日刊ミヤガワ

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1月24日 架け橋

2007年01月24日 | Weblog
日刊ミヤガワ 1119号    2007.1.24
「架け橋」

 若い頃に半村良の作品を読みふけったことがある。この人は多分速筆の作家だったと思う。回転が速く、筆の速さが作品からビンビンに響いてきて心地よかった。
 大衆小説の枠内なのだろうが、初期の頃の作品の根底には悲哀があった。何の作品かは失念したが、場末の飲み屋のカップルが学生運動のデモに倣って「赤ちゃんできた」と声を上げて夜の街を二人で練り歩く場面など、ずっと脳裏に焼きついている。いろんな職を転々とした人らしい。そこで見聞した感覚が全作品の根にある。この階層、領域に注がれる目がいい。哀しい人たちを充分見てきた者だけが持つ言葉の奥の眼差しがささやかな波動になって作品を下支えしていた。
 多分全作品は読んだ。雑なものもあったし、中途半端もあった。受け狙いもあった。それも人間半村、作家半村を読む上では面白かった。長く生かしておきたい作家だった。こういう人は老境になってさらに昇華したものを書き上げてくれそうだった。作家は死ぬ時期を知らなくてはならない。
 狂言の「附子」を授業で扱っていた。さすがに生徒たちは虚構について思索を進めていく。幼い子達は「嘘」ということに思索を向ける。
 そんな作文の指導をしながらふと半村良の「闇の中の・・」シリーズを思い出していた。嘘部という古来よりの政治機関の話。その中で「嘘は虹の架け橋」というセリフがあったように記憶している。
 いい喩えだ。絶対的な力を認めていかないと嘘は成立しない。発しようという行為にもならないだろう。
 AとBを繋ごうということが架け橋としての嘘。これをもっと深化させよう。繋ぐべき必然はあるか。この場合、AかBが絶対的である必要がある。変えられないということがあれば、そこに虚が覗く。言葉はそれを埋めていくことになる。
 これは自分への見切りという絶対性でもありうる。ここまででしかない自分。その自分Aを熟知して、ありたい、見せたい、思わせたい自分Bに向かおうとする。見栄、ハッタリ、嘘。そう呼ばれる表現の作用はそこから生まれる。意識の投影、移動というべきもの。
 だから嘘にはいつも絶対存在がある。相手にも自分にも。それ故に悲哀が根底に厳存している。人を騙す、犯罪になる、虚言は信じられる輪の広さと質でプラスもマイナスも作り出す。時には国を変え、政策にもなり、公的表現そのものにもなる。
 虚と実とよく云われる。これは二元的なものなのだろうか。虚の起点にあるものが実か。虚の先にあるものか。根源にこの二つは溶け合い絡んで幹のようにのたうつ。要は受ける者の知性と感性なのだ。置換を宿命としていく言葉は常に完全ではありえない。その誤差の埋め方、その誤差という隙間の活かし方、埋められ方、活かされ方、誤解だのわからないだのはそういうことから生じていく。
 語るほど、言葉を尽くそうとするほど本意から離れていくことを感じたことはないだろうか。そんな時、言葉が少ないからとか表現が下手だからとか相手がわかろうとしないからと思いがちだ。
 しかし厳密にはそれが本当のところなのだ。当然なのではないか。だからそれを知って語り、知って受け止めていくことがいつも求められるということになる。
 根底の悲哀。人間の根幹を見据えていくことは言葉に頼りつつもそれに一喜一憂しない目を持つことになる。読解の基本はそこになくてはならない。
 言葉のやり取りや行き違いで揉めるなど愚者の愚行。だがそこにまた人の日常があるのも妙味があるのも事実だ。
 最近、妄語戒の真意が気になっている。

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