虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

1歳児さんと ブロック遊び 2

2013-05-26 18:53:16 | レゴ デュプロ ブロック

1歳児さんと ブロック遊び 1にこんな質問をいただきました。

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いつも惜しげもなくアイデアを公開してくださって、ありがとうございます。

最後の上から入れて横から出る仕組みはどのようになっているのでしょうか?
中にスロープを作ってみたら、結構大きくなってしまってこの写真のような

コンパクトなものにはなりませんでしたf(^_^;

(その代わりベルトコンベアのようになって工場ごっこをして遊ぶことが出来ました☆)

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<上から入れて横から出る仕組み>

作り方がわかりやすいように

色を変えて作り直しました。

上の2つのシンプルな形をつなぎます。

左の青いスロープを作って、隙間に置くだけです。

1歳児でも仕組みが探究しやすい形にしています。

 


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<上から入れて横から出る仕組み>を少しだけ改良して、

<ストッパーを引くと、下に落ちていく仕組み>も作ってみました。

これも1歳児が遊んでいて楽しく、どうなっているのか理解しやすい

シンプルさにしています。

作り方は、

の本体をさかさまにして、横から棒を出し入れする隙間を

残して、写真のように組み直します。

できあがりです。

穴にブロックをひとつ入れておきます。

棒を引っぱると、ブロックが下に落ちます。

幼い子にとって、不思議で面白い動きです。




「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 7

2013-05-26 06:42:16 | 教育論 読者の方からのQ&A

話がずいぶん脱線していたのですが、

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 3 の

2歳9ヶ月~3歳1ヶ月までの★くん、☆ちゃん、●くん、○ちゃんの

レッスンの様子の続きです。

 

●くんが最近のマイブームを再現したり、

線路の切り替えスイッチに感激したのをきっかけに、

ブロックで作った「2方向にビー玉が分かれて転がっていく」仕組みで遊んでいる間に、

他の子たちは同じ場を共有しながらも、別のものに興味を持って、

別の遊び方をしていました。

 

★くんは、↓の写真の中央のプラスチックのビー玉スロープが気になるようで、

それを手に持ったまま、積み木で道路を作っていました。

わたしが近づくと、オレンジ色の迷路のようなスロープを指でなぞりながら、

「これ何?これ何?」とたずねます。

わたしは「それは、ビー玉を転がして遊ぶものよ。★くん。ビー玉、転がしてみる?」

とたずねてから、★くんのすぐ近くにいる赤ちゃんの妹ちゃんに目を移して、

「でも、妹ちゃんが口に入れたら危ないかもね……」と言い足しました。

横合いから★くんのお母さんが、「家でも★がビー玉で遊びたがるんですけど、

下の子が口にしたらいけないんで触らせていないんですよ」とおっしゃいました。

 

そこで、

「★くん、向こうでピタゴラスイッチみたいにビー玉がころころ転がっていくの

作って遊ぼうか?」と誘って、お母さんと妹ちゃんから離れた場所にビー玉通路や

穴がある積み木を出してあげました。

★くんは知力がしっかりした語彙の豊富な子です。

内向的な性質で、他の子が興味を持っているものにすぐに関心を示すタイプではなく

自分の心が動いたひとつの事柄を深く探求したいタイプの子です。

自由に遊びを広げていくよりも、

自分の中に生じた目的に向かって、ちょっとしつこいかな、というほど

試行錯誤を繰り返すような遊びをします。

 

大人が遊びの手本を見せてあげる際に、

子どものそうした個性的な性質を把握していると、こちらの提案するものが、

子どもの中で眠っていた潜在的な力が表現されるようになっていったり、

自分のやり方にこだわりがちな子が他の人の提案を受け入れたり、

お互いに気持ちを共有しあってする遊びを楽しめるようになってきます。

 

 ●くんが喜んでいた

「もうちょっとでうまくいきそうだけど、知恵を絞らないと

なかなか上手くいかない課題」です。

●くんが最初に興味を抱いたオレンジ色のスロープを中心に、

少しだけ他のおもちゃも取り入れています。

 

子どもによったら、気持ちが移りやすく、

次から次へと新しいものに目がいく子もいるし、

ひとつのことに興味を持ちだすと、なかなか次に移れない子もいます。

●くんは気持ちを切り替えるのが苦手という短所と同時に

それと表裏一体でもある「ひとつの物事への探究心を持続し続けること」が

得意という長所があります。

また、遊び方の幅が少し狭いという短所と同時にそれと表裏一体でもある

「目的や課題をはっきりさせて、何かをやりとげるまで努力し、

推測したり、理由を考えたりすること」を好むという長所も持っています。

 

