日本の真実

日本人自身が知らない「世界に誇るべき日本の真実の姿」を様々な面から紹介するブログです。

日本人の世界記録 日本プロ野球編

2006-05-28 01:07:54 | Weblog
あくまで米大リーグ記録(20世紀以降)との比較ですが

①1955年、国鉄スワローズの金田正一投手は年間350奪三振を記録。ルーブ・ワッデルの年間349三振を破る世界記録を達成した。

②1961年、西鉄ライオンズの稲尾和久投手は年間42勝の世界記録を達成。大リーグ記録は1904年、ジョーン・チェスブロの年間41勝。(後に読売ジャイアンツのビクトル・スタルヒン投手も1939年に年間42勝を記録したことが確認された)

③1962年9月5日、国鉄スワローズの金田正一投手はウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3,509奪三振の世界記録を達成。金田は1969年の引退までに4,490奪三振を記録し、ノーラン・ライアンに破られるまで世界記録だった。

④1967年、阪神タイガースの江夏豊投手は年間401奪三振の世界記録を達成。大リーグ記録は1973年、ノーラン・ライアンの年間383奪三振。

⑤1972年、阪急ブレーブスの福本豊選手は、年間106盗塁を記録、モーリー・ウィルスの104盗塁を破る世界記録を達成した。現在の世界記録は1982年、リッキー・ヘンダーソンの130盗塁。

⑥1977年9月3日、読売ジャイアンツの王貞治選手はハンク・アーロンの記録を破るホームラン通算756本の世界記録を達成。現役通算868本は現在も世界記録。
(但し、20世紀前半の米国にあった黒人リーグで、ジョシュ・ギブソンが通算962本塁打を記録したと言われています)

⑦1983年6月、阪急ブレーブスの福本豊選手はルー・ブロックの記録を破る通算939盗塁の世界記録を達成。現役通算1,065盗塁。

⑧1987年6月13日、広島東洋カープの衣笠祥雄選手はルー・ゲーリックの記録を破る2,131試合連続出場の世界記録を達成。通算2,215試合連続出場はカル・リプケンに破られるまで世界記録だった。

⑨2003年8月20日、読売ジャイアンツの川相昌弘選手はエディ・コリンズの記録を破る通算512犠打の世界記録を達成。2005年終了時点で527犠打の世界記録更新中。

⑩2006年4月9日、阪神タイガースの金本知憲選手はカル・リプケンの記録を破る904試合連続フルイニング出場の世界記録を達成。現在も更新中。

(信)




影響力の大きい学術論文 世界第一位

2006-05-18 01:10:42 | Weblog
今年2月28日、米国のトムソンサイエンティフィック社は、引用回数が多く、影響力が大きいと考えられる学術論文「Hot Paper」のランキング(2004-2005年)を発表した。

今回、世界1位(Hottest Researcher)となったのは、大阪大の審良(あきら)静男教授(免疫学)で、11本の論文が入った。新潟大の田村詔生教授(物理学)は、米国ハーバード大学のMarc A. Pfeffer氏と同数(8本)で第2位だった。

この他、上位21に5人の日本人が名を連ねた。東京工業大の渡辺靖志氏(3位)、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の羽澄昌史氏と片山 伸彦氏、名古屋大の飯嶋徹氏と岡部 壮志氏(4位)である。

国別では、米国(10人)に次いで、日本(7人)が2位にランクインした。

ランキングを掲載した Science Watch編集者のChristopher Kingは次のように語っている。「毎年行われるHottest researchの集大成では、特筆すべき影響力をもった研究者を称えます。複数のホットペーパーの著者であるということは、それ自体最高峰レベルの業績であり、現代の科学思想に与えたインパクトを実証するものです。」(ほ)

Hottest Researcherランキング(トムソンサイエンティフィック)
http://www.thomsonscientific.jp/news/press/sw200603/ranking.shtml

http://www.thomsonscientific.jp/news/press/sw200603/index.shtml




日本もようやく政治的駆け引きが出来るようになってきたのか

2006-05-16 00:00:42 | Weblog
 5月15日の産経新聞に国連分担金の記事が掲載されていた。分担交渉は3年に一度行なわれ、今年はその交渉年に当たるという。現在の日本の分担率は19.5%でアメリカの22%についで2位である。それなのに安全保障理事会の常任理事国ではない。昨年も常任理事国入りを目指したが中国の猛烈な妨害工作でダメだった。この19・5%という数字は常任理事国のイギリス(6.1%)、フランス(6.0%)、中国(2.1%)、ロシア(1.1%)の4カ国の合計(15.3%)よりもはるかに多い数字である。
 政府内には「特権を享受している常任理事国には、財政面でもふさわしい貢献をしてもらう必要がある」(外務省幹部)との声が強く中露両国の負担増を柱にした改正案を提出したという。今までの外務省では考えられない言葉だ思う。日本もようやく政治的駆け引きが出来るようになってきたようだ。今後の展開を注目したい。(あ)

