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ありがとう沖縄、ありがとうアメリカ

NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 16

2010年12月21日 | 過去記事倉庫

こうした中、移設を容認してきた人々も
揺れ動いています。


「生まれた時から基地があって、こういった中で育ってきてますから
これからどうなっていくとなると
やっぱり、ないほうに超したことはないはずですけど、
はたしてそうだった場合には、本当に辺野古で生活していけるのか」



「ずっとどうして答えていいのかわからないモヤモヤ感が、ずっとあるのでね。
やっぱり、どっちかというと被害を被ってると思いますよ。
基地を造る前から、もう被害でしょうね。
精神的に」




アメリカ軍基地が集中する現実と
長年向き合い続けてきた沖縄の人々。



過重な基地の負担を沖縄が背負い続ける
日米安保体制は、
本当にあるべき姿なのか。
なぜ自分たちの声に、多くの人々は
耳を傾けてくれないのか。
花城さんは、もどかしい思いを強くしています。



「日米安保がそれほど全国民のために大事なことであるのだったら、その負担も応分に、全国民が負担すべきことだと思う。何もこちらだけでね、これを全部覆い被される必要はないと思う」

(真上を飛行機が飛び、声がよく聞き取れないほどの爆音)





沖縄への基地集中への不満や怒りは、これまでと違い、
後戻りできないところにまで来ているという声が、沖縄では高まっています。

一方、日米両政府は国際情勢への変化に対応していくためには、
沖縄の基地は必要だという考えを、今まで以上に強めていまして、
沖縄とそして政府との考えのギャップが、今まで以上に広がっています。



そしてのこのギャップは政府と沖縄だけではなく、
本土の人々と沖縄の人々の間でも広がっているように見えます。




実際、普天間基地の移設先の候補地となった場所では、次々と反対運動がまき起こり、
また、沖縄に協力するとして、積極的に受け入れを表明する自治体は、一つもありませんでした。



今回の沖縄知事選挙で表れた沖縄県民からの声は、普天間基地移設問題のみならず、在日米軍基地の在り方、日米安保の今後、ひいては日本の安全保障の将来についての国民的な議論を求めているものではないでしょうか。こうした声にどう応えていくかが、問われています。

シリーズ「日米安保50年」、次回は冷戦終結後、その役割が大きく変わってきました日米安保体制の歩みをたどりながら、今後の日本の安全保障、外交の在り方を、専門家とともに考えていきます。




NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 15

2010年12月21日 | 過去記事倉庫

アメリカ国防総省で普天間基地の移設交渉にあたった高官は、
あくまで沖縄県内への移設が最善だと主張しています。


「沖縄の人たちがなんと言おうと、アメリカの決定は左右されません。
もし日本政府に出ていってくれと言われれば、出て行きますよ。
しかしその時、日本の人々は、これが最善だったのかと、
自らに問い続けるはずです。

我々は言い続けてきました。
頼むから、アメリカを沖縄と日本政府の板挟みにしないでくれ、と。」



日本政府も沖縄に駐留する海兵隊の抑止力を理由に、
移設先を再び見直す考えは示していません。




菅総理
「我が国周辺の東アジアの安全保障環境には、最近の朝鮮半島情勢にみられるように、不安定性、不確実性が残っております。したがって、海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、安全保障上の観点から極めて重要だと認識いたしております」


日米両政府が普天間基地の移設先と改めて合意した、名護市辺野古。
ここでも基地に依存する生活から脱却しようと
人々は舵を切りはじめています。

辺野古が移設先として浮上して14年。
政府はこれまで総額460億円にのぼる振興策を実施。
名護市には国の研究施設やIT関連企業が入居するビルなどが、次々と建設されてきました。



しかし今、移設の受け入れと引き替えに、政府が実施する振興策は、地域の活性化につながらないという主張が広がっているのです。


かつては普天間基地の移設を受け入れた、名護市議会。
この日、辺野古移設の撤回を求める決議案が提出されていました。


移設容認派議員
「特に私たちの地域における養鶏場移転の費用、あるいは小学校における体育館の建設。
そういったものを、どういったふうなこれからの反対決議をした場合、
どうなるかちょっと心配なので」


移設反対派議員
「これでストップしたらどうなるんだということで、●議員は恐れられておられるんですけれども、そうじゃなしに県民にも国民にもそうじゃないと。まさに沖縄は、基地を認めないと予算もあげないという形の差別がされている。我々はそれを差別として受け止めない限り、この問題の打開はできない」

