日刊ミヤガワ

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4月25日 写真

2007年04月25日 | Weblog
日刊ミヤガワ 1210号    2007.4.25
「写真」

 しかしプレジデントファミリーに掲載されている写真は情けない。吾が顔ながらそこに一片の知性も鋭角的な思索姿勢の雰囲気も感じられない。特集トップにしてくれている編集部の好意はこれを諒とするものの、何回見ても情けない。一日置いて眺めても二日置いて眺めても、その気持は変わらない。これが何年か経って見たら、気分も変わるものかと、そんな実験をしてみたくなった。
 撮影の時に最後立ち上がって幾分ノリノリふざけ気味だったのが掲載されている。そういうものなのだろう。
 読んだ親たちからの評判はいい。善人に見えますと云う。これは厳密には褒め言葉ではないが。家族で笑いましたという感想もある。この方がまだ幾許かの慰めにはなる。
 顔がでかい。でかい顔して、という俗語の批判的言辞はボクに関してはそのまま身体的にも該当する。更に云えば頭が大きいということになる。その割りに足などは細いのだ。よく親たちは子どもの頃に頭と体のバランスが悪くて転んでばかりいたと云っていた。そのまま身長でも伸びてくれれば全体に均整は取れたのだが、中三で止まった。その頃写真を見ては物差しで何頭身か測ったものだ。撮る人のアングルによるが、四頭身の時もあった。思春期の幾夜かそれが元で悶々としたこともある。
 髪を伸ばし、頭全体を覆うようにすると髪の多さが頭の実体を隠す。これは今に続く、基本的な隠蔽工作表現になっている。東洋は頭の大きさを尊ぶのが歴史の倣いである。過去の偉人などその顔や頭の大きさを強調するように顎鬚すら伸ばしていた。それが胸まで来ると、二頭身になる。妖怪などを手長足長と呼んで気味悪がったのは、その根底にスラリとした西洋的ギリシャ的身体とは違う基準があったからだ。
 何か言い訳を歴史に求めているようで書きつつ卑小さを感じているが、やはり身体コンプレックス問題は人を長い間呪縛するものだ。それには素直でありたい。
 髪がその日に限ってクリームを大量につけていたせいでほぼ後退している。一部が波打っている。これはまるで一面を強調するために変形させている北斎の絵のようなもの。
 そのために折角長いときをかけて醸成してきた長髪隠蔽工作が吹き飛んで、露わになっている。しかもだ。ここは肝心だが満面で笑っている。ボクは笑うとしまりがなくなる。目がなくなりささやかな一本の溝になる。できの悪い福笑いのようになる。
 厳しく風雪に耐えるように苦味がいいと思っている路線が、一気にひっくり返される。
 寺院や各宗教団体系の雑誌取材ではよく笑えと云われる。笑顔を好むのだ。時事系は厳しいほどいい。経済界は隙のない真面目そうがいい。教育は善人系でどうせたいしたことはできないだろうと油断させる風がいい。そんなことをよく云われてきた。
 記事文章はいい。構成もいい。写真は恥ずかしい。しかしこれを読んだという読者から電話が多い。しかもボクとわかると何か和みの鼓動が伝わってくる。きっとたいしたことない奴と思っているに違いない。
 最近大きめの黒縁メガネを意識して掛けている。ルーペメガネも首から下げている。作務衣と羽織にした。朝のシャンプー後のドライヤーを天辺から頭を下げてするようになった。ふさふさが戻ってきている。これはこの写真を見た翌朝からの習慣になった。
 しかし、「この顔ヒデーなー」と照れ隠しもあって先んじて云うのだが、「いや、こんなもんだよ」と何人かは平然とした顔で、何を云ってるのとの文を表情に描くように返答する。
 そうか、ボクは案外こんな程度の顔で日々笑って過していることもあるんだと、これはこれで妙に納得がある。
 自分の想定している顔と他者の認識している顔とは当然ギャップがある。書斎机の上の鏡を見る回数が最近増えている。自己の判断に容喙しないものが客観か。
 ラジオとか写真を載せたがらない単行本が増え始めているのをボクは受け容れなくてはならないか。

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