●くんは、ビー玉通路のある積み木をオレンジのスロープの中央部分に

設置するのですが、

ビー玉を転がすたびに、通路の落ちずに、片方の端から転がり出てしまうことが

不思議でならないようでした。

大人にすると、スロープの下部の穴からビー玉が落ちるのですから、

その下に通路を置くのがあたり前のように感じられるでしょうか、

2歳後半の子にすると、

まるでビー玉が意志を持って、脱走していくかのように見えもするのです。

でも、何度も何度も、繰り返しビー玉を転がしてみることで、

物の性質に対する理解が高まり、どうやったら問題を解決できるのか

自分で気づきます。

●くんは、この遊びに長い時間関わって、上手くいった時は、

全身で喜びを表していました。

こうしたビー玉スロープのおもちゃで遊ぶにしても、

積み木やブロックで遊ぶにしても、

大人が子どもに新しい遊びを提案したり、新しい形で頭を使う活動に誘ったりする時は、

その子の性質や長所と短所を感受しながら、

子どもの自発的で能動的な態度を引き出すように接するのが大事だと感じています。

もしそうしたことが難しいなら、

働きかける前に、見守ったり、待ったり、子どもの声によく耳を傾けるように

気をつけるだけでいいのかもしれません。

 

それには、子どもと過ごす場や時間がひとつの価値観で固定された

柔軟性のないものにならないよう、

気をつける必要があるのかもしれしれません。

 

次回に続きます。


「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 6

2013-05-25 17:28:40 | 教育論 読者の方からのQ&A

この記事のきっかけとなるコメントをくださった方から、

再度、コメントをいただきました。

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あやふやでしたね。未完成な親という単語は、コメントを書いた時に初めて出てきた言葉で、

僕の中でもまだぼんやりとしたものです。「未完成な親となる場」が正しいでしょうか。

人的環境としての未完成なのか、物的環境としての未完成なのか、

その両方なのかまだ不明確です。

ヒントとなったのは「楽園のつらい日々」と「千住家の教育白書」の2冊です。

両家は自力で自宅を作りましたが、その子供はみな各界で活躍してます。

僕は、NHK「正義のための授業をしよう」でハーバード大学生のほとんどが第一子と

聞いて、その理由をずっと考えてきましたが、「楽園のつらい日々」に

ヒントがあると感じました。

第一子は自分の意見が通ることが多い、親の教育システムが第一子では

未完成であるという2つの原因が考えられますが、ここでは後者を取り上げます。

この2冊の本からは「未完成」について2つの可能性が考えられます。

一つは住宅環境が未完成だったこと。もう1点は親が一から環境を作りあげる努力を

みせたことです。大工仕事という初めてのことを親がみせたことがポイントだった

可能性もありますが、僕は最後まで環境が未完成だったことが良い効果をもたらしたと

思います。しょせん素人が作った家だったから不備がでてきて、そのたびに親が

試行錯誤して「未完成な親」を子供にみせたのではないでしょうか。

つまり、目に見える環境が未完成であるゆえに、親も未完成であるという姿です。

「大人のための原っぱ」とも言えます。親が「原っぱ」をもってないのに、

子供に原っぱをみつけろ、というのは無理な話だと思います。子供は親を

真似しますから自力で原っぱをみつけれるようになるのでしょう。

家でなくてもよいですが、なにか目に見える、最後まで未完成な環境に親子で

暮らすのがよいのでしょうね。

以上を考えると、プレジデントファミリーには教育によい住宅が連載されてますが、

教育によい家とは物理的に未完成な家になります(笑)。

新築住宅でなく中古住宅を買い、それを10年単位で直しながら暮らしていくので

どうでしょう。中古住宅は、子供が汚してもそれほど気にしないので、

のびのびとした育児ができるという利点もあります。

未完成な教育システムについても一言。

これは歴史的に著名な数学者や音楽家の経歴を調べて気づきました。

スズキメソードは江藤俊哉(のだめカンタービレの江藤先生のモデル)を教えるために

できましたが、メソードとなってからは江藤俊哉を超えるヴァイオリン奏者は

出ていません。

小沢征爾は桐朋学園の第一期生であり斎藤秀雄に習いました。

斎藤指揮法は「たたき」を重視して確立されましたが、

その後、小沢征爾を超える指揮者は出ていません。

指揮者カラヤンはウィーン大学にて指揮を習いましたが、

ウィーンフィルの首席オーボエ奏者に指導を受けました。ゆえに彼独自の指揮法を

確立できました。

小さい頃に習い事という場に行くのは、未完成な親をみせれないという問題も

あるのでしょうかね。

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何度もすみません。

未完成な場に自分をおくことを許さない「大人の心の余裕の無さ」ですかね。

完成された場所・教材がより先進的と感じるのかもしれません。

DVDやIT活用教材はその最先端ですね。

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>「大人のための原っぱ」とも言えます。親が「原っぱ」をもってないのに、

>子供に原っぱをみつけろ、というのは無理な話だと思います。

>子供は親を真似しますから自力で原っぱをみつけれるようになるのでしょう。

 

