編
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小野妹子
その4
「京都・六角堂と如意輪観音と小野妹子」
先回は北近江の湖北や湖西から大きく飛び出して、京都の中心まで行ってしまった。
「かくれ里」と言いながら、近畿地方をあちこち飛び回ることになってしまった。
今回も先回と同様に、時間空間を思い切り飛び回るつもりである。
-<小野妹子>-
小野妹子とはいかなる人物であったであろうか?
現在、大阪に在住の小野妹子の子孫・十三世 木津屋治郎兵衛(きづやじろべい)・日下治郎兵衛 なる方の資料が手元にある。先ずはその資料を参考にして、「小野妹子」について書いてみたい。しかし、余りにも遠い過去に存在された方であるので、証拠資料などが乏しいのは否めない。
生没年不詳とされている。時代的には飛鳥時代である。AD530年~540年に生まれ、没年は池坊の説ではAD669年6月30日という記録が残っているようである。そうなると130~140歳という途方もない生存期間となってしまう。いずれにしてもその期間のある時間に、生存されておられた方という認識を持つしかあるまい。 滋賀県大津市の和邇氏と同族の出身である。上記の小野氏の系図から見ると・・・
この天皇家の系図から「継体天皇」、「敏達天皇」、「聖徳太子」を眼で抜き出していただきたい。小野妹子の名は記載されていない。敏達天皇の孫というのであれば、欽明天皇の次辺りが丸(○)になっているのでこの方かも知れぬが、残念ながら素人には断定もできない。恐らくである・・用明天皇の子息(第二皇子)が厩戸皇子・聖徳太子ということになるが、学問的には実在を否定されてもいるのが現実である。確かなことはおよそ同時代に存在されていた方だということである。一応、聖徳太子の生存期間はAD574年~622年となっているので、少なくとも小野妹子という方の方が、年長者であったのだということが推測できる。
遣隋使の第一回目はAD607年、第二回目はAD608年である。これは古代中国の「隋書」に、記録として残っているので、これは古代中国の正史でもあるので、信憑性はあると思われる。AD600年にも当時の倭国から隋に向かった記録もあるが、この時は小野妹子は隋には渡っていない。年表を見ればすぐわかる通り、蘇我一族が天皇家に深く入り込んでいる状況なので、聖徳太子と蘇我一族の確執はある面で、相当なものであったろうということが分かる。
* 隋書-倭国伝 (帝紀+東夷伝倭国状)からなる。
蘇我氏は仏教を国家的な宗教として考えていたようである。しかし、物部氏は神道崇拝であるから、そのことによる政治的確執は大きかった。結果的には仏教擁護派が勝利を収めたのである。蘇我氏が仏教を政治的に利用したというのが真実であろう。それ以後大和地方に仏教が深く浸透していくことになったのはご承知の通りである。(しかし、通説では以上の通りであるが、実際はそのような大袈裟なレベルではなかったようである。物部氏も仏教には反対ではなかったとされている。これは日本書紀の創作が混入している事から来るものである・・・藤原不比等らによる影響がある)
このまま聖徳太子に話が進むと、大混乱になるので・・・
休憩
筆者は「小野妹子」という方の墓所のお宮と周辺を7年間掃除をさせてもらった。
だから「小野妹子」なぞと呼び捨てには決してしない。
<小野妹子大明神>と呼んでいる。墓所の横穴古墳の前には「小野稲荷明神」が祀って在る。
尊名は「小野稲荷大明神」である。しからば・・<小野妹子大明神>となった。
先回も書いたことであるが、この方は相当に霊能力の強い方であったようである。「会いもせずに何故わかる」という方も居るであろうが、7年間も境内を掃除していると、自然に否応なしにそれが理解できる。外交官らしく金銭的なことには関わらない方であったことまでも分かる。少なくとも実務家で必要なことはすぐ実行に移す方であったようである。聖徳太子が全幅の信頼を置かれたことは良く理解できる。