神経科学

2006-05-15 11:42:42 | Weblog
北大医学部の研究グループは、痛みを緩和する物質が脳内で自然発生する場所を突き止めた。脳内の神経伝達の仕組み解明につながる研究で、副作用がない痛み止めの開発などが期待できるという。研究内容は、米科学誌「神経科学ジャーナル」5月号に掲載された。(さ9

世界最高水準の空気清浄環境をつくるシステム

2006-05-15 11:40:02 | Weblog
北大電子科学研究所の石橋晃教授の研究グループが開発した小型のクリーンシステムは、世界最高水準の空気清浄環境を実現できる。
半導体やバイオ研究などでクリーンシステムは使用されているが、制作費を抑えた作成も期待出来るという。
この17日から東京で開かれる国際バイオフォーラムで発表する。 (さ)

岡本硝子

2006-05-10 21:49:43 | Weblog
プロジェクターの光源部分に使われる反射鏡で世界シェア51%(03/3末現在)。
歯医者で使われるデンタルライトミラーでも世界シェア80%(03/3末現在)。
http://www.morningstar.co.jp/stock/newcomp/itv_7746.htm (あ)

世界に知れ渡る日本の町工場(谷啓製作所)

2006-05-10 01:07:34 | Weblog
 いまや缶切の要らないプルトップ式の缶詰が主流となっているが、以前は、蓋の切り口による怪我が多発し、国内外の技術者が、安全な缶詰の蓋の開発に挑戦していた。東大の金属研究所では15億円を集めて研究が行なわれていた。しかし開発に成功したのは、東京都大田区にある小さな町工場「谷啓製作所」だった。

 当時、そのような缶の開発は技術的に困難でコストもかかると言われていたが、谷啓製作所の谷内啓二社長(当時)は、自ら金型や機械を設計し試作を繰り返した。蓋の最適な寸法を決めるのはコンピュータを駆使しても無理と言われ、長年培った勘を頼りに手作業で行なった。千分の一ミリとの戦いだった。

 昭和58年~63年の5年の歳月を経て、ダブルセーフティープルトップ缶の開発に成功した。試作した金型は151個にもなった。米マサチューセッツ工科大学で同様の研究していた学者は、この製品が紹介された時、開発を中断したといわれている。

 谷内氏が開発したプルトップ式の缶詰は国内ではなかなか受け入れられなかった。しかし海外では高く評価され、どんどん採用されていった。そして、日本には逆輸入という形で入ってきて、急速に普及していった。

 その後、谷内氏は、アメリカの製罐メーカーから依頼を受けて技術指導をし、特許権も分与したが、ロイヤリティー契約はしなかった。現在、そのメーカーは世界中で年間100億個と膨大な量を生産している。

 「(その時ロイヤリティー契約をしておけば)物凄く儲かったのですが、そこまで踏み込んで交渉する気はありませんでした。自分が開発した製品が世界中で使われればとお金は諦めました。何より、私の発明が日本の財産になりましたから満足しています。」と谷内氏は語っている。(石原ひろたか公式ウェブサイト「日本の中小企業問題を考える」第二回 谷啓製作所会長の谷内啓二氏との対談より)(ほ)

日本は長寿世界一

2006-05-10 00:06:01 | Weblog
4月7日、世界保健機関(WHO)が、2005年版の「世界保健報告」を
発表した。

日本は世界一平均寿命の長い国で、82歳だった。
男女別では、日本とモナコの女性が85歳で最長寿。
男性も、日本はスイスやスウェーデンなどと並び78歳で最長寿だった。

調査は03年に実施したもので、最も平均寿命が短い国は
スワジランドの35歳だった。
5歳未満の死亡率は日本では1000人当たり4人だが、
シエラレオネの283人を最高に、アフリカの11カ国と
アフガンの計12カ国で200人を超えている。(か)

台湾に尽くした日本人の墓前祭

2006-05-09 23:48:45 | Weblog
北國新聞によると、5月8日、台湾を訪問した「八田技師夫妻を
慕い台湾と友好の会」(金沢市)は金沢市出身の八田與一技師が
築いた台南市郊外の烏山頭(うざんとう)ダムで同技師と外代樹夫人の
墓前祭に臨んだ。

技師の生誕120年に当たる節目の年とあって、付近の住民や
行政関係者ら約2百人が参列し、日本統治時代に台湾南部の荒野を
緑の農地に変えた恩人の功績に思いをはせた。

