李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

  【 大 江 南 北 と 奥 の 細 道 】

2018-06-26 11:53:53 | Weblog

    ーー    国 柄 と 奥 行 き  違 い   ーー

 

ウエブに、漢語の「大江南北」という文句の記事 7,300,000 件ある。「大江南北」とは、「長江の中下流地域両岸に広がる土地」ということで、それが転じて(中国)全土を意味し、「走遍大江南北」(国中隅々まで歩く、旅する)というような使い方も出来る文句である。

一方、日本語の「奥の細道」という文句のウエブ記事が 535000 件ある。この「奥の細道」とは、列島の東北と北陸の旅路を意味する。

 

長江の両岸に広がる土地と列島の東北と北陸一帯、とでは地理的にかなり規模が違う。それが、ウエブの記事数にそのまま反映されている。

 

列島の俳聖 松尾芭蕉が、東北と北陸の旅の記録をまとめた書が『奥の細道』で、江戸の深川を出発し、日光、松島、平泉まで行き、山形を通って新潟から金沢に入る道筋を通り、その後、敦賀(現在の福井県)に行って大垣に到着。そして、伊勢に向けて出発するまでの内容を書いたもので、日程は 150日間、総移動距離は2,400km、の旅であった。

 

一方、唐土の詩仙  李白は、25歳の頃、蜀の地を離れ、長江を東へと下り、以後10 数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪する。長沙、金陵(南京)、揚州などにも遊んだ。そのあとも、62 歳で亡くなるまで、大江南北を転々と流浪し続けた。その主な地名を拾ってみると、湖北省の南陸、襄陽、山西省の太原、河南省、金陵(南京)を拠点に呉越に遊び、やがて范陽(北京)に向かった。そして、甘粛省邯鄲、安徽省宣城、揚州や秋浦など、そして、中国最西端、雲南省の夜郎にまで足を伸ばしていた。

蜀は四川で、首都成都を振出にして、李白の道のり距離を幾つか拾ってみると、成都ー北京 2160 キロ、北京ー西安(長安) 1220 キロ、西安ー南京 1220 キロ、と、四川を出て、北京、西安、南京に遊んだだけで、優に、4500 キロを越す。奥の細道の倍ほどの距離になる。もし、李白の生涯に亙る全道程を計算すると、恐らく、何万キロになるであろう。

 

李白の漢詩は 大江南北を流浪した作品であり、芭蕉の俳句は奥の細道を旅した作品である。

俳句は、世界最短の「詩」だと言われている、字数も 五の制限がある。漢詩には字数の制限はない、だから、伸び伸びと「浮き世」を写生することが出来る。

 

    古池や  蛙飛び込む   水の音

水の音、、、 それがどうしたという疑問が残るのが俳句。

仮に、李白の 有名な「静夜思」を、五七五の俳句にすると、

    床前明月光   地上の霜かと   見間違がう

で終ってしまう。これだけでは、舌足らずで、それが

どうしたという疑問が残る。

 

所が、それを漢詩で詠うと、

    床前明月光    疑是地上霜

    挙頭望明月    低頭思故郷

 

という具合いに、「序」(始め)に 明月光を見てその明かるさに驚嘆する、引いて、それが 故郷を思うという心情に結び付く、という描写が( よど ) み無く出来、一つの詩句としての完成に至る。

 

俳句も詩のうちに入るなら、 (蛙 飛び込む) 「水の音」は 「序」に属するから、その後に 次のような「結び」を付ければ、もっと味わいが深くなる、のではなかろうか。

 

    古池や 蛙飛び込む 水の音

 

     静けさが 辺り一面に こだまする

 

 

 

国柄という言葉がある。その国が本来備えている性質・性格。その成り立ち文化の特色を表すもので、万葉集に、「 玉藻よし讃岐の国は  国柄か  見れども飽かぬ 」という歌があって、藻は藻でも、讃岐の藻は玉藻で、見れど飽かない、と、その地方の特色を詠っている。

似たように、同じ 詩は詩でも、俳句と漢詩では、表現の規模は大江南北奥の細道のように大きく異なる。そこから、国柄の違いというのが見えて来る。

 