兎に角、人込みで汚れた人家の中から、階段を上って境内に入ると辺りの気配が一変する。<ビッシッ!>という感じが肌に伝わって来る。これは体験しなければわからない。神社仏閣でも同じであるが、人込みが多いところは気が汚れるのだろうか、まずそんな事はない。逆に言えばそのような感触のある神社仏閣は、霊力があるということになる。路傍の壊れかけたようなお宮に、本当に霊格の高い神霊がお住みになっているということもある。見た目と実際は違うので失礼してはいけない。
小野篁を祀った神社の傍に上品寺という旦那寺があるが、何時行っても実にキチッと掃除がなされていた。ある時偶然住職に会って住職の爽やかな人格に触れた。成程と思った。残念ながらその後黄泉の国に旅立たれた。若い方であったがレベルが違っている方であった。だから寺の住職のレベルもそんな感覚ですぐ分かる。グウタラ坊主の寺は住職に会わずともすぐ分かる。怖いものである。
筆者は小野妹子大明神に全幅の信頼を置いていた。7年後、奄美に行くことになって凄い経験をした。
奄美に移住する前に現地に下見に出かけた。良い家があったのでその家に半ば決めていた。しかし、帰りの鹿児島行きのフェリーで、大変面白い経験をした。初見の隣席の老人(奄美大島の離島の喜界島の方)が、私に、「絶対に加計呂麻島には行ってはいけない!」と言うではないか。奄美から乗船して鹿児島港に到着するまで数十時間、私に言い続けた。その時は何故か理由がわからなかった。鹿児島で別れる時も最後に<行っちゃいけない!>である。
結果は見事に当たった!
奄美大島・加計呂麻島に移住して数か月後に、未曾有の大水害に遭遇し、翌年も同じ災害に遭った。裏の谷川は二回決壊し自宅の傍の堰堤は、二回程十m位破壊され、海辺の桟橋は高波でぶっ飛んだ。谷川の奥からの土石流の凄さを実感した。近年にない大災害であった。その後、いろいろと凄まじい葛藤が発生したのである。それは一部残念ながら今でも続いている。
正にフェリーで出会った老人は、結果的に「小野妹子大明神の語り部」であったのである。
確かな証拠はないが、小野神社との7年間の様々な経験からそれを推測できる。
神仏はそのようにして、人間に忠告されるのである。
人間は愚かである。
今は大きな問題も解決されつつある。それは不思議な巡りあわせが、
筆者の自宅に潜んでいたのである。
助けてくださったのは、十一面観世音菩薩とマザーテレサという方の「お写真」であった。
折を見てまた続きを書いてみよう。
藤原鎌足
先回「藤原鎌足」について書いたが、若干説明不備な部分があったので、訂正方々今回も取り上げてみたい。
先回は「藤原鎌足」は古代の朝鮮半島にあった「百済」(くだら、ひゃくさい)の王であったと書いたが、これは現在の韓国の離島である、済州島の出身の高名な家の学者の方が発表している説である。残念ながら詳細な証拠が披瀝されていない弱みがある。しかし、このことについて先日、詳細な文書を手に入れることが出来た。100%の真実性は確認はできないが、詳細な記述も備わっているし、前後関係の記述も確かであるので、今回はこれをご紹介する。真偽は各自判断をお願いすることにしたい。
結論から書くと・・藤原鎌足は百済王・義慈王(ぎじおう)の子供である「余豊璋」の弟、堯+羽 岐=(ぎょうぎ) のことである。彼は百済王の皇子であった。彼はあることで島流し(事件に巻き込まれた・王宮での内紛)に遭い、当時の日本・倭国に渡り、養子に入って中臣氏を名乗っていたが、藤原の姓は天智天皇八年(AD669年)十月十五日に、大織冠と大臣の位と同時に、朝廷から下賜されたものである。中臣氏は元々神官の名門の家柄である。
*1 藤原鎌足を名乗ったのは死ぬ前の僅か1日で、それ以前は中臣鎌足を名乗ったことになっている。これが歴史の盲点である。その後、藤原不比等(実子)が歴史の舞台に登場してくる。鎌足の実子、藤原定慶(僧侶)は若くして病没している。鎌足は落馬で大怪我をして、闘病の末に死に埋葬された。後日談は次回に書きたい。
