ーー 「 言わぬが花」「 秘すれば花」 ーー
また 漱石先生にお出ましいただくが、作品「猫」で、漱石は次のように書き出している。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る 」
漱石の猫、どこで生まれたか頓と見当がつかぬ、とは、言い換えれば、どこで生まれたかさっぱり分らない、ということで、「頓と」が意味するのは 「さっぱり」である、というのが分かる。
英語の「ちんぷんかんぷん」は It's all Greek to me と言う。英語しか知らないボクに、 ギリシャ語は さっぱり分からない、と言う。
スペイン語で は Me suena a Chino. (メ スエニャ ア チーノ)、つまり、「それは私には中国語に聞こえる」 から さっぱり分からない、という言い方をする。
日本語でも、トンチンカン に 頓珍漢 という漢字表記がある。 或いは、チンプンカンプン と言う時は、 珍文漢文の漢字表記がある。何れも 同じ意味の言葉で、つまり、一部の日本人に取って、漢字、漢文 は 「頓と 見当が付かない」、という事を意味するもので、上述の It's all Greek to me や Me suena a Chino. と全く同じ表現法になる。
ここまでは、難なく分かる。が、この言葉について、日本の語源辞典は、極めて、異色で、人びとの意表を付く解釈をしている、のは 何故か という 「謎」が 残る。
『 とんちんかんは、鍛冶などで師が鉄を打つ間に弟子が槌を
入れるため、ずれて響く音の「トンチンカン」を模した擬
音語であった。音が揃わないことから、ちぐはぐなことを
意味するようになり、さらに間抜けを意味するようになっ
た。漢字で「頓珍漢」と書くのは当て字である 』
このように、擬音語でもって、「さっぱり見当が付かない」、或いは、「さっぱり分からない」という意味の言葉の由来を解釈するのは、外国語に例がなく、また、言語文化の筋からも外れている。
先ずなによりも、鍛冶などで師が鉄を打つ間に弟子が槌を入れると、異なる音は二つしかないから、三つの「トンチンカン」擬音語になり得ない。それに、漢字表記で分かるように、明らかに、「漢字漢文」が難点になっているのに、その難点を避けて、鍛冶屋に舞台を移してトンチンカンな解釈をしている。
だから、ウエブで、トンチンカン、或いは、頓珍漢を入れてみると、『トンチンカンとは何の意味ですか?』、という質問が止め処なく出て来る。少なくとも江戸時代から使われて来た言葉の意味が分からないという厖大な質問が意味するのは、語源辞典の解釈に、列島の人びとが「納得し難い」と意思表示をしている事に他ならない。
ーー 未成熟言語か、果た又、
奥ゆかしい文化なのか ーー
(古代民族研究所代表)大森亮尚氏がウエブに、『[日本人の謎]なぜ、ことばを省略したがるのか? 』という一文を載せ、その中で、幾つかの極めて代表的な「省略」の例を挙げている。
例えば、「さようなら」は接続詞で、別れの意味を含まず、当然、その後に続くはずの「これで失礼します」という別れの挨拶語が省略されている。
関西弁の「おおきに」は副詞で、「ありがとう」につけて強調して「おおきにありがとう」ということばになるはずだったのに、「ありがとう」という肝心のことばが省略され、「おおきに」だけになった。
英語で例えると、感謝のことば「サンキュー」を強めると「サンキュー ベリーマッチ」となるが、それを「ベリーマッチ」だけで切ってしまったようなものになる。
「ベリーマッチ」という副詞だけではなんの意味もない。論理的には間違いなのですが、そうした省略が日本語に多く見られる。
主語が省略されたり、肝心なことばが略されたり、日本語は言語学的に見ても欠陥だらけで未成熟言語のように思われるかもしれません。その点、英語は主語・述語・目的語がはっきりしていて、主張すべきことを論理的によどみなく展開できる構造になっている。日本人が外交などでいつも自己主張ができないと言われるのも、こうした言語上の欠陥があるからだと指摘する人もいる。