その通りだなぁ、と思いました。

コメント主さんの言葉をお借りするとわが家も両親ともに、

「原っぱ」状態というか、未完成な親となる場の中で生活していた時期があります。

うちの子たちが小学生の頃です。

ダンナのリストラを機に、資金も知識もないまま自宅の一部で自営業を始めたのです。

その当時のことを記事にしています。

 

ファンシーショップの話

ファンシーショップの話 2

ファンシーショップの話 3

 

未完成な環境にあると、完成に向けて、いっぱい考えて、いっぱい努力して、

いっぱい失敗して、世間から評価されなかろうと、見っともなかろうと

どうにか生きていけるものだし、もともとたいしたことなければ失うものもないし、

それもまた遊びの連続のようで楽しいもの……という楽天的な心構えを

家族で共有できたな、と思います。

 

頼りになるのは自分の知恵や体力や精神力だけで、

未完成な環境とああでもない、こうでもない、と取っ組みあいながら過ごした日々は、

子どもたちの中に何でもゼロから創造してやろう、失敗なんか気にせず山があったら

登ってやろう、自分の力を人生でやりたいことに全力投球してやろうという

たくましさや創造的な問題解決能力やチャレンジ精神を養ってくれたように思います。

 

日常がこんな感じですから……↓ 

トラブル……トラブル……トラブル続き!知恵を絞ってかろうじて乗り越えました~!

トラブル……トラブル……トラブル続き!知恵を絞ってかろうじて乗り越えました~!2

 

いつも思うのですが、

子どもっていいことばかり、正しいことばかりでは育たないものです。

今、わたしがしているのも、未知の部分をたくさん残している

自分で考えて、自分で工夫して、問題が起こったら自分で解決して乗り越えて

いかなくちゃならない仕事なんですが、それを間近に見ることができるのは、

わが子たちにとって、いろんなことを考えたり、社会に関心を抱いたり、

自分の将来を思い描いたりする時の原動力となっているように思います。


「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 5

2013-05-25 12:34:39 | 教育論 読者の方からのQ&A

先に紹介した「遊園地」ではなく「原っぱ」の記事の中で、習い事について、

次のように書いている部分があります。

 

「……そうした人工的な場は当然、未完成さとかカオスからほど遠いものです。

時間の枠がありますし、することは決められてますし、場合によっては、

どういう気持ちで、どういう態度で参加すべきかまで暗黙のうちに

子どもに適応を求めてきます。」

もちろん、習い事の全てがそうだと言いたいわけでも、悪いものと決め付けたいわけでも

ありません。問題は、順番なのかもしれません。

子どもが自分の頭と身体で環境に働きかけて、そこに意味を作りだしていくことと、

あるがままの自分を自由に表現することが、まず先決で、

それらを満足に体験しないまま、外から与えられる色に染められたり、

枠にはめられたりすることは、どうなのかと思うのです。

 

本来なら、絵具と触れ合う体験も、活動のための水くみといった準備をする体験も

年上の子が創作活動をする様子を眺める体験もとてもすばらしいものになった

はずなのに、その空間と時間の価値観が固定されていたために

子ども中で育ちつつあるものを壊してしまうような体験になることがあります。


「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 4

2013-05-25 06:18:20 | 教育論 読者の方からのQ&A

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先に取り上げた内田樹氏の元の文章を息子に見せて意見を求めました。

というのも、数日前、息子が、「学校で勉強する意欲が削がれていく一番の原因は、

たいていどの先生も疲労してきっていて常時イライラしていることだったから、

先生の雑務の量を少し減らすだけでも勉強しやすい雰囲気が生まれるんじゃないかな?」

といった話をしていたのですが、学校の問題にはあまりにも多くのことが

絡まり合っているようで、話題にするのに気乗りしないわたしが、

あいまいに口を濁してしてそのままになっていたのです。

 

それが心にくすぶっていたので、

「この文章、どう思う?★が言ってたこと、大学のような場なら少しずつ改善可能

なのかもね。それがとても叶わないような風潮があっての文でしょうけどね」

とたずねました。

 

『内田樹の研究室』の「書類書くのはイヤだよう」という記事にさっと目を通した息子は、

「あ~わかる、わかる」とうなずいてから、

「最近、リスクを意識化する世界って文章を読んだんだけど……

それはインフルエンザについての話題だったんだけどさ。

この文(内田氏の文)を読むと、教育もリスクの問題でもあるんだなって感じたよ。

リスクを意識化する世界って、

もともと人は生産する側で何かを生み出す存在だったんだけど、

成長した社会では、何か新しい物を作りだすことで生じるリスクを負うよりも、

すでに作られているものを失うかもしれないリスクを避けるのに力を注ぐことになる

といったことが書かれていたんだ。

 

