「白洲正子文学逍遥記」
「かくれ里」編
-007
全国が桜の世界になっていることでしょう・・
本日は4-01でもあるので、本題に直接入らないで、概説的な散文形式で書いてみたいと思います。
小野妹子
その5
「かくれ里・菅浦」に入ってから、湖北を遠く離れて湖西や京都、大阪の方まで話は広がって、
肝心の菅浦には近寄ることもないまま、今日に至っている。
読者も十分にご存知のように、近江地方・あるいは近畿地方は、古代歴史の歴史の主要な舞台でもあった。
特に近江は朝鮮半島に隣接しているので、九州の北部と同じように朝鮮文化の流入口になって、
少なからず日本の政治経済、文化に重要な影響を受けている。
それが天皇家の系図の中にその影響を色濃くにじみ出ているのを見ることが出来る。
特に、第26代継体天皇の御代で、皇統が大きく寸断されている可能性が高いというのが、
現代古代歴史学の通説になりつつある。現平成天皇もこれを間接的に認める発言をされた。
最近のような朝鮮半島国家と日本の政治情勢が険悪化されている時代であれば、
このような歴史的事実を認めたくないのは、人情としては理解できるが事実は事実である。
小野妹子、聖徳太子、蘇我馬子、藤原鎌足、物部一族などは、当時の古代歴史の舞台上の主演級の人物達である。
小野妹子の一族は和爾氏からの支流であるとされている。和爾氏が古代において玄海灘までその支配権があったとされている。
それは少なくとも新羅・朝鮮民族と密接な関係にあったことは否定しようがない。
その源を辿れば和爾氏も小野氏も朝鮮半島に源泉があることは間違いがないであろう。
現に北近江に「物部」という名が残されている事実が、それを物語っている。
古代において北近江、現在の美濃、尾張、三河、伊勢を含む一帯は、
ある同じ系統の集団が群雄割拠していたことは考えられる。
越前の「織田の荘」の名は、その残滓である。
織田信長、お市の方の風体は記録の絵画から見ても、縄文人の顔形ではない。
聖徳太子が実在しない歴史的人物であることも、最近の歴史研究の中ではっきりしてきた。
さればいったい彼は誰なのか??
ある研究者は聖徳太子=蘇我入鹿であるとしている。それは荒唐無稽な推論ではない。
藤原鎌足が古代朝鮮国家・百済の王家の皇子(堯+羽 岐=(ぎょうぎ))であることは先回書いてみた。
さらに彼の兄の「余豊璋」は中大兄皇子(天智天皇)であることまでも・・
藤原一族は朝鮮半島から倭国に渡ってきた百済の一族であり、大和朝廷の心臓部に深く入り込んだ。
百済
「百済(くだら・ひゃくさい)」は古代歴史の中で、日本人には耳慣れた国の名である。
「百済観音」などは誰でも法隆寺の仏像の名で知っている。
百済は学校教育では朝鮮半島の新羅の横にあった国と記憶する方が多いはずだ。下記のごとし。
しからば、これは何だ? 出鱈目か?
話はそれるが・・韓国の離島・済州島は現在は大韓民国のレッキとした領土である。
しかし、本土の韓国の人達とは感情的な面で上手く行っているわけではない。何故か?
少なくとも済州島の民衆の中には古代百済の濃い血が流れているからである。
されば、結論はすぐ理解できる。寧ろ現在の北朝鮮民族と気が合うはずである。
前漢時代の各国の配置
古代漢帝国時代の国書・「梁書」には「百済は遼西・普平二郡を置く」とされている。
この所在地には[通典]には「柳城(古代の龍城)と北平の間をいう・・」とある。
北平は現在の中華人民共和国・河北北部の蘆龍県を指す。
つまり、古代百済の発祥の地は現在の「北京」の傍であったのである。
現在の北朝鮮とは目と鼻の先である。済州島の民衆の一件はそれと関係があるのである。
北朝鮮の偉い方は・・京都で高級品の買い物をして、その品物を済州島を経由して手に入れるそうである。
北朝鮮の首都への飛行機の直通便があるそうな?・・驚きである!!
[隋書・百済伝]には「其南 海行三月 有沈牟羅国(済州島)」とある。
<遼西からへ三月掛かって済州島に至る>ということである。
韓国の傍にある百済からなら、歩いてボートで人間が旅しても三月は掛からぬ。
古代・百済の建国の位置が我々が学んだ位置とは違うのが理解できる。
ここ数回に渡って・・藤原鎌足=中臣鎌足=百済の皇子・・継体天皇の謎!・・聖徳太子=蘇我入鹿・・・
何ともビックリするような話を書いてきた。遂には<百済は北京の傍にあった国>・・・
正に歴史は奇怪なものだ。
四月一日には嘘を言っても許されるとされているが・・
しかし、嘘偽りでなくその証拠はあるのである。
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