二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

明治の文豪・幸田露伴

2015年06月17日 | エッセイ(国内)
文学趣味がある人もない人も、文豪ということばは知っているだろう。
さて、日本の文豪では誰がいますか?
・・・と質問されて、幸田露伴の名を挙げる人が何パーセントいるだろうか。

もう何年も前から、幸田露伴が気になって仕方なかった。
鴎外、漱石、荷風は読み囓っている。さらにいえば、一葉、藤村、谷崎、志賀、芥川。
若いころ、あるいは中年以降、多少は読んで、それなりのイメージをつかんでいる。
ところが、気にはなっているのに一向に読めないのが幸田露伴。

明治の文豪など、ごく一部をのぞき、ほとんどカビが生えてしまって、いまさら読むにたえない・・・かりに読書人といわれる人であっても、露伴を読みこなしている人は、非常にまれであろう。まずその背景には、江戸文化がある。そのうえ、漢文学の素養がないと、読みこなせない彼方の存在なのである。

たとえば漱石ならば、「坊っちゃん」があり「こころ」がある。まあ、「道草」「明暗」となると、読んでいる人は激減するに相違ないが・・・。
露伴さんには、そういう人気のある著作がない。「五重塔」「運命」が名高いといえばいえるが、いわゆる文語文。見たこともないような漢字がダダーっとならんでいる。
「ああ、だめだ! 降参」
露伴を読むのは古文を読むようなもので、かなりの日本語力がないと読みこなせない。
「源氏」はともかく、「平家」や「徒然草」でさえ、注釈だけではたりず、ところどころどころ現代語訳を必要とするわたしのような輩には、生涯縁がないだろう。

漠然とそう思ってはいるのだが、なぜか気になる。
わが国の近代の文学者で、真に巨大なのは、鴎外、漱石、露伴・・・この三人だろうという意識がぬぐえない。
「そのうちトライするぞ、きっとだぞ!」
そう自分にいいきかせはするが、有言実行ならぬ不実行のまま歳月が流れた。「芭蕉七部集評釈」ももっている。
露伴を意識するようになったのは、次女文さんが書いた「父・こんなこと」を読んだせいである。この本は、過去に3回読み、そのたびに、深い感動につつまれた、わたしんとっては大事な一冊なのである。

「露伴の最高傑作だって? それはなんといっても幸田文を後世に残したことさ。わからなかったら『父・こんなこと』を手にしてみるがいい」
そういってすましておきたいくらいである。
「文さんも長命だったから、父露伴の評伝を書いておいてくれたらよかったのに」という不満がくすぶっている。

今日近所の大型書店をぶらぶら散歩していたら、岩波の小林勇さんが書いた「蝸牛庵訪問記」が置いてあるのが眼についた。そこで例によって、ランダムに、数ページ立ち読み。
おもしろそうだったので、買って帰ってきたばかり。
「おもしろそう」とは、もしかしたら、露伴という険しい山塊への登山口がみつかるかもしれないとひらめいたからである♪

「露伴なんてもう旧い。カビどころか、腐って傾いた陋屋みたいなものだろう」
そういう内心の声が聞こえないわけではない。
うーん、そうかな? 腐った陋屋かどうか、調べてみる価値はあるのではないか。
幸田文さんという近代文学の中で稀有な作家が、露伴の薫陶から生まれ育ってきたことを、みずからの頭で検証する。
反時代的な趣味的な作業を通じて、なにか埋もれた宝石か輝石が掘り出せるかもしれない。

小林さんの「蝸牛庵訪問記」をぱらぱらとめくりながら、そんな期待に胸をふくらませている。

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