そして、『 省略に加えて、ストレートな表現を避けるのは、日本の言語文化「言わぬが花」「秘すれば花」で、ひとつの奥ゆかしい文化なのです 』と、氏は指摘している。
この大森氏の一文を読むと、トンチンカンの由来と解釈の「謎」が、難無く、容易に解けるようである。
大森一文は、日本人はなぜことばを省略したがるのか? 』というのが重点となって居る、その文中で、幾つかの極めて代表的な「省略」の例を挙げて説明している。
例えば、
『「カラオケ(中が「空」』。これは、「歌が入っていないオーケストラだけの音楽」のことで、全文ぼぼ二十字の言葉をカラオケの四字に省略したもの。
ドタキャンは、十字のドタンバのキャンセルを、半分の五字に省略したもの。
プレハブは、その正式名称: プレファブリケイティッド・ハウス ( Prefabricated House) を、日本語に訳すと「事前に製作された家 (建物)」という意味の全文十五字の言葉を、僅かの四字に省略したもの。
このような日本語独特の省略は、実は、「頓珍漢」にも同じ応用の実例を見ることが出来る。
「頓珍漢」が意味するのは、「頓と分からぬ珍妙な漢字漢文」であるのははっきりしている。「頓と分からぬ」のは自慢にならないことだから、「秘すれば花」で、「分からぬ」を外して「頓」だけ残せば、「分からない」という恥をかかなくてもよい。そして、「珍妙な漢字漢文」を、カラオケ同様に、「珍漢」に省略すれば「頓珍漢」の三字で、言わんとする意味は通じて、事は済む。そうして何よりも、漢字漢文に弱い日本人は、自分の弱点を露出せずに済む。
そして、漢字漢文そのものが珍妙な文字であるから分からない、という自己弁明の役にも立って、一石二鳥、引いては、一石三鳥の目的を達する事も出来る。
上述大森氏の一文で、氏は、「日本人の謎」として、『省略』に加えて、『ストレートな表現を避ける』の二つを挙げている。このストレートというのは、日本語の「素直」になるが、全文を日本語で書いた氏は、この「素直な表現」の一言だけは素直の替りにストレートというカタカナ英語を使用している。
「さようなら」という接続詞、「おおきに」という副詞、でもって肝腎の挨拶語替りに使用しているのは、勿論、「素直な表現」ではない。言うなれば、一種の「本音を避けている」意思表示になる。
「素直な表現を避ける」、と言うのと、「ストレートな表現を避ける」、と言うのと、意味合いはかなり違う。漢字は一つ一つの字が意味を持っているから、素直でない、と書けば、そのまま、素直でない意味で出て来るが、カタカナ英語で ストレート と書けば、「素直でない」の意味は暈されてしまう。簡単な例を挙げると、セックスと書いて性交と書かない、のと同じ原理である。
他国の言葉に比べると、「日本語は言語学的に見ても欠陥だらけで未成熟言語のように思われるかもしれません」、とは言うものの、その実態を素直に受け入れる日本人は、居るだろうけれど、さ程多くは居ない。そこで、『「ストレートな表現を避ける」日本の言語文化は、「言わぬが花」「秘すれば花」で、ひとつの奥ゆかしい文化なのです 』 という、やや禅問答じみた注釈を付け加えて、体裁をよくする。
頓珍漢も珍文漢文も、突き詰めてみれば、全く同じ意味を持つ言葉で、頓と分からない漢字漢文、を意味しているが、鍛冶屋の擬音語にしてしまえば、「頓と分からない」という好ましくない意味がごく自然に消失するので、誰かによって、筋の通り難い擬音語の由来解説が発明されたものだ、としか思えない。
「頓珍漢」を素直に解釈すれば、、鍛冶屋には関係がなく、「頓とわからぬ珍妙な漢字漢文」の省略体である、という事になる。この方が、言語文化の「話」として、立派に成り立つのではないだろうか。 漱石先生!、如何でしょうか ?