2 藤原鎌足のところで「百済」について書いたが、現在の日本の教科書の百済の定義はどうも誤りのようである。教科書では古代朝鮮の「新羅」の横に小さく位置し ているかのような記述になっている。それは百済の最後の状態である。もともと百済は現在の北京の横に位置していたそうである。次回以降に詳細に書いてみたい。
3「中臣」とは神官の職の官名、百済と倭国の間を取り持つ官名の二通りの意味を持つ。鎌足のそれは後者である。「余豊璋」は中大兄皇子(天智天皇)である。つまりここでも天皇家の万世一系は破られている。これも歴史の盲点である。一説には「余豊璋」は白村江の後、高句麗に亡命したという説もある。
百済の位置のいろいろ
「藤原」の姓は朝廷から鎌足に賜ったものであるが、旧来の「中臣氏」も「藤原氏」を踏襲した。ただし、神官など神事に関係した場合は中臣氏を名乗ったのである。しかしその後、「藤原不比等」の直系以外には藤原の姓の使用を制限したのである。であるから江戸時代までは滅多なことで藤原性の使用は許されなかった。明治以後は使用が自由になったのであるが・・・皆さんの周りにも「藤原姓」の方は沢山おられるが、殆どが本来の藤原氏とは何の関係もない方であろう。その点は間違えないでほしいのである。
「近衛家」も藤原の名門の出であるが、この名前は明治以後も公家以外は使うすべはなかったであろう。使ったら大変なことになった。皆さんの周りにもまず居ない筈である。名前は良く調べるとその人のルーツが判明することもある。筆者の知人に、住んでいる「住所名」とその人の「姓」の読み方が、ローマ字で書くと同じ方が居る。後日、彼に教えてもらって調べたら・・ある有名な天皇家の家系の方であった。周りの人は当然の如く知っている。筆者のような余所者は分からない。京都でも同じような所があり、その方の「姓」も先ほどの例と同じで、まったく同じ天皇家であった。
京都、大津の方はすぐ分かると思うが・・・・
最後に・・「藤原」とは「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」(和訓読み)の当て字から出ている。つまり、朝鮮半島で滅亡した「百済」と「倭国」が日本列島の中で、合体して「日本」が出来た。詰まり 藤原=日本 のことである。このことで一般国民が簡単に使用は不可になったことは明らかだ。名門・藤原の歴史である。「奥州・藤原氏」もそれなりのルーツがあるはずだ。
筆者の住む集落の墓には「平」の姓の立派な墓がある。奄美は平家の落人の地でもある。その関係であるのかもしれぬ。現在「平」家は集落にはない。源氏は平家と同門である。「源氏」は「平氏」から出てきた氏である。著名な「姓」の持ち主はこの際注意して調べてみたらよろしかろう。意外なルーツが分かったり、残念することもある。
筆者の「姓」もそのようなことから調べてみた。親父の子供のころの昔話を参考にしながら・・何と郷土史家が詳細に論文を書いているのを発見した。おまけに筆者と同じ姓の「城跡」まであった。それは後醍醐天皇に味方して戦った城であった。残念ながら戦いに敗れ天皇は隠岐に流され、筆者の一族郎党は全国に散って行ったのである。有り難いことにその子孫の中から、ある方は京都大学の有名な総長になったり、伊勢松坂で大きな企業を経営していた。それで少し留飲を下げた訳である。歴史というものは面白い。
今回は本題の「小野妹子」から外れて、古代史の秘密を書いたような結果になってしまった。
古代史は証拠となる事蹟に欠けるので、様々な説が飛び交っている。学者の説が正しいとは限らない。
教科書や通常の参考書にない記述もある。だからと言って間違いということにはならない。
明治の文豪・幸田露伴が有名な言葉を残している。
<歴史というものは嘘で嘘を固めたようなものである>
これはまさに至言である。特に現代史の嘘偽りの塊のような史実には、呆れを通り越して胸糞悪くなることがある。
どうか皆様も露伴の言葉をお忘れなきように願いたい。
次回は小野妹子と池坊、聖徳太子についてさらに書いてみたい。
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