二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

東野治之「遣唐使」(岩波新書 2007年刊)レビュー

2019年10月20日 | 歴史・民俗・人類学
著者サイン入りの「遣唐使船」(朝日選書 1999年刊)ももっているのだが、じつはまだ読んでいない。
さきに出された「遣唐使船 東アジアのなかで」がいわば各論とすれば、「遣唐使」は総論に当たるそうである。この2冊のほか、岩波新書から「鑑真」「木簡が語る古代の日本史」も刊行されている。





「遣唐使」を読みおえたいま、著者東野治之先生に、畏敬の念を禁じ得ない。博捜に博捜を重ね、これまでの研究成果を十分に踏まえ、非常に充実した、濃い内容を備えているのだ。遣唐使に対し、何十年にもわたって検証し、思索を深めてきたことがよくわかる。
AmazonのBOOKデータベースではつぎのように紹介されている。

《中国で、遣唐留学生「井真成」の墓誌が発見されたというニュースは、まだ耳に新しい。国家の使節として、また留学生・留学僧として海を渡った人々は何を担い、何を求め、何を得てきたのだろうか。遣隋使と遣唐使を統一的にとらえる視点から、七、八、九世紀の約三百年にわたる日本古代外交の実態と、その歴史的な意義を読み解いていく。》

もうリタイアされているかも知れないが、東野さんは奈良大学教授の職にあり、専攻は日本古代史、文化財史料学。文化財史料学とははじめて耳にするジャンルだが、正倉院御物等を研究している学問なのであろう。
遣隋使、遣唐使によって、現在あるような日本が誕生したのだ。巻末にある「遣隋使・遣唐使年表」は東野さんが築きあげた貴重な研究成果の一覧である。

出発と帰還、使人、航路、船数、入京(長安、洛陽)年月、そして備考からなるこの年表を、わたしは食い入るように幾度も眺めた。残された史料が豊富なわけではないから、想像力や推測で、慎重におぎない、読者を日本古代史の中核をなすイベントへと誘っていく。
遣唐使研究の第一人者といえば、この東野さんに指を屈するのだろう。

日本が隋、唐から学んだものが、関東ローム層ではないが、この国に分厚い層をなして重なっている。この時代、中国の文化が、日本のいわば背骨を作ったのである。
第1回遣隋使の派遣が西暦600年(推古天皇8)、結局中止となった最後の派遣が、894年(寛平6)。何と約300年にわたって、日本は隋、唐の中国に、外交使節を送りつづけた。

学んだといっても、要するに模倣すべきは徹底してすべて模倣したのだ。大量の文物が、先進国中国からもたらされた、わたしがこうして記述している文字すらも。
現在はアメリカ合衆国の周辺国家となった感があるけれど、この時代は中国の周辺国家であった。
国土の広さ、人口、文明・文化の先進性。当時の日本の政権と遣唐使たちは、そういった巨大国家に、いかに立ち向かい、何を受け入れ、何を拒絶したのか?

単に教科書的な概念として知っているのと、こうして、実証的な論考を読ませていただくのとでは雲泥の差。
交易と異文化交流はワンセットなのだ。
その事実を、本書はじつに雄弁に、仔細に読者に語りかける。
小野妹子や鑑真だけ知っていたのでは、時代の息吹がほとんどわからない。こんなにも大勢の人びとが、いのちの危険をおかして東シナ海をわたっていったのだ・・・ということに、拍手を惜しまない日本人がいるだろうか?

目次を掲げてみよう。
序 章 遣唐留学生の墓誌
第一章 遣隋使から遣唐使へ
第二章 長安・洛陽への旅
第三章 海を渡った人々
第四章 往来した品々
終 章 日本文化の形成と唐文化

103ページには、《「遣唐使の構成と手当」延喜式より》という、まことに興味深い表が掲げられている。つまり、使節、通訳、船員、技手、技術研修生、留学者それぞれの生活費の一覧。
半数以上は水手だそうである。帰還を果たした人は、全体のおよそ6割。悪天候のため、遭難した船の数はかなり多い。そういう危険をおかして、彼らは先進国唐へ渡ったのである。

無事帰還を果たした人たちは、朝廷での位階があがったり、高官に取り立てられたりする。「そうか、遣唐使とはそういう存在であったのか?」
通史では見えてこない当時の人、物の国際交流の実態が、ありありと浮かんでくる。すべて男性ばかりである。いまふうにいえば「タフであること」が要求されたのだろう、肉体的に、精神的に。

また別な箇所では「文化の選択的受容」についてふれておられる。
《日本の場合、地理的な環境が人の交流を抑制し、独自の基準で唐の高度な文化を選び取ることができた。道教の全面的な受け入れを拒んだり、官僚機構の中に宦官を置かなかったことなどが、その結果である。》(187ページ)

唐との接触がはじまって5-60年あまりで、日本は律令国家形成へと、大きく舵を切る。
またやがて9世紀ころには平仮名、それからしばらくし、片仮名を発明する。漢文をもとにしながら、“ヤマトことば”を表記する方法を見出しているのだ。
この事実は、朝鮮、ベトナムが独自の道を歩み出すのが遅れたことに対して、日本の文化のある種の“独自性”“優位性”をはやくに築いたことにむすびつく。
そのあたりの論証には、目を瞠らせるものがある。

あとがきまでで193ページ。圧倒されるような充実ぶりで、叙述は細部にいたるまで、研きがかかっている。こういう本を新書で読めるとは・・・。少数の選ばれた読者のささやかな幸福!
卓越した著者の知性を感じさせる、すばらしい一冊である!



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