墓前祭に参加する「友好の会」の一行には、八田技師を慕う日本人
参加者が次々と合流。70人近くに達し、日本での八田技師夫妻への
関心の高まりをうかがわせた。

当日は小雨となり、台湾の住民は「作物が実るよう、八田先生が天から
雨を降らせてくださった」と述べ、それぞれ故人をしのんだ。

烏山頭ダムを管理する嘉南農田水利会の徐金錫会長をはじめ、
地元の行政関係者、「友好の会」の一行が次々と焼香し、墓前に
果物などの供物をささげた。

墓前祭に先立ってダム付近のホテルで八田技師の生誕120年を
記念する講演会が開かれ、地元の農業関係者や行政関係者らが
「八田先生の精神を学びついでいこう」と呼び掛けた。

八田技師は台湾の発展に尽くした人でした。

台湾総督府の土木技師だった八田は、当時東洋一の規模のダムを
造り、嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設した。

ダム建設に期待を寄せた地元嘉南の農民たちも、出来る限りの
経費と労力を負担すると書いた嘆願書を総督府に提出するほどだった。

 1920年、工事は開始された。建設現場には、彼がアメリカに
出張して買い集めた蒸気機関車、エアーダンプカーなど1000トンを
超える最新鋭の土木機械があった。見たことも聞いたこともない
巨大な機械に、現場の作業者は驚いた。始めのうちは、日本人も
台湾人も、使い方が分からない。機械と一緒に来た米国人の
オペレーターは、現場の人には一切、使い方を教えなかったという。

八田は、「外国人に使えて、日本人に使えないことはない。覚えるのは
簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」と口癖のように言い、作業員を
励ました。悪戦苦闘の末、これらの機械を動かして土砂を運べるように
なっていった。

八田は工事に携わる人達が安心して仕事ができるように、宿舎、学校、
テニスコート、病院などを作り、その家族を一緒に住まわせた。
また、運動会や盆踊り等の行事を自ら企画し、自分が先頭に立って
参加した。

1923年、日本で関東大震災が起き、台湾総督府が日本へ財政援助を
申し出た結果、ダム工事の補助金が大きく削られた。

八田は3年間苦楽を共にしてきた作業員の半数を解雇せざるをえなく
なった。彼は解雇者の再就職先を探すために、総督府のつてをたどったり、
業者の縁故を頼って奔走した。見つけた斡旋先には、工事が再開されれば、
優先して再雇用するという条件をつけたという。

多くの障害を乗り越えて、1930年に工事は完成、嘉南平野は緑の
大地に生まれ変わった。(か)


世界で「数独」が人気!

2006-05-09 23:15:19 | Weblog
「数独」は、1けたの数字でマス目を埋めていくパズルゲーム。

パズル雑誌のニコリ社が日本で紹介し、イギリスの新聞「ザ・タイムズ」に
連載されたのをきっかけに「SUDOKU」として欧米に広がって、
世界大会が開かれるほどの人気になった。

いまや、欧米各地やアフリカの新聞にも載っている。

数独のルールは、「縦横の各列と、太線で囲まれた3×3のブロックに
同じ数字が入ってはいけない」というルールで、1から9までの数字で
マスを埋める。

「数独」は、認知症の予防などに役立つ能力開発ゲームとして評判になり、
関連本は世界中で300冊以上出版されている。

「Sudoku」という言葉は、オックスフォード英語辞典が収録を予定する
ほど浸透しているという。(か)

トレハロースの利用を促進させたのは林原研究所の力(やはり凄い日本の製造力)

2006-05-09 10:51:02 | Weblog
糖は人間の体になくてはならないものです。
トレハロースは人工甘味料ではない、砂糖と同様の天然糖質です。もともと高価なもので1Kg 3-5万円していたのですが、岡山の林原研究所が1994年に画期的な製法で300円までコストダウンさせました。

(トレハの基礎知識に詳細)
http://www.hayashibarashoji.jp/knowledge/01.html

このような製造に対するこだわりは日本人の誇りであると言えます。
林原代表もそう語っております。

(「食品工場長・トップインタビュー」2001年7月号より 林原グループ代表 林原健)
(生産現場に望むことは)
「…強調したいのは、日本の職人が作品に示すこだわり技術です。作品に対したとき、時間も気にしない。自分のやるべき部分に割り切り、徹し、こだわり続けます。この日本人の精神は偉大で世界一の作品を生み出す素地となっております。」
(け)

医療用アミノ酸供給世界一は日本のAJINOMOTO!

