白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-再開-02

2015-09-25 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

再開-02

 

湖北の旅

 

数か月ぶりに再開した当ブログにまた、大勢の方が閲覧をしていただきありがとうございました。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

白洲正子様との縁 

 

 

 

思えば 2011.8-15に公開しました日本の伝統芸術と芸能」でも、掲載したことですが、何故このブログが、白洲正子文学逍遥記十一面観音巡礼」編 と題しているかを書いてみたいと思います。重複する部分がありますので、ご容赦ください。

 

 

私が北海道札幌から先回ご紹介した音羽の傍の、東京都文京区小日向に住んでいた時、住所を都下・町田市相原に移住し、千代田区の勤務先に中央線を毎日通勤電車に揺られて、行き来していたことがありました。 東京の夏の暑さには耐えられなかったのだと思います。相原は高台にあり通勤には不便ですが、涼しく北海道暮らしの道産子には好ましい気候でした。

そのころ町田市能ヶ谷7丁目3番2号に、皆さんもご存じの「武相荘」と呼ばれたところに、白洲夫妻が住まわれておりました。当時、私は白洲夫妻については全く未知の方でした。「武相荘」が傍にあることすら知りえませんでした。白洲正子という方の名前を知ったのは、それから20年後の京都の河原町にあった、「ジュンク堂」と呼ばれていた高層の書店の一階でした。現在は「丸善」となっておりましょうか。

 

「武相荘」

 

  

 喫茶店でちょっと一服 - 

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さて、このブログのお休み中に2件コメントを頂いておりました。

気付かずにおりましたので、先ず先にこの件から書いてみたいと思います。

 

一件目

 

聖天像

 

「聖天」というと、関西の方は生駒山の生駒聖天を連想される位有名な仏様で、商売繁盛の祈りをささげる方で、賑わいを見せている寺院です。仏像は通常下記のようなの形態が多いです。

 

聖天像

   

 

真言宗の修行僧の指摘で分かったのですが、一番初めの聖天像の頭の部分が、下の写真とは全く違います。細かいところになりますが、足元は同じものと、違う彫刻になっているところがあります・・・・・・足元をご覧ください。足元は以前からその理由を知っていたのですが、頭は気が付きませんでした。白洲正子著「十一面観音巡礼」199p<竜田の川上>の中に、この写真の聖天像が掲載されています。頭部は像の頭ではなく、十一面観音の頭になっております。足元をみますと、観音が聖天の足先を踏んでいる形に彫られています。

聖天(歓喜天)はもともとヒンドゥー教のガネーシャに起源を持つ異教の神であったが、仏教に取り入れられて護法善神と解釈され、悪神が十一面観音によって善神に改宗し、仏教を守護し財運と福運をもたらす天部の神とされ、日本各地の寺院で祀られている。足を踏むということは静止、拘束をも意味するのであろう。十一面観音自体も本来的には外教の暴神であった。その辺りが十一面観音が出てくる由来であろう。

専門の修行僧の言葉通り、このような聖天像は珍しい。興福寺(奈良)の旧蔵となっているので、その後の消息は不明である。どこかの寺院か個人蔵になっているかもしれぬ。本来的に秘仏が建前なので、現在の所蔵先を見付けるのは難しいかもしれない。

 

二件目

市松人形

 

滝澤 光龍斎二代目)作

 

 

日本の伝統芸術と芸能  能面と能楽佛像と佛像彫刻 <その018で掲載した、市松人形の事で読者からコメントを頂いた。名人・滝澤光龍斎作の写真のことでした

見ての通りの名品で一目で品格と作品の技術の高さが分かる作品です。この市松人形の持ち主は、京都在住の人形関係のコレクター弘法さんと私・M清子という、ブログを公開している方でした。コメントの内容はこの写真を著書に掲載して良いかとの、許可をされてこられたものですが、筆者には著作権が存在しませんので、著作権者に許可を頂くよう、答えるしかありませんでした。

 

 澤 光龍斎二代目)作

 

 

市松人形は江戸時代(徳川吉宗の時代)に実在した佐野川市松という上方の歌舞伎役者が、江戸中村座で演じた「心中万年草」の女形で大変人気を取りました。 その佐野川市松に似せて作られた人形が市松人形の起こりとされています。「市松模様」などにもその名が残っています。江戸、明治、大正、昭和と市松人形は、一般家庭の子女の抱き人形として発展しました。

特にこの人形は大和人形としての代表格であり、米国から日本に贈られた「青い目の人形」の答礼として、日本から米国に贈られた58体の人形が存在し、今もアメリカの博物館などで所蔵され、近年日本に修復のために里帰りすることが度々ありました。それらは当時コンクールを行い、入賞作品を主に中心として構成されていました。当然、当時の最高レベルの技術でもありました。