議長
「決議案第9号に賛成の諸君の起立を求めます」
決議は賛成多数で採択。

「起立多数であります」

名護市はこれまでの振興策と決別し、
政府に対して移設反対を明確に示していくことになったのです。




平和賞式典で代読された劉暁波氏の文章

2010年12月13日 | 過去記事倉庫
 私の人生において(天安門事件の起きた)1989年6月は重要な転機だった。

 私はこの年、米国から戻って民主化運動に参加し、「反革命宣伝扇動罪」で投獄された。そして今また、私を敵と見なす政権の意識によって被告席に押し込まれている。

 しかし、私には敵はおらず、憎しみもない。私を監視、逮捕した警察も検察も、判事も誰も敵ではないのだ。私は、自分の境遇を乗り越えて国の発展と社会の変化を見渡し、善意をもって政権の敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かすことができる人間でありたいと思う。

 改革開放が国の発展と社会の変化をもたらしたことは周知の通りだ。改革開放は毛沢東時代の「階級闘争を要とする」執政方針の放棄から始まり、経済発展と社会の平和的な融合に貢献した。

 こうした進展は、異なる利益や価値が共存するための土壌をつくり、国民の創造力の発展と愛情の回復の励みとなった。経済の市場化、文化の多元化、秩序の漸進的な法治化。これらはみな、敵対意識の弱まりによってもたらされた。

 最も進歩の遅い政治領域でも、敵対意識の弱まりは政権が社会の多元化に対して包容力を増す効果を生んだ。政治思想が異なる者への迫害は大幅に弱まり、89年の民主化運動への評価も「動乱」から「政治的風波」へと変わった。

 98年に中国政府が国連の2大国際人権条約への署名を世界に約束したことは、中国が普遍的人権の標準を受け入れたことを示した。2004年には憲法が改正され、初めて「国家は人権を尊重し保障する」と明記された。こうした進歩は、私自身も逮捕されて以来の経験の中で感じ取ることができた。

私の心は、いつか自由な中国が生まれることへの楽観的な期待にあふれている。いかなる力も自由を求める人間の欲求を阻むことはできず、中国は人権を至上とする法治国家になるはずだ。私はこうした進歩が本件の審理でも体現され法廷が公正な裁決を下すと期待している――歴史の検証に耐えうる裁決を。

 私は私の国が自由に表現できる大地であってほしいと思う。そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、共存できる。多数意見と少数意見が平等の保障を得て、権力を担う者と異なる政治的見解も十分な尊重と保護を得ることができる。すべての国民が何のおそれもなく政治的な意見を発表し、迫害を受けたりしない。

 私は期待する。私が中国で綿々と続いてきた言論による投獄の最後の被害者になることを。

 表現の自由は人権の基であり、人間らしさの源であり、真理の母である。言論の自由を封殺することは人権を踏みにじることであり、人間らしさを窒息させることであり、真理を抑圧することである。

 憲法によって付与された言論の自由を実践するためには、公民としての社会責任を果たさねばならない。私がしてきたことは罪ではない。罪に問われても、恨みはない。

朝日新聞 2010/12/10より)

NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 14

2010年12月12日 | 過去記事倉庫


きっかけは、去年の政権交代でした。
「最低でも県外の移設というものに、
積極的に行動を起こさなければならない」 




「最低でも県外」
この言葉に、沖縄の人々の期待は高まりました。
これまで沖縄に集中してきた基地の在り方が、
大きく変わると信じたのです。


しかし、移設先をめぐって政府は迷走。
県外移設という公約は、撤回されました。




本土復帰の時に次いで、
沖縄の人々の期待は再び裏切られたのです。
長年押し込められてきた、人々の不満。
それが一気に吹き出しました。




花城さん
「土地も取りあげられ、それがその占領地がそのまま軍用地になった。これまでずっといろいろなこともあって、今なおその基地というのがでんと座ってね、みんなが苦労してますよね。いろいろな問題でね。
こういうことは僕たちの時代で終わって、
子や孫たちにはそういった思いはさせたくない
というのが、僕らの今現在の思いです」




こうした沖縄からの反発に対して、
日米両政府はどう向き合おうとしているのか。

NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 13

2010年12月12日 | 過去記事倉庫


「もうすべてが訳のわからんような結果になってしまって、いろいろと考え方の違いなんかもあり、また、金が、先程来話があるように、相続問題なんかも起こってくる。
いろいろな面でそういう考え方が変わってくるものですから、どうして僕たちだけがこんな苦労せんといかんのかなあと思うようになるんです。自然に。」