学校教育にしても、どっちがよりよい教育になるか、

生徒の成長によいものをもたらすか、といったことより、どっちが危ない道を

進むことになるか、というリスク回避の考えが主になっているんだろうな」

 

それを聞いたわたしは、ずいぶん前にいただいでずっと気になっていた

コメントが心に浮かびました。

雑誌を読んで「えっ」と思うという記事にいただいた次のようなコメントです。

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うなずきながら読みました。

うちの子は、算数の難問が大好きで、家では自分で最レベに嬉々として取り組んでいます。

学校では算数は退屈、計算テストはあっという間に終わるというので、

「終わった後は何してるの?」と聞くと、他の子がテストしている間の30分くらい、

学級文庫を読んでいいことになっているとのこと。

「でも同じ絵本ばかりで飽きた」というので、先生に連絡帳で「違う本を入れてもらえ

ませんか?少し難しい本や図鑑など」とお願いしましたが、

クラスの所有物だから一人のために変えることはできないとのお返事。

学級文庫の一番のヘビーユーザーのために1冊か2冊増やすだけでいいのに、

と納得いきません。できない子のためには工夫を色々されていますが、

できる子のための配慮はしない、というのが公立小学校の原則らしいです

(先生がそのようにおっしゃいました 涙)。

凹凸があっても、子供に合った方法で長所を伸ばす、という方針でやってくだされば

いいのにと思うのです。

もうすぐ、家庭訪問なので、先生に直接お話するチャンスです。

でも、どのように話を進めれば分かってもらえるか、悩んでいます。

なおみせんせい、先生との対話方法、アドバイスがあれば、教えてください。

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わたしは息子に、コメントの内容を簡単に説明してから、

「今の学校の問題は、親たちの要望が、もっともっと……と学校の先生に何かを求める

ことによって起こっているようにも感じているから、

コメントを記事で取り上げることはできなかったんだけど……。でも、同時に

この方のおっしゃっていることはよくわかるのよね。

こうした普通の声が、わが子への特別な対応を求めるモンスターペアレント的な

親の声として響くほどに、学校が四方からの多くの声に辟易しているのかと、

ちょっと気持ちが塞いだわ。★が言っていたように、先生の雑務が多すぎるというのは

あるんでしょうね。

それと、もし、ひとりの子を特別扱いしたら、後々、面倒なことになるかもしれないという

不安が大きいのかも。

お母さんが小学生の頃の読書の普及に熱心だった先生方なら、

こうした要望を、子どもの読書の幅が広がっていくこととして喜んで受け入れたでしょうし、

お母さんが先生の立場なら、そうした声がなくても、本を手にしている子たちにとって、

教室にある本が満足感をもたらしてくれているか、

さらなる読書への意欲を育てているかということは毎日のように気にかけているでしょうしね。

といっても、今、教師の職に就いている方々がこなしている仕事をする自信なんて

自分にはないけど。」

 

それを聞いた息子は、「読書の幅が広がって子どもの能力が伸びることは、

生産的で新しい価値が生み出されることにもつながるけれど、

そこでも、そうして教育によって何か作りだすより、リスク回避の考えが強いんだろうな。

先生の労働量が増えるとか、他の子や親から文句が出るとか、

もっと別の要望があるかもしれないとか、学校が想定している目標の枠からはずれるとか……。

内田樹先生が教育はなまものって書いていたけど、

今は教育をプロジェクトとして捉えている人が多いよね。

やっぱり教育はなまもので、人の人生に組み込まれた一部で、友だちとか人生観とかいった

ものと同じように、均一に与えて、均一の結果を得ようとすれば、

いろいろ問題が生じてくるんだと思うよ。

自然に友だちができるのはうれしくても、友だちプロジェクトで友だちを作りたいとは

思わないよね。

教育も人としての重要なものを担っているから、リスクを伴いながらも、

そこから創造される価値に目を向けていけるような余裕が、学校には必要なんだろうな」

 


1歳児さんと  ブロック遊び

2013-05-24 18:44:12 | レゴ デュプロ ブロック

1歳半の★ちゃんとのブロック遊びの様子です。

★ちゃんはブロックを重ねるのが楽しくてたまらなくて、

どんどん長いブロックの棒を作っていきます。

そこで、その棒がすっぽりはまる形の枠を作りました。

すると、とても楽しそうに何度もブロックを出したり入れたりしていました。

枠をさかさまに置いているのは、ブロック同士が

ひっつかないようにしています。

★ちゃんが、穴にブロックを入れて遊び始めたので、

枠にしていたブロックに少しだけ手を加えて、

上からブロックを入れると

手前の穴から出てくる仕組みを作りました。

 


「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 3

2013-05-24 14:43:31 | 教育論 読者の方からのQ&A

教室で乳幼児と過ごす時も、小学生と接する時も、

メインとなる価値観を大切にしながらも

価値観を固定しないようにすることが、遊びのフォーローにおいても

勉強の手助けにおいても大事だな、と感じています。

 

