二草庵摘録

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「わが友マキアヴェッリ」フィレンツェ存亡(新潮文庫)レビュー

2014年11月24日 | 塩野七生
「海の都の物語」を読みおえ、本書にとりかかった。
塩野さんは、「わが友マキアヴェッリ」で1988年第27回女流文学賞を受賞している。
本書は「海の都の物語」のあとに書かれているので、読み方としては順当なものといえるだろう。
ただし、まだ読みおえてはいない。
本書は、
序章 サンタンドレアの山荘・五百年後
第一部 マキアヴェッリは、なにを見たか
第二部 マキアヴェッリは、なにをしたか
第三部 マキアヴェッリは、なにを考えたか
・・・という構成をとっている。
現在新潮文庫の第2巻第9章「チェーザレ・ボルジア」を読みはじめたところだ。
この章がなにをしたかの、いわばピークを形づくるとわたしはみているので、昨夜からちょっと軽い興奮状態(笑)。
じつは昨日、活字が大きくなって読みやすい「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」(新潮文庫)を買ったばかり。
当時の繁栄した都市国家フィレンツェにおける外交・政争・戦争を、かつてはボルジアを梃=主人公として描いたが、今度は、そこでは登場人物の一人にすぎなかったマキアヴェッリの側から取り上げることについて、そこにどんな工夫、どんなためらい、どんな決断が必要だったか、塩野さんが読者に直接語りかけているところがじつにおもしろい。

レビューは本来、すべて読了したあとで沈思黙考して書くものだろう。
しかし、読了すると、わたしの関心はすぐにつぎの書物に移ってしまという悪しき傾向があるので、ここいらでひとまずまとめておく。
政治・外交・そして思想の問題が、じつに塩野さんらしい周到さで描かれていくさまは、なかなか壮観な眺めである。
必要なディテールはしっかり書き込まれてあるから、歴史小説的な味わいをもっている。
本の背表紙には、本書がこう紹介されてある。
「権謀術数の代名詞とされるニコロ・マキアヴェッリ。しかし彼はそれほど単純に割り切れる人間ではなかった−−−−。16世紀のフィレンツェ共和国に仕え、権力者たちの素顔を間近で見つめつづけた官僚。自由な精神で政治と統治の本質を考え、近代政治学の古典『君主論』を著した思索者。そして人間味あふれる愛すべき男。その実像に迫る塩野ルネサンス文学の最高峰」
本書を読んでいると、マキアヴェッリが学究の徒ではなく、理念を追い求めた思想家でもなく、市井に身をひそめた隠者でもないことが、よくわかる。彼はおよそ15年に渡って国家の官僚を勤め、外交の第一線で活躍した有能な実務家であった。
本書はある意味でマキアヴェッリの一面をではなく、その全体像を浮き彫りにしようとした野心作である。
タイトルの頭を“わが友”としたところが、この人の衝迫力。わが友につて語るように、マキアヴェッリについて語った人はほかにはいない・・・すくなくとも日本には。
学者が書いた政治学の本でものたりないという若い読者は、本書の核心を見逃すことはないだろう。
「海の都の物語」とならぶ、稀有な名著であると断言できる。
買ってきたばかりの本を読んでいたら、沢木耕太郎さんのこんなことばにぶつかった。
『歴史でもなく、伝記でもなく、小説でもなく、しかし同時にそのすべてでもある、という塩野七生に独特のスタイルの文章が、初めて多くの人の眼に触れるようになったのは「ルネサンスの女たち」が公刊されてからのことである。』(「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」解説)
なるほど、“同時にそのすべてでもある”と沢木さんはいう。愛読者の的確な評言と称すべきだろう。

国家とはなにか、権力とは、どうあるべきか? 宗教やイデオロギーの桎梏から解き放たれて。
そのことについて、用意周到に、慎重に、実例を取り上げて検証しながら、歴史の闇の中を闊歩する塩野七生の“凄味”を、本書でも堪能することができる。
時間がたつのを忘れて読みふける・・・という経験を、塩野さんの諸作によって、わたしは久々に味わっているのだ。
ただし、断るまでもないだろうが、佐藤優さんの本書解説はいただけない。
塩野さんの著作は基本的に普遍的なグランドに足を下ろすように、長いタイムスケールを見据えた上で書かれている。新潮社のもとめに応じて書かれたとは推測できるけれど、佐藤さんは時事的、体験的な地平から抜け出すことができていない。
この落差に、わたしはしばし茫然となった。

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