日本政府による軍用地代の大幅値上げに始まった、
沖縄の基地集中への不満を解消する手法は
その後、沖縄振興策という形で多額の税金が
沖縄に投入されることにつながっていきます。

それは同時に、沖縄もまた
基地がもたらす振興策への依存を高めていくことにつながっていったのです。




沖縄経済の基地への依存。
もっとも高い時で15%にのぼりました。
しかし今、基地経済が沖縄経済に占める割合は、
5%と大幅に下がり、
基地集中を支えてきたこれまでの仕組みの限界があらわになってきたのです。

こうした中で日米同盟を維持していくため、
基地の集中を受け入れるのはもう無理という反発の声が、これまでになく高まっています。






普天間基地は県外に。
沖縄の人々の怒りが頂点に達した県民大会。



「過剰な基地負担を大幅に軽減せよ」



県内すべての市町村長が出席するなど
これまでで最も多くの人が集まりました。


基地集中に反対する人々の中に、あの軍用地主の花城清善さんの姿がありました。
土地を提供し続け、基地の安定使用に協力してきた花城さん。
土地連のトップまで務めた人が、こうした集会に参加することは、これまでありませんでした。


「この普天間問題の解決をするために、
ガンバロー、ガンバロー」
長年基地を受け入れてきた人々にまで広がる、反発。





NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 12

2010年12月12日 | 過去記事倉庫


一気に値上げされた軍用地代。
会社経営が厳しかった花城さんは
その軍用地代を借金の返済に充てました。


「契約そのものに対しても、特別な異論は出てこなかったんじゃないなと思う。」
──個人としても、そうお感じに。
「はい。飼い慣らされてるから、もう。
いわゆる戦後のあの放心状態から、やっとここまで来たのかなという感じはしたけれども」

その後、沖縄県内の地主の9割以上が所属する団体、土地連の会長も務めた花城さん。


自宅には、一枚の感謝状が飾られていました。

アメリカ軍基地の安定使用に協力してきたことに対して、日本政府が11年前に送ったものでした。
しかしこの頃から、花城さんは複雑な気持ちを抱えるようになったと言います。



本来、奪われた自分たちの土地に対する補償であった軍用地代。
それがいつのまにか高値で売買されるようになっていました。



家族や親戚の間で軍用地の権利を奪いあったり、
軍用地代を過去に遡って要求したりするトラブルが増えるようになったのです。




軍用地代をめぐって、頻繁に生じる家族同士のいさかい。
自分たちが提供した土地によって、日々引き起こされる基地の被害。

この先も基地と共存していかなければならないのか。
花城さんは疑問を感じるようになっていました。


NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 11

2010年12月12日 | 過去記事倉庫


銅崎富司さん 
「どうしても契約は嫌だという人が出てくるんですよね。だから個人の家を一軒一軒みんな回って、契約してくれませんかという説得をして回ってますよね。だからそれはやっぱり大変な業務ですよ。それは数が多いから。」




日本政府は、多くの地主たちを説得するのに、どのような手段を講じたのか。
軍用地として基地のために土地を提供した地主たち。
これまで多くを語ってきませんでした



普天間基地のある宜野湾市に住む、花城清善さん(79歳)。
沖縄戦で父を亡くした花城さんは、戦後、家や田畑をアメリカ軍によって接収されました。


「あのね、営舎があるさね。兵隊の宿舎ね。
あれの下のほうです」
──あのあたりに、花城さんが生まれた家もあったんですか。
「そうです。それがずっと戦後、米軍の基地になって、そこへは帰れなかったんですよね」



高校卒業後、家計を支えるために
タクシーの運転手になった花城さん。
客の大半はアメリカ軍の兵士でした。




その後、仲間とタクシー会社を設立。
乗り逃げや料金の踏み倒しなどのトラブルに見舞われても、基地に依存する形の生活が続きました。



花城さん
「共存させられたということですよ。
共栄じゃないよ、共存させられたということ。
一緒に生活が一緒くただったということですよ。
これはもう現実問題ですからね」


経営が厳しい会社を抱えていた花城さん。
しかも土地はアメリカ軍に奪われたまま。

こうした地主たちと日本政府の契約が本格化したのは、
復帰の1年前でした。

当初、軍用地契約の交渉は難航。
与党自民党は危機感を強めました。
交渉にあたった自民党幹部がとったのは
地主に賃貸料として支払う軍用地代を
一気に6.5倍に引き上げるという手段でした。




