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福井県⛩️【三國神社】古代と近代の顔

2024-07-07 | 古代ミステリー

⛩️三國神社

北陸地方、福井県と石川県の県境にある。

久しぶりの古代ミステリーの投稿です。
(画像は以前のもの😌)

九頭竜川沿い、下流に鎮座されてる神社。

 


江戸時代から明治時代、大阪から北海道まで日本海側のルートをいく廻船を
北前船と言い、北前船の寄港地の三国港の繁栄と共に三國神社も栄えてきた。



越前三大祭りのひとつ「三国祭り」

(三國祭り 巨大人形の山車)

 

 

しかし、創建の由緒は繁栄より古く1500年は遡ると思われる。


御祭神⛩️ 継体天皇 大山咋神

継体天皇は、大和王朝の王統が途絶えて王になるものが居なくなってしまい、大伴金村に請われて王権を継いだ天皇で直系ではない為、謎が深い。

1500年前の巷説の世界を少し覗いてみる。

興味のある方はご覧下さい😊

 

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継体天皇は、

正史の世界では応神天皇の五世孫とされるが、五代も遡れば確かさは定かでなくこれは寧ろ別の王統である場合に用いられる表現と考えられている。

巷説の世界では、古代最大の渡来部族・エフタル族の王とされるが、
アカデミズムからも「別の王朝では?」との声があがる程、継体天皇は天皇の系譜の中では異質な存在だ。

 


蒙古鉢形甲
(この時代に突然大陸の兜が登場する)

 

渡来人王朝のせいか、日本を統一した王朝にしては継体天皇を祭る神社は少なく影が薄い。

 

継体天皇を祭る神社は、何かしら直接的な御由緒がある神社のみだ。

 

継体天皇の故郷、福井県坂井市高向神社の看板。

 

もう一人のご祭神大山咋の神は、天台宗の守護神や秦氏が祭る松尾大社に祭られる山の神様だが、

しばしば同じく山の神様である大山津神さまと混同される。

 

(大山咋をお酒の神様として祭る松尾大社)

 

マイノリティだが、継体天皇に王位継承を願った大伴金村の子に「大伴咋」と言う者がいて、どちらかと言えば

三国神社の大山咋=大伴咋説を支持してみたい。

 

大伴咋は、聖徳太子の命令で、
倭国、百済、高句麗による対新羅
「三国同盟」を結んだ使臣だ。

高句麗と百済が敵対していた為、同盟は困難であり、三国を結んだ功績は当に

三国神社と名乗るに相応しい。

 

 

エフタル族は、西アジアで勢力を誇った遊牧民族だが、ペルシア、突厥に挟撃され
民族の大移動を敢行し、まだ大国の少なかった東アジアへと逃亡してきた。

 

これほどの大部族がやってきた事はかつてなく、6世紀の朝鮮半島と日本列島は大混乱の時代を迎える。

 


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当時 ヤマトの王だった武烈天皇は驚き新羅に逃亡してしまい、
その後エフタルを恐れて王位を継ごうとするものが誰もいなかった為、

仕方なく大伴金村・物部麁鹿火が、ヤマトの王位を継いで下さる様にと頼んだ。

継体天皇(男大迹王)は河内で即位したが、朝鮮半島への進出をひかえ草深いヤマトに引っ込んでいる場合ではなかった。

河内から新羅に侵攻し王座を奪い、智証麻立カーンとして即位し国制を改革した。

百済へも圧力をかけ皇太子を廃嫡させ倭国に送り、自分の息子を百済皇太子にし任那四県を割譲して付けた。

そして新羅に逃げていた武烈天皇が帰順してきた為、継体天皇は朴妃を嫁して武烈に王位を譲り、自分はその上皇(葛文王)となって、倭国に戻った。

 

継体天皇はようやくヤマト入りして玉座に座った。

即位からヤマト入りまで20年も歳月が過ぎていて、正史の世界では
『 継体天皇はヤマトの豪族を恐れて、なかなか大和に入ることができなかった』とされている。

もしも本当にそうならば、ヤマトの豪族らは、恐れてヤマト入り出来ない王など敢えて擁立せず、他の王を立てていた事だろう。

何もせず 20年も大人しく待っていたことからも、恐れていたのはヤマトの豪族側だったと思われる。


継体天皇がヤマト入りし、ヤマトは九州勢力との頂上決戦で勝利して、東の蝦夷を残し関東から九州までほぼ日本列島を統一した。

朝鮮半島から日本列島にかけてエフタル族の支配政権は半世紀ほど続いたが、
戦乱の末、新羅を残してほぼ駆逐された。

そして朝鮮半島や 日本列島の歴史からはエフタルの名は封印され、それぞれ 新しい国へと生まれ変わていった。


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三国神社は、

かつて存在した短命王朝や三国同盟など、知られざる歴史を微かに密やかに偲ぶスポットでした✨

 

最後までご覧頂きありがとうございました✨✨✨✨✨✨

 

 

【追記】

新羅の武烈王と、倭国の武烈天皇

新羅の文武王と、日本の文武天皇

何故、同じ様な時代に同じ名の王がいるのか?(三国史記・日本書紀)

気になっている方も多いと思うが、

 

正史の世界では、「漢風諡号」と言って使って良い漢字が限定されている諡なので、同じ組み合わせになるのは珍しいことではないとされている。

 

しかし、新羅との戦争、任那領有権の争い、王族の暗殺や裏切り、大化の改新や白村江の戦いなど、最も半島と列島で往き来があった大乱の時代に、新羅王と同じ名の天皇が2人もいるのだ。

 

「単なる偶然」で済ませてしまうのは

探究心が無さすぎる。

 

現在の国境に合わせて歴史を考えるのでなく、任那が存在していた当時、

日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境がなかった時代に頭を切り替えて考えてみた方が、まだリアリティがあると感じる。



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