2歳9ヶ月~3歳1ヶ月までの

★くん、☆ちゃん、●くん、○ちゃんのといった

とても幼い子たちのレッスンを例に挙げて、説明させてくださいね。

 

3歳1ヶ月の●くんは、大のお寺好き。図鑑を開いて、弥勒菩薩や鳳凰の説明を

熱心にしてくれます。

そこで、積み木でお寺を作って、紙に描いた弥勒菩薩を飾ってあげると、

とても喜んで、「鳳凰がいるよ」と催促。

それでちょっと適当なのですが、鳳凰も描いて、飾れるように棒をつけてあげると

すごくうれしそうでした。

 

子どもってとても個性的で、好みも違えば、長所も短所も、

考えるプロセスも技能の学び方もそれぞれ違います。

3歳の子の積み木遊びだから、この積み方、こういう遊び方と固定せずに、

それぞれの「好き」を取り入れると、

いっしょにいるお友だちにしても、「●くん、ああいうもの好きなんだな」と

自分とは違う好みに対して興味が湧きますし、その子の関心の範囲も広がります。

 

大人が事前に用意できるどんなに洗練されたアイデアも、

今現在のその子の内面を占めているものより心に響くことはないはずです。

 

●くん、お寺の他にも、「おすもう」が今のブームらしくて、

何度もしこを踏むのを披露してくれました。 

この日、●くんが教室で気にかけていたのは、写真の切り替えスイッチ。

 

 「これなあに?これなあに?」と不思議がるので、「こっちの線路~あっちの線路~と

電車が行くよ」と切りかえの先に二つに分かれた線路を

取りつけてあげると、パァッと顔を輝かせて喜んでいました。

 

そこで、ブロックの板で、ビー玉を転がすとふたつの道に分かれて滑っていくように

してあげると興味しんしん。

そんな●くんを見て、『コんガらガっち どっちにすすむ?の本』

を読んであげたら喜ぶんじゃないかな、と感じました。

 

先に大人の側に既存の価値があって、それに添って子どもを導いていこうという

もくろみが幅をきかせていると、

「子どもがその時、興味を抱いたこと」を出発点にして、

遊びや学びを展開していくことはできません。

子どもは自分の興味に引っかかった時や自分の個性的な好みが外の世界と響きあった時に、

創造的に遊びを作りだすし、たくさんのことを学ぶのです。

 

それは幼い子だけに限ったことではないはずです。

内田樹氏が、ご自身のブログで、こんなことを書いておられました。

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日本の教育をダメにした根本はこの「シラバス」的なものの瀰漫にあると私は思っている。

シラバスというのは平たく言えば「授業計画」のことである。(略)

今年度の私の採点基準は「そのような知的な構えをとることが、

あなた自身の知的パフォーマンスを向上させるか?」という問いのかたちで立てられている。

もちろん、ひとりひとり構えは違う。

恭順で謙抑的になることで知的に向上する学生もいるし、反抗的で懐疑的になることで

知的に向上する学生もいるし、知識を詰め込むことで向上する学生もいるし、

詰め込みすぎた知識を『抜く』ことで向上する学生もいる。

そんなの人それぞれであるし、同一人物であっても春先と冬の終わりではこちらの着眼点が

がらりと変わることもある。(略)

教育研究というのは「なまもの」相手の商売である。どう展開するのか、予断を許さない。

日本の教育がここまでダメになった最大の理由はこの「教育は『なまもの』である」

という常識を教育関係者がみんな忘れてしまったことに起因している。

彼らが「工場生産」のメタファーに毒されて、適切なマニュアルに従って、

適切な練度を備えた教師が行えば、教育的アウトカムとして標準的な質の子どもたちが

「量産」できるはずだと考えたせいで、日本の子どもたちは「こんなふう」になってしまった。

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教育は「なまもの」という言葉、1歳の子の相手をしていても、

中学受験を目指している子の算数を見ていても、

もう大人の域にいる娘や息子と議論を交わす時にもしみじみと実感するものです。

「なまもの」相手に価値観を固定できないのは、確かですよね。

 

次回に続きます。


「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 2

2013-05-24 05:59:35 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

前回の記事では、タイトルとは別のテーマで書いた過去記事を一部に

紹介させてもらったので、

「未熟」はダメで「未完成」はいいの?

と何が言いたいのかさっぱりわからなくなった、という方がいらっしゃるかもしれません。

 

また、コメントをくださった方がイメージしておられる「未完成な親」というものと、

わたしが書こうとしていものとが一致しているとは限らないのに、

勝手に自分の考えを追っていて悪いのですが……。

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」というテーマは、

一度、言葉にして整理しておきたい内容なので、とにかくもう少し

この先を続けさせてくださいね。

 

教育環境として「未完成」である良さというのは、

どうのようなものでしょう?