地主を代表して自民党との交渉に同席していた、
砂川直義さんです。
「予算の措置は政調会長が責任をもってやると。
鶴の一声で決まるというやり方ね。それがまさしく政治的解決だなということを、実感しましたね」


土地を取り戻すのは難しいと考えていた地主側は
交渉を通じて実質的な補償を求めました。
これに対して、自民党の幹部は
軍用地代を値上げすることで、どのくらいの地主が契約に応じるのか、繰り返し尋ねました。


地主側から9割は契約に応じるだろうとの答えを聞いて、地主側は大幅な値上げを行ったのです。




「とにかく沖縄の言うとおりにしてやれというのが、
天の声みたいな感じで出てきましたよね。一件落着ですよね。だから、そうでないと確かに米軍に基地を提供できなくて、もう契約しないという人がもっとたくさん増えたかもしれませんよね」






NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 10

2010年12月12日 | 過去記事倉庫
今年明らかになった、ポジションペーパー。



沖縄返還の交渉が本格化する中、
日本政府の立場をアメリカに伝えるために作成されたこの文書に、
その理由が記されていました。



「日本政府は、沖縄にある米軍が日本を含む極東の平和を安全のための枢要な役割を果たしていることを認識しており、返還後の沖縄にも米軍基地が存続することを期待している。」



日本政府は、沖縄の人々の期待を受け止めるどころか、
基地の存続を本土復帰の前提としていたのです。





中曽根康弘元首相
「大変申し訳ない気持ちがありますけれども、しかし、アジアの安定、日本の安全を考えると
沖縄の皆さんに我慢してお世話になっていく以外、今のところはないわけですね。
そういう意味において、沖縄の皆さんに安心して、また満足がいけるような情勢で、米軍の駐留を続けていくのが「政治の要諦」だろうと思うんです」



日本政府は、みずからアメリカに基地を提供するための作業に取りかかります。

(洗濯物を干す女性。
カメラがずっと引いてゆき、背後に普天間基地)






それが、基地集中の固定化へとつながる
「軍用地契約」でした。




本土復帰の1年半前、政府は沖縄対策本部を設置。
その本部長を務めた銅崎富司さんです。
主な業務は、自分の土地を取り戻したいと願っていた人々との交渉でした。



沖縄の本土復帰後も、アメリカ軍の基地として存続が決まっていた普天間基地。



戦時中、アメリカ軍が強制的に
接収したこの土地は、


復帰後、日本政府が管理することに
なりました。


もともと土地の9割は個人のもの。
アメリカ軍は地主に、わずかな賃貸料を払っていました。


日本政府は、その地主一人一人と新たに契約を結び、
アメリカに提供しなければならなくなったのです。


沖縄全体で、地主は3万8000人。
日米安保体制を維持する上で、
この契約を取り付けられるかどうかは、
日本政府にとって死活問題でした。


NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 9

2010年12月10日 | 過去記事倉庫

東京都心のベッドタウン、府中市。



閑静な住宅街の一角にある巨大なアンテナは、
かつてアメリカ軍が使用していた施設です。




この一帯、実は30年あまり前まで、アメリカ軍の基地でした。



1960年代後半から70年代にかけて、
首都圏にあったアメリカ軍の基地、あわせて71カ所が、日本に返還されました。




日本政府が強く働きかけた結果でした。



佐藤元首相
「外国の兵隊が首府のそばにたくさんいるという、
そういうような状態は好ましい状態ではない」




同じころ、佐藤総理大臣は
沖縄の本土復帰にも力を注いでいく
決意を示していました。


佐藤元首相
「私は、沖縄の祖国復帰が実現しない限り、
我が国にとって戦後が終わっていないことを
よく承知しております」



総理大臣として初めて、
沖縄戦の激戦地の跡を視察。



沖縄の人々は、復帰によって本土と同じように基地が返還されるのではないかという
大きな期待を寄せました。





ところが、日米両政府は沖縄返還で合意したものの、主要なアメリカ軍基地は残すと
密かに決めていたのです。




NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 8

2010年12月10日 | 過去記事倉庫
これは、辺野古の住民がラジオを通じて、受け入れを表明した時の原稿です。


いち早く基地を容認することを非難しないでほしいと、沖縄の人々に訴えています。


「私たちを売国奴などと脅かしてはいけません。
自分の力や自分の立場もわきまえず戦ったら、
いくら戦っても危ういものだ。」




辺野古の受け入れをきっかけに、
アメリカ軍は基地の建設を本格化。本土の基地が減らされる一方で、沖縄の基地の面積は一気に1.8倍に拡大しました。


そして1957年10月、本土に駐留していた海兵隊部隊は沖縄に移転。
実戦さながらに上陸訓練を行いながらのものでした。




海兵隊基地の建設を受け入れざるを得なかった、辺野古の人々。



基地の海兵隊員の数は、
多い時で住民のおよそ2倍、4000人にのぼります。

(海兵隊員と辺野古住民の交流風景)