奥の細道は、一見、奥の深い道のりを想像させる、が、江戸の深川を出て、日光、松島、平泉まで行き、山形を通って新潟から金沢に入る道筋は、太平洋側から日本海側に出る道のりで、奥行きの深さは感じられない。

嘗て、日中戦争で、日本軍は三か月で中国を打ち負かす事が出来ると、安易に考えていたが、三か月が八年に延び、日本軍は泥沼に陥って、結果は敗戦となった。何がそうさせたのか? 奥行きの無い国柄で生まれ育った日本人には、広大大陸の奥の深さを知る術は無かった。また、太平洋戦争は、馬鹿げた無謀な戦(いくさ) であったと、戦後、日本人が挙って非難したのも、大陸国の奥行きの深さを知らない島国人種の蒙昧に依って引き起こした戦である事を、敗戦で始めて知ったものである。

奥行き、を、性格や文化の特色で見ると、深謀遠慮の有る無しに関わって来る事が分かる。

 

一度、ニューヨークで、富士サンケイの T V 番組に、漢字の書き方についての東京の街頭質問の放送を視て 仰天した事がある。

「上」という字の筆順はどうやって書くのか、という質問を五人の通行人に出したところ、正しい答えを出したのは、戦後育ちの若者一人だけで、その他、漢字に強い筈の中年年配の人達は全員間違っていた。

「上」という字は、左から右へ、まづ立て棒を先に引くことも出来る、または、ヨコからタテに、ヨコ棒を先に書くことも出来る。つまり、 I - 上でも、- I でもよいので、昔から、二通りの筆順が一般に使はれていたが、戦前の学校は、- I 上の順で教えていた。

それが、戦後しばらくして、戦前の教科書筆順に問題ありとして、教育当局が五人の著名書道家に是非の審議を依頼した所、五大書道家は I - が正しいという結論を出した。それで、戦前の教科書の筆順を取り消して、新たに、I - の筆順に変えてしまった。一人だけ戦後育ちの若者が正解を出したのはこのためである。

 

「上」という字は、原産地の中国に於いて、二通りの書き方で数千年来通用して来た。別に支障もなく、殊更筆順を問題にする人も居ない。 所が、列島ではそれを一通りだけにしなければ気が済まない、云うなれば、日本人の一徹な気性がそこにありありと現われている。この場合は、明らかに、「問題にならない」問題を「問題にしている」一徹ぶりである。

 

それでいて、「負け嫌い」と「負けず嫌い」、「二足三文」と「二束三文」などのような極端に矛盾する用語については、全く意に介せずにほったらかしている。なんとも、ちぐはぐな社会気質である。

 

「上」という、僅か三筆劃の漢字の筆順がどうであろうと、「上」の字に、些さかの変わりは生じない。 所が、人や車の通行が、右側通行か 左側通行かをきちんと規制しないと、交通は大きく乱れる。誰でも知っている事である。

 

列島は、世界でも稀れな 車輌 左側通行制になっている。恐らく、明治開化の先生格であった英国を真似たものであろう。 所が、人間は 右側通行という万国の例に従って来た。 左寄りで車を走らせ、下車したら 右寄り に歩き出す、という矛盾は、必然的に 通行の混乱をもたらす。

それで、此の所、駅や建物の狭い構内通路で、右側通行、左側通行、が混然として通用して、人通りの混乱をもたらしているので、最近は、「真ん中を歩いて下さい」という立て札が出始めるようになった。

 

僅か三劃の「上」の筆順を気にするよりも、車と人の通行を右、左に きっちりと整理して規制した方が 社会の為になると思うが、列島は、前者に神経を尖らし、後者はさ程気にしない。大変な矛盾である。

 

細かい事を非常に 気にする 反面、大局を疎かにするという列島の国柄気質は、芭蕉の 『奥の細道』という 表現とは異なり、実際は、奥行きの浅い国柄である。

 

だから、 飛び込む 水の音 で切れる 俳句という世界最短の 詩が誕生し、「わびさび」 という 物哀しげを詠う事に終始するのであろう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