 

以前、「遊園地」ではなく「原っぱ」

という記事の中で、哲学者の鷲田清一氏の次のような言葉を

取り上げたことがあります。

 

……遊園地のように、その空間の意味があらかじめ決まっているんじゃなしに、

自分たちが何かすることで空間の意味を作っていく。

そんなふうにルールや意味を自分たちで作っていかないと、

原っぱで遊べませんよね。そういう教育の場所というのが今なくなってきているんです。

「原っぱとしての遊びの場」がね。


教育環境が未完成であるとは、つまり「原っぱとしての遊び場」の機能が

残っている環境、

能動的に創造的に振舞うように子どもの潜在能力を刺激するような

余白がある場ということなのでしょう。

 

ある幼稚園の教諭をしている方が、

「最近の園児のほとんどが、欲しいものがあっても自分で開けて取りだそうとせずに、

先生、開けてみたら?と他人ごとのように言うのでびっくりする」とおっしゃっていたという

話を耳にしました。

わたしが出会う子たちにも、

自発性や能動性、「自分」という感覚が眠らされたまま

外から評価される能力だけを訓練によって伸ばされている子がよくいます。

 

特に自分の知恵を使うという点では、

考えるカラスのオープニング映像にあるように、

水面のえさを取りたいけど、くちばしが水に届かないからと、

石を投げ入れて、水位を上げていたカラスのような頭の使い方、

つまり、「自分が経験している出来事の中で、自分の頭を使う」という感性を

教育機関や家庭でスポイルされてしまっている子は

少なくない気がします。

 

「他人の指示に、素直に従う」ことは教えるけれど、

「自分の頭で考える」機会は少しも与えないという場が多いのです。

それなら、どうしたら子どもたちは自分の頭で考えるようになるのでしょう?

それには、大人たちが、原っぱとしての遊び場とか隙とか未完成さとか無駄といった

価値観で固定されていないものを

子どもの世界に残してあげる必要があるのかもしれません。

 

また、TEDでケン・ロビンソンが

「学校教育は創造性を殺してしまっている」というプレゼンで

語ったようなことを、

大人が意識の片隅にでも取り入れることも大切なのかも。

 

教育における創造性の価値を捉え直して、

創造性が生まれる土壌でもある未完成さを、悪として

教育環境から完全に排除してしまわない工夫がいるのでしょう。

工夫というより、大人の心の余裕といったものかも

しれませんが……。

 

 

 


「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 1

2013-05-23 19:40:56 | 教育論 読者の方からのQ&A

算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか

の記事に、(記事でコメントを取り上げたお返事としてなのですが)次のようなコメントをいただきました。

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草創期の学校の卒業生から世界的に活躍する人が出るのは、

価値観を固定しない教育をされてるからなのですね。

以前のエントリーとにおける

「未完成な親」や、大人が手を出さない「未完成な教育システムの塾」が、子供を伸ばす要因なのでしょうか。
逆に進学塾は、完成した教育でなければ子供が合格しませんから、長期に通うことは不適なのかもしれませんね。

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いただいたコメントにある「価値観を固定しない教育」や「未完成な親」というのものが、

(言葉の解釈が重要ではあるけれど)

わたしも子どもの知力と精神力と個性的な才能の伸びと大きく関わってくるんじゃないかと感じています。

コメントにある「子どもの近くにいる大人に必要な隙ってどんなもの?」とは、

リンク先の記事のことです。

 

この「未完成」という言葉に、???とクエスチョンマークがいっぱい

頭の中に浮かんだ方もおられると思います。

 

そこで、最近、教室で子どもと接した出来事を取り上げて、

「価値観を固定しないこと」や「未完成」であることの大切さ

について言葉にしてみたいと考えているのですが……

 

その前に親の接し方の未完成さや

子どもの可動領域に余白があることが、子どもの心と人生にもたらす価値について綴った

『自己肯定感は褒めると上がる?』という記事を

紹介させてください。

 (この記事の中で、未熟と未完成という言葉は異なる意味で使っています)

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ブログで自己肯定感の話を書くと、

「(自己肯定感を上げるには)もっと褒めるといいんでしょうか?」

という質問をいただくことが多々あります。

そのたびに、「褒める」というのとはちょっとちがうなぁ……と思いつつも

ひとことで、「これこれこういうことしたら上がるものですよ」とアドバイスできるものでもなく、

もやもやした思いをくすぶらせることがあります。

 

そこで、わたしが考える「自己肯定感」が上がると思われる接し方と、

「自己肯定感」が下がると思われる接し方について、言葉にして整理しておきたくなりました。

 

特に、子どもの自己肯定感を上げようと思って褒めているのに、「褒める」行為自体が、

子どもの自己肯定感を下げているように見えるケースについて

言語化できるといいな、と思っています。

 