(海兵隊員との祭に参加する、住民たち。
海兵隊員は楽しそうな表情。
住民のほうは、不安げな表情をとらえている。)







海兵隊が辺野古に駐留してからおよそ50年。
基地と住民の隣り合わせの生活が続いてきたのです。
(座り込みテント村の横を通る、カヌーを運ぶ海兵隊員)





ご覧いただきましたように、半世紀以上も前、
人々の苦渋の選択で土地が提供され、
建設されたキャンプシュワブ。
こちらから向こうが、海兵隊基地の敷地です。


なぜ沖縄に基地が集中したのか。
本土から沖縄への海兵隊移転という、その原点を見ていくと、
アメリカの施政権下のもとで、基地の建設や部隊の移転がしやすい。
また、日本政府が黙認したという
政治的理由が大きかったことがわかります。

やむなく基地を受け入れた沖縄の人々にとって、
その後、状況が大きく変わると、期待する時期が訪れます。
1972年の本土復帰です。

しかし、アメリカにかわって基地問題と真っ向から向き合うことになった日本政府は、
沖縄の人々の「せめて本土並に基地を減らす」という期待を受け止めることなく、
逆に基地の集中の固定化へと、政府自らが関与していくことになったのです。









NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 7

2010年12月10日 | 過去記事倉庫

この頃、外務省で開かれた対策会議の内容をまとめた内部文書。
当時の担当局長の発言が記されていました。


「海兵隊の意中はやむを得ないのだろう。
新規接収の反対を正面に出すことはできまい。
沖縄の問題は、姿勢権を持つアメリカの内政問題で、深入りできない。」


それが外務省の判断でした。
日本政府は本土からの海兵隊移転を、いわば黙認していたのです。





海兵隊の移転について、日本政府からの支援が得られなかった沖縄。
辺野古の住民たちは、アメリカ軍の強硬姿勢を前に、追い詰められていました。


アメリカ軍は、各地で
基地の用地の強制収用を始めていました。



激しく抵抗する住民を、
武装した兵士が力ずくで排除。
ブルドーザーを使って、住宅や田畑を次々と更地に変えていきました。

嘉陽宗信さん


「米軍が力で抑える。要するに昔、日本軍が住民を抑え、国民を抑えたもんと同様に、米軍も同じことをやったんですよ。
だからもう日本国時代からその体験はあるから、ピンとくるわけですよね、すぐ。
だから、そういった意味で絶対反対ではあるが、
実力で抑えつけてくるから、結局動けなくなるさ。」




