考えさせられた、というか、見た後なんとなくまつわりつく感じのしたのが
「太陽」
「白バラの祈り-ゾフィー・ショル最後の日々」
先のほうは、ロシア人監督でイッセー緒方が天皇を演じた。
私はこの天皇は違う、と思った。
そしてまた、人は誰でも自分の理解能力とか、自分の持ってる世界の枠内で人でも物事でも捉えるもので、しかもそれを忘れることも多い。天皇はとても特殊な人なのに、人は如何に自分自身でなく、他人のイメージの投影として存在を規定されているかを突きつけられた感があった。
それにちょっとショックだったのは、今の日本映画で見るなんとなくこぎれいな戦後の風景よりも焼け跡の荒廃、虚脱したような日本を強く感じたことだった。
まだまだまとわりついたままの映画なのであります。
それと、天皇を植物出なく動物の学者にしたのは、あるセリフから考えて仕方ないのかな、と思ったけど、それだけでもかなりイメージが変わるのではないでしょうか。
あとの方は、なぜこういう映画が日本でできなかったのかということがまとわりついてしまった。
第1次大戦後のドイツが泥の中に落ちてしまったような惨めさを味わっていたこと、ナチスがドイツ人の誇りを訴え、見せ掛けでも光を示したことは知識として知っている。
映画の中で、ゾフィーを尋問した尋問官が、誰を傷つけたわけでもなく、ただナチスに反対するビラをまいただけの彼女に対し、
「この行動は死刑になる反逆に規定されている。法があって人間が存在する。」と言い切る。
それに対してゾフィーが
「良心に基づいて行動した。」
とやはり言い切る。
私は法学は大学の一般教養で概論を、あとは商法とか特許法など少々教わっただけ。そして法学の最初の講義で「成文法と、不文律としての道徳が法である」ということを聞いた。それは自分の都合で覚えていたりいなかったりするんだろうな。
そのことも、またユダヤ人弾圧に見るように自分の不満がかんたんに対象としての形を与えられてしまうのも、大義を差し出されてこれまた簡単に飛びついてしまうのも、なんだか背筋が寒くなるように理解できるのだった。
周囲が熱狂していく時に、本当に冷静で良心に背かずにいられるか。ここまで考えさせてくれる映画は残念ながら、今年の邦画では出会えなかった。ま、もちろん私の感じ方が絶対ではありませんが。
「太陽」
「白バラの祈り-ゾフィー・ショル最後の日々」
先のほうは、ロシア人監督でイッセー緒方が天皇を演じた。
私はこの天皇は違う、と思った。
そしてまた、人は誰でも自分の理解能力とか、自分の持ってる世界の枠内で人でも物事でも捉えるもので、しかもそれを忘れることも多い。天皇はとても特殊な人なのに、人は如何に自分自身でなく、他人のイメージの投影として存在を規定されているかを突きつけられた感があった。
それにちょっとショックだったのは、今の日本映画で見るなんとなくこぎれいな戦後の風景よりも焼け跡の荒廃、虚脱したような日本を強く感じたことだった。
まだまだまとわりついたままの映画なのであります。
それと、天皇を植物出なく動物の学者にしたのは、あるセリフから考えて仕方ないのかな、と思ったけど、それだけでもかなりイメージが変わるのではないでしょうか。
あとの方は、なぜこういう映画が日本でできなかったのかということがまとわりついてしまった。
第1次大戦後のドイツが泥の中に落ちてしまったような惨めさを味わっていたこと、ナチスがドイツ人の誇りを訴え、見せ掛けでも光を示したことは知識として知っている。
映画の中で、ゾフィーを尋問した尋問官が、誰を傷つけたわけでもなく、ただナチスに反対するビラをまいただけの彼女に対し、
「この行動は死刑になる反逆に規定されている。法があって人間が存在する。」と言い切る。
それに対してゾフィーが
「良心に基づいて行動した。」
とやはり言い切る。
私は法学は大学の一般教養で概論を、あとは商法とか特許法など少々教わっただけ。そして法学の最初の講義で「成文法と、不文律としての道徳が法である」ということを聞いた。それは自分の都合で覚えていたりいなかったりするんだろうな。
そのことも、またユダヤ人弾圧に見るように自分の不満がかんたんに対象としての形を与えられてしまうのも、大義を差し出されてこれまた簡単に飛びついてしまうのも、なんだか背筋が寒くなるように理解できるのだった。
周囲が熱狂していく時に、本当に冷静で良心に背かずにいられるか。ここまで考えさせてくれる映画は残念ながら、今年の邦画では出会えなかった。ま、もちろん私の感じ方が絶対ではありませんが。