2006-05-09 10:48:14 | Weblog
医療用アミノ酸供給世界一は日本のAJINOMOTO!
近年スポーツ時などに補給するのにアミノ酸飲料が愛飲されております。オリンピックの日本代表の公式飲料としてもアミノバイタルが認定されていました。アミノ酸は人間の体になくてはならないものです。従来、医療用分野でも栄養補給輸液等として活躍しておりました。日本の味の素株式会社は世界の医療用アミノ酸消費の60%を供給しておりまさにアミノ酸のリーディングカンパニーであると言えます。
味の素ホームページより(http://www.ajinomoto.co.jp/amino/aminosan/ippan/iryou_print.html)
現在、医薬用アミノ酸の消費量は全世界で年間1万5000トン。味の素KKはこの分野において世界シェア60%。アミノ酸のリーディングカンパニーとしての重責を担っています。(け)

国際法を守った松江所長~バルトの楽園

2006-05-08 23:53:17 | Weblog
2006年6月、超大作映画『バルトの楽園(がくえん)』が公開される。

これは、第一次世界大戦中の徳島県鳴門市の板東俘虜収容所で、ドイツ人捕虜たちを人道的に扱った松江豊寿所長が主人公の映画だ。

大正3年(1914年)、第一次大戦が勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国側に加わり、ドイツと戦った。降伏したドイツ兵俘虜のうち、約1千人が徳島県の板東俘虜収容所に収容された。

松江所長は国際法を守り、「俘虜は犯罪者ではない。祖国のために立派に戦ったのだから、武士の情けを持って遇したい」と職員に指示し、実践した。

収容所には図書館、音楽堂、印刷所などが作られた。ドイツ兵捕虜は野菜の栽培をしたり、地元の人にパンやトマトケチャップの作り方の教えるなど地域との交流も行なった。後に俘虜たちが板東での生活を懐かしんで、ドイツ各地で「バンドー会」を作るほど、「模範的な収容所」と高く評価された。

休戦後、ドイツ兵捕虜は所員や住民への感謝を込めて、ベートーベン「交響曲第9番」を演奏した。これが日本で初めての演奏された「第9」として知られている。
 
徳島市で、松江豊寿所長の功績を伝える顕彰碑が建立され、05年11月3日に除幕式が行なわれた。

今回建立された顕彰碑には、松江所長の孫が書いた「武士の情け」という文字が刻まれた。(か)

第62回ベネチア映画祭は黒澤監督に捧ぐ映画で開幕

2006-05-08 23:43:58 | Weblog
05年8月31日、第62回ベネチア国際映画祭が開幕した。

オープニング作品として、香港映画『セブンソード』が上映され、ツイ・ハーク監督は、「このような舞台で、長年影響を受けたアキラ・クロサワに作品を捧げることができて非常に光栄」と喜んだ。

香港映画界をリードするハーク氏は「香港のスピルバーグ」の異名を持つ。

映画作りに目覚めたのは、高校生の時に見た黒澤監督の『用心棒』がきっかけ。

「三船敏郎の演技、日本人じゃなくても理解できるシンプルなストーリーに非常にインパクトを感じた」というハーク監督は、様々な黒澤作品を見続け、その後の作品に強い影響を与え続けてきたという。

 『セブンソード』は『七人の侍』の影響を受けて作られた。ハーク監督は「『七人の侍』は世界的に見ても素晴らしい作品。模倣して作ることはできない」と、黒澤監督への畏敬の念を表した。

また、映画祭では、宮崎駿監督が功労賞である栄誉金獅子賞を受賞した。この賞は、今までフェデリコ・フェリーニやスタンリー・キューブリックが受賞しているが、アニメ監督に授与されるのは初めて。日本人の受賞は、1982年の黒澤監督以来で、通算で2人目。(か)

「男たちの大和/YAMATO」大人気

2006-05-08 23:34:20 | Weblog
尾道市向島町の日立造船向島西工場に造られた東映映画「男たちの大和/YAMATO」ロケセットの一般公開が5月7日に終了しました。
05年7月の公開以降、大人気で、最終日に入場総数が100万人を突破したようです。

大東亜戦争末期の昭和20年4月、世界最大の戦艦、大和は沖縄を救援するため出撃。
特攻隊が米軍の戦闘機に迎撃されることを牽制するための囮としての生還を期さない必死の出撃でした。

私は「戦艦大和ノ最期」(吉田満・著)の中にある、次のエピソードが大好きです。

圧倒的な戦力を誇る米軍を前に、大和の若い乗組員たちは、自らの死の意味を求めて艦内で激論を交わしました。

若手士官室を統率する臼淵大尉はこう語ったといいます。

「敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」
 
未来の日本が我々の死を無駄にせず、再び素晴らしい国になってほしい、と望みを託した兵士たちは、堂々と戦い、大和とともに海底に没しました。

国を護るために、死んでいった方たちの犠牲の上に、今日の平和な日本があるのだと思います。(か)