嘉陽さんたちは、
ついに海兵隊基地の建設を受け入れます。
これを機に、島ぐるみ闘争は内部分裂していきました






NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 6

2010年12月10日 | 過去記事倉庫
当時、地区の代表の一人として、
基地の受け入れに反対した、嘉陽宗信さん、86歳。


住民の間には、アメリカ軍に対する恐怖が広がっていたと言います。

基地を建設する計画が伝えられた直後、
アメリカ兵が6歳の女の子を誘拐。
暴行した上に殺害するという事件が起きました。




嘉陽宗信さん
「まだ戦争のにおいが残っている時代だから、
暴行とか、そういったものは、話がよく聞こえよったんですよ。女子暴行。

一番それが嫌だったわけですよね。
自分たちの生活は、どうなっていくかという問題。
それが一番大きかったですね、自分たちとしては」


沖縄各地で、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる、大規模な基地反対運動が起こります。


「戦い終わって山河ありと言う。
だが、戦い終わって、今なお山河変わりつつある。
それが沖縄である。
無期限に土地は取られ」




しかし、基地の建設を進めるアメリカ軍の姿勢は、一向に変わりませんでした。



アラン・ミレット博士
「沖縄でも時々衝突が起きることはありましたが、
あの島はアメリカ軍が統治していました。
軍部こそが中央政府だったのです」



沖縄の人たちが救いを求めたのは、日本政府でした。



ニュース
「沖縄代表団の一行は、首相官邸に鳩山総理大臣を訪ね……」
沖縄代表団は苦しい実情を伝えるとともに、日本本土からの協力を訴えました。



「沖縄の住民の人々の力だけではできない。
どこまでも日本国民であるところの8千万の同胞と
共に立ち上がってもらわなければならない」

沖縄の主権は日本にあると、繰り返し主張していた日本政府。外務大臣がアメリカ側と会談します。


ところが、海兵隊基地の問題が採り上げられることはほとんどありませんでした。











NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 5

2010年12月09日 | 過去記事倉庫



当時のアイゼンハワー政権の内部文書など、300万点を所蔵する大統領図書館。
ここにアメリカの思惑を伺わせる報告書が、残されていました。


朝鮮戦争で司令官を務めた、
ジェームズ・バンフリート元陸軍大将。
大統領からの特命で、半年にわたって、
日本など東アジア状勢を調査しました。





その中間報告は、当時の日本について、こう指摘しています。
「戦争の悲惨な体験から、国民には反戦の意識が非常に強い。アメリカ軍が存在し続けると、国民の間に反米感情が高まりかねない」




<ニュース映像が流れる>

「石川県内灘町試射場の問題は、6月13日、政府側が一方的に強制接収を……」


日本が独立を回復した1952年以降、
各地でアメリカ軍基地への反対運動が起こり始めます。




数多くの基地をそのまま起き続けることは、難しくなっていました。



「アメリカ軍および政府代表は、激しい怒号を浴びながら、かろうじて引き上げてゆきます」




行き場を失ったアメリカ軍。
バンフリート元大将は、こう報告しています。
「沖縄は、大きな潜在力を持っている。
多くの部隊を引き受ける訓練場や施設をつくることができるからだ」


海兵隊の元将校で、その歴史を研究してきた、アラン・ミレット博士。


当時、沖縄がアメリカの施政権下にあったという政治的理由が重要だったと指摘しています。

アラン・ミレット博士
「日本の住民との衝突を減らすには、部隊をしっかり管理し、兵士たちを隔離するのが一番です。それにはアメリカの施政権下にあった沖縄が、本土より適しているのは明らかでした。」


さらに沖縄はと問いの賃貸料が安く、
海兵隊の駐留費用を大幅に節約できたのです。




海兵隊の移転先に、沖縄を選んだアメリカ。

当時の「基地建設計画」を入手しました。
新たに土地を接収する地域として、まだ基地がなく
開発も進んでいなかった沖縄本島北部に目をつけました。


その一つが、現在の名護市辺野古です。



海兵隊基地、キャンプシュワブの建設計画が明らかになった、辺野古地区。



55年前の人口は、およそ500。


生活の糧としていた田畑や山林が奪われるとして
当初、多くの住民が反対の声を上げました。




NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 4

2010年12月09日 | 過去記事倉庫
住宅の上空で、ヘリコプターにぶら下がる兵士たち。
(路上には三輪車で遊ぶ子どもの姿)



沖縄のアメリカ軍の6割を占める海兵隊です。



いち早く敵地に乗り込むことから、殴り込み部隊とも呼ばれる海兵隊。
(訓練で、敵兵役を激しく殴打する場面)



しかし、戦後しばらく沖縄には海兵隊の部隊はありませんでした。



1953年、岐阜で撮られた映像です。


一般の市民に混じって、電車に乗る海兵隊員の姿がありました。



実は戦後、海兵隊は沖縄ではなく、
日本本土に駐留していました。



沖縄戦の時、上陸作戦の主力部隊を務めた海兵隊は、
終戦とともにいったんアメリカ本国に帰還。


その海兵隊は、朝鮮戦争をきっかけに、再び日本に派遣されます。
この時部隊が置かれたのは、関東や関西など、
本州各地にあったアメリカ軍基地だったのです。

神奈川県湘南海岸。
江ノ島を臨む若者に人気の海岸にも、かつて海兵隊の姿がありました。




茅ヶ崎ビーチと呼ばれたアメリカ軍基地。
海兵隊と陸軍による共同訓練の映像です。
本格的な上陸演習のできる海岸として、
連日のように訓練が行われていました。


しかし、駐留を始めて4年。
海兵隊は本土の基地から次々と姿を消します。



その海兵隊の移転先とされたのが、沖縄。
その理由は何だったのか。