白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

「白洲正子文学逍遙記-かくれ里-004

2016-03-12 | 日本の伝統芸術

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

 

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004

 

 

京都・六角堂・頂法寺の桜 

 

 奄美群島の桜と梅は当に散ってしまい、葉が成長し始めてきている

 瓶に挿した桜の小枝も葉が伸び、花のところが実になってきている。

羅漢立像群 

 

 

小野妹子

 

その3

 

  

「かくれ里」湖北・菅浦 に入って4回目。中々菅浦に至らない。著者の内容とはかけ離れた地域を歩いている。

今回は大津を飛び越えて、京都の市中の西国三十三か所・18番の頂法寺・六角堂まで足をの延ばしてきた。

寺伝によれば11世紀ごろは、西国三十三ヶ所の第一番は長谷寺、結番は三室戸寺であったそうである。

その頃も「六角堂」は18番だそうである。十八番(おはこ)だったのであろう。

 

     

 

「六角堂」は 浄土真宗の開祖である親鸞上人にも縁の深い寺でもあった。

寧ろ、現在ではこちらの方が一般的なのかもしれない。

 

  

 

六角堂の「へそ石」は、本堂古跡の石としても有名で、京都の中心を今でも示しているとか・・

 

    

 

 先回まで書いてきた「小野妹子」と非常に関係の深い仏閣として、聖徳太子なども絡めて描いてみる。

 

頂法寺・六角堂

 

頂法寺・六角堂は天台宗系単立の仏教寺院 であり、山号は紫雲山である。

本堂が平面六角形であるところから通称・六角堂と呼ばれている。

 

 

 

本尊は「如意輪観音菩薩」 (秘仏で通常お前立を拝顔出来る)

青岸渡寺も同じ如意輪観音菩薩であった。

 

お前立・如意輪観音菩薩  

   

以上が小野妹子・聖徳太子・親鸞聖人と所縁の寺の概略である。

 

小野妹子・聖徳太子・池坊 

 

 奈良県奈良市の近在の方なら、「和邇」「物部(もののべ)」という言葉は耳に馴染んだ言葉である。しかし、同じ名称が湖北の北近江にも存在する。いずれご紹介することになるが、湖北は飛鳥時代の中心地であった奈良の地と、今回の登場人物に関係の深い「敏達天皇」から4代遡った「継体天皇」のころからの非常に密接な関係にあった。事実、現在も湖北・高月の近在には、「物部(ものべ)」の地名が存在する。また、湖西の小野の隣は「和邇」である。ではこの名称は奈良が先なのか、湖北が先なのかということになる。古代史的には湖北が先になる、詰まり時系列では湖北が古いようである。

   

 

26代「継体天皇」は古代日本史において、異色の問題を多く含んだ天皇である。継体天皇の出自はズバリ言って、朝鮮半島と密接な関係のあった越前である。天皇の生母は現在の福井・越前に生活していたとされている。生母の先祖は現在の韓国方面である。実父が奈良からこの地に訪れた日本人であったか、それとも実母と同じ血縁を朝鮮半島に持つ人物であったかどうかは、学問的にいろいろ未確定なところがある。

つまり、これが事実だとすると万世一系は25代でSTOPするという結論になるからである。それは大問題である。実父が日本人であるなら何ということはないのだが、事はそう簡単ではない。藤原一族が先祖が朝鮮半島から帰化した人達であるという事実は、現在の歴史学では動かしがたいのである。その後、藤原一族と大和朝廷との婚姻関係も複雑に絡まって来たのも事実である。

京都の近郊や丹波篠山には「秦野、波多野、秦」という名称が多い。この名称も現日本人固有の名称ではない。京都府と奈良県との境界線一帯は昔から百済からの一族と関係が深い地域でもある。古代から朝鮮半島と倭国とも関係は濃厚だったのである。

 

 

 藤原鎌足は朝鮮半島の百済の王である。詰まり帰化人である。白村江の戦いで新羅の連合軍に敗退した百済の人である。その後帰化して大和朝廷の中臣家へ養子に入り、中臣鎌足として、後日大和朝廷から「藤原性」を賜り、藤原鎌足となった事情がある。太平洋戦争前の首相であった近衛文麿は、藤原氏の著名な子孫である。よって、天皇家の系図は非常に複雑である。

 戦国時代の著名な大名・織田信長の先祖の出身は、現在の福井県・越前・織田荘(おたの)である。その一族が後年名古屋方面に南下した。それは継体天皇の時代から、愛知、福井、滋賀一帯が特定の一族で、栄えていたことを示しているのである。その一族が後年大和朝廷を制圧したことにより、継体天皇が生まれたという見方が現在有力である。勿論現代の日本史の教科書にはそのような記述はないが・・・

 

 

 白洲正子著「かくれ里」で菅浦に、著者が簡単に入らないのは、この辺りの込み入った歴史的事実が隠されているので、出来るだけ事情を詳しく書いて本題に入りたかったのである。一般的教科書には記載されていない事実が沢山有るのである。菅浦の歴史の中には大和朝廷がらみの古い歴史が織り込まれた「かくれ里」である。最近まで余所者は受け入れを拒んできた地域である。

 

 

        

 

 さて、小野妹子に入ろうとすると聖徳太子を抜きには出来ない。華道の宗家「池坊」も密接に絡んでくる。

前向上が長くて失礼しているが、次回は聖徳太子と六角堂と小野妹子と池坊について、

また、長々と書いてみることにするので、しばしお付き合い願いたい。

いずれ菅浦入りますので・・

 

       

 

 

 

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