3歳になりたての子らというのは、

「こういうことがしたいんだ。自分でやってやるんだ!」と

自分の動きを自分でコントロールしたい気持ちが持続しはじめるものの、

「何をどんな風にしたいのか」ということは後回しというか、

本人にするとどうでもいいことだったりします。

 

周囲にすると、一生懸命しているところ、口出しするのも何だけど、

「ちょっと紙の使い方もったいないんじゃない?」「新聞紙使って工作してごらん」なんて

あれこれ口出ししたくなる時です。

 

大人からちょっとあれこれ言われても、

それまで自分や自分のすることに自信が育ってきている子は、

大人のアドバイスもそこそこ聞きいれつつ、「大丈夫だよ。もうこれで、こうちゃく出来上がりだよ。」と

自分のしてきたことを否定しないでいいような切り返しで決着するものです。

お姉ちゃんから手厳しい追及を受けてもへっちゃらで、

ぼくが作っていたのは「○○!」と、おそらく、できあがってものを見て

後付けでひらめいた名前を自信満々に言います。

 

子どもの自己肯定感というのは、自分で自由にできる余白というか、

実際に動く場面でも、想像の世界においても、自分で動いて失敗してもOKという

可動領域がしっかり確保されているかどうかに

大きく関わっているように思うのです。

 

大人が子どもの領域へしょっちゅう侵入していたり、

逆に「子ども」という存在を特別視したりお客様扱いしたりして祭り上げて、

子どもの周りに地に足をつけている大人が存在しなくなったりすることも、

子どもが確かな自分を感じられなくなる、

つまり自分に自信を持てなくなる原因のひとつとなるのではないでしょうか。

 

大人のアドバイスに過剰反応し過ぎて激しいかんしゃくに発展してしまう子も、

即座に大人の指示に従って、「自分のそれまでしていたこともこれからしようとしていたこと」も帳消しにしてしまう子も、

「ママして~」とすること自体放棄してしまう子も、

ちょっとしたことをきっかけに自信や自分への信頼感が揺らぎやすい子なのかもしれません。

 

子どもはそうした揺らぎのなかで成長していきますから、

こういう反応をするから、自己肯定感が低いとか高いとか、気にかける必要はないのでしょう。

でも、

大人の関わり方の加減次第で、

日常の行為のひとつひとつが、

子どもを勇気づけ、自己肯定感を高めていくきっかけになることも事実だと思っています。

 

それは子どものすることなすことを「褒める」というのとは、異なります。

幼い子たちのすることは、たいていでたらめでめちゃくちゃですから、

大人が「褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思っていると、

心にないような嘘をつくことになるか、

子どもが一番自信満々でやった部分は無視して、

大人が言葉でコントロールしてそれなりの形にした部分だけ、「すごい、すごい」と褒めることに

なりかねません。

 

つまり、「自己肯定感を上げるために褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思って褒めているうちに、

褒め言葉が、大人の期待通りに子どもを動かすための

見えないニンジンになってしまうことが非常に多いのです。

 

「子どもの自己肯定感を高めるため」という名目で、子どもに何かできるようにさせようとあせっている時、

実は、周囲の人の評価を大人である自分が欲していて、

「もっと褒めてもらいたい」「もっと認めてもらいたい」という飢餓感が

その動機に取って変わらないか、

自分の心を見はっておくことが大切です。

 

 

以前、「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを管理したがるのでは?」という

辛口の記事を書いたことがあります。

子どもの自己肯定感の高低は、その記事で取りあげた内容と密接に関わっているように

捉えています。

↓「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを管理したがるのでは?」

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子  紀伊国屋書店
(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました。)

という著書の中で、「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。

思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても
とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。

思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、
対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。

思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から、
「大人のやり方」に変化を遂げることが
病の治癒につながるそうです。

「子どものやり方」というのは、「何でも自分の努力で解決する」というものです。

一方、「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と
考えられることです。

成績が上位になれない、という場合も、一人でさらに努力して自分を追い込んでいくのではなく、いろいろな人生があることを知って、
自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。


「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……大人になっていくということは、
他人に頼らず、自分で責任を持っていろんなことをこなせるようになることではないの?」
と感じた方がいらっしゃるかもしれません。

世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。
「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」という
単純なルールで成り立っているわけではないですよね。

すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、「秩序」によって安定するタイプが多いので、
「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というようなルール
で世の中が動いていないと不安になります。
そうしたタイプの人が、自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。そのパニックへの対処のひとつの形が
拒食症という病なのだそうです。

「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、
達成感と安心感が得られます。

思春期には、「自分の限界を知るということ」という
重要な課題があります。
努力すれば何でもできるようになるわけではない。がんばればみんながほめてくれるわけではない。運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。

その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、
大人になるための思春期の課題です。


「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」
という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。

大人になるということは、
「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」と
いう大人としての役割で考えることができるようになること
なのですね。

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、
拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、
ちょっと怖くなったことがありました。

子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、
まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。