その内再構成して、「市松人形と答礼人形」をブログで公開してみたいと思います(資料が少ないのが頭の痛いところです)

 

  ある時、滋賀県大津市から電車で30分以内の、京都駅から地下鉄・四条河原町の<ジュンク堂>に向かいました。通常はこの本屋の書籍売り場は、頭にすべて入っておりますので、エスカレーターに乗って目的の書籍がある階にに向かい、商品を手にしたら階段を降りつつ、気になった書棚は見て回るというのが、私のいつもの習慣でした。ところがその日だけは珍しく一階の雑誌売り場方面に向かいました。文房具や雑誌はあまり興味がないからでした。

向かって左隅の奥の書籍コーナーに自然と足が向きました。今でもなぜそちらに歩いて行ったのかは分かりません。引っ張られたような感じでした。何気なく見ますと小さな本棚に極目立つことなく書籍が並べてありました。手に取って見たのが、初めて私が手にした最初の白洲正子様の著書だったのです。

 

 

 

白洲正子著作集

 

最小に買った書籍がどれであったかは、今となっては判然としません。それから何時の間にか図書館で本を借りて来て、すべてをCOPYするというような結果になり、現在は100冊は超えていると思います。この方の古書はなかなか当時では手に入りにくく、今でもそうですが可なり高価です。当時の私の苦肉の策かと思いますが・・(^-^)

案外鹿児島県内で一番揃った著作集を持っている、コレクターかもしれません。能面集も滋賀県の県立図書館よりも充実した資料を持っておりますので、これが私の細やかな自慢です。機会があったらご紹介したいと思います。

 

 私の個人的な癖というのか、男の癖というのか、本でも貝殻でも納得いくまで集めなければ、気に入らないのです。能面集を集め始めた時もそうでした。ご存知の様に能面の専門書は出版部数が少なく、購入する方も限られ、専門家の手にすぐ渡ってしまうので、なかなか素人には良いものは手に入りいません。そして、貧乏人には手が出ない程高価です。数万円~十万円がざらですね。新刊本は諦めて古書店探し・・なし!

 

  

      

能面打ちブームでもありましたので、全く手に入らず頭を抱えておりました。手に入れるのに何年も待つという具合。しかし、インターネットの時代がこれを解決してくれました。検索というツール。これは便利でした。日本や世界中の書籍が検索できる。あるとき岡山の古書店で、「能面」という白洲正子様の著書が手に入りました。¥5.000円という廉価は値段。すぐ手配をしました。

 

 

驚いたことにそれからというもの、いままで10年間も探していたような能面集が、続々手に入るようになりました。中にはYAHOOのオークションで新品の能面「長沢 氏春能面集」が手に入ったり・・これは東京の神田で¥100.000円の高値で売れていましたが・・兎に角、それから手に入る能面集は殆ど手に入れましたでしょう。自慢になりますが・・滋賀県県立図書館よりも充実した内容でした。

何故、こんなことになったのか良くわからない。恐らく岡山で手に入れた白洲正子著・「能面」がその原因なのかもと、考えるようになりました。白洲正子様とは私が「武相荘」の近くに住んでいて以外、何の縁もなかった方です。そして、能面資料探しは九州の本屋さんが最初で最後となりましたが、欲しかった全ての能面集を、九州中探してくれて私に送ってくれました。しかし、それから音信がプッツリと途絶えました。どうしたのかわかりません。廃業したのでしょうか?

 

 

 皆様も知っての通り、白洲正子様の旧姓は、<樺山>です。島津藩の家老の家柄で、祖父は島津資紀(海軍大将・台湾総督府長官・伯爵)。夫は吉田内閣当時のマッカーサーとの連絡事務官であった白洲次郎氏。先代は兵庫県丹波篠山付近の三田藩(九鬼家)の家老の家柄でした。現在の東京都千代田区の国会議事堂周辺は殆どが、明治初期は樺山家の敷地でした、ご存知でしょうか。とてつもない広さですね。白洲家が相模湾の大磯に転居したのは後の話です。元首相・吉田茂氏の別邸は白洲氏の縁故からで、さらに、まだ後の話ですね。

その後、私は鹿児島県大島郡瀬戸内町という、鹿児島をはるかに南に下った、離島に住むことになりましたが・・・これも縁でしようか。 2015-09-8で満4年になりました。私は白洲夫妻はおろか、白洲正子様とも全く面識がないのです。著書というもの以外には。何故なんでしょうね。   解りません。

音羽山・清水で十一面観音に頭に水を掛けられてから、観音さま に引きずられて来たような感じがあります。思うに白洲正子様との縁も、案外そんなところかもしれません。

それが何故わかるかは、次回書いてみましょう。

 

 

 

 

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