機能不全の家庭に育った私も、
ひとりめの娘の子育てでは、大人になれていない心のまま
良かれと思って子どもの自尊心を蝕むようなことを
平気でしていました。

「子ども」の心のままで、
心の病を引き起こすような世界観のもとで子育てをしていると、
目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というような
安心できる秩序が守られている世界を
お金を払ってでも得ようとします。

それが教育産業が作り上げた
人工的な架空の世界であったとしても、
それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。

子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」
現実にはありえない考え方が
はびこりやすい場です。

なぜなら、「自分で努力はしたくないけれど、
コントロールして数値の確認をする作業だけをしていたい」と
いう本当は現実の世界で叶えられてはいけない
病特有の執拗な願いを
簡単に実現してしまうからです。

おまけに、教育産業の多くが、そうした親の考えを
正当化して、
さらに煽りがちです。
教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、
ビジネスだからしょうがない部分もあります。

利用する側が、親にとっての最優先課題はビジネスのそれと
重ならない場合が多いことを自覚することが
大切だと思います。


子どもの幸不幸は、
どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、
ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、「大人」になっている
親に育てられているかどうかで決まるように感じています。

子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、
大きく変わってくるのではないでしょうか?

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↑先の記事は自己肯定感について説明するために書いたものではありません。

わたしは子どもを外の評価の体系で測っては、数値で確認しながら育てていくことが、

自己肯定感が下がる原因と直にイコールで結ばれると考えているわけでもありません。

 けれども、そうした育て方に代表される

大人が自分の狭い世界観で自分が見たいものを子どもに投げかけて、

子どものある一面には関心をしめし、別の一面は(自分の価値観と合わないからという理由で)無視するような

育て方が、

自己肯定感を育む土壌の貧しさにつながるんじゃないかな、とは思っています。

 

ですから、毎日、子どもをシャワーをあびせるごとく褒めて育てたところで、親が子どものなかに見たいものを褒め、

認めたくないものを無視して褒めているとすれば、

そうした褒め言葉は親の価値観の押しつけでしかなく、

どこかで子どもを否定し阻害している行為ともつながりやすいと感じています。

 

次回は具体的なレッスンの話を例に挙げて書きますね。


番外  だーれが、殺したクックロビン?

2013-05-23 18:23:28 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

私が子どもの頃、パタリロというマンガの影響で
「だ~れが殺した クックロ~ビン~」と歌いながら
振り付けをつけて踊る友達が何人かいました。
このフレーズはいつも私の耳に残っていて、
あるひとつの事件を思い出さずにはいられなくなります。

それが起こる数ヶ月前から、
「ハト公害」と言う言葉が、激しい怒りを伴って世間を賑わせていたように思います。
私の住んでいた団地でも、

「ベランダに干したふとんにハトが糞をする」という理由で、
ハトを徹底的に排除しよう!!
という意見が飛び交っていました。私の両親も同様の理由で、ハトを嫌がっていました。

ところが、ベランダに出していた家具と隣のベランダとの境界にある隙間に、
ハトが巣をつくり
ヒナがすでに孵ってしまっているのに気づいた時、
ピィピィ鳴く愛らしい姿を前にして、
それらを殺すことまではできなかったようです。
そこで、家の中でまで小声になって、
「どうせ鳥のヒナなんて、すぐに飛べるようになる。あれらが巣立ったら、
あの隙間を埋めてしまおう」と相談していました。

ところがある日、近所からの通報があって、
家の中に乗り込んできた団地の世話役の方の手によって、
私と妹という幼い子どもの目の前で、ハトのヒナの首をへし折られる…
という残酷な出来事へと発展してしまったのです。

この団地の世話役の方は、
礼儀正しくまじめな会社員の方で、
2人の、私と妹より年下のお子さんの父親でもありました。
そうした方が、なぜ、
もしハトのヒナを処分するにしろ、そっと、見えない場所ですることができなかったのか?
なぜ 見せしめのように、ハトのヒナの首はへし折られたのか?
そこから感じた強い憎悪のエネルギーは
何であったのか?

私は何度か そのことについて考えたことがあります。

私の住んでいた団地というのは、
美しい桜の並木で有名な場所で、
毎年お花見シーズンには、テレビ局も訪れる場所でした。
そうした良い環境のイメージのおかげで土地は高騰し
団地に住んでいるものですら、
どこかで高級住宅街にすんでいるという特権意識を抱いて暮らしていました。
しかし桜と言うのは、一時期、目を楽しませてくれるけれど、
害虫も多く、害虫駆除の薬の散布や、毛虫の大量発生やらで、
常にストレスを生じさせる木でもありました。
それで、誰もが、桜に敵意すら抱いていたのですが、
それを表に表現する人はいませんでした。

当時、団地に住んでいる人と言うのは、四国、名古屋、沖縄…など
地方から来た人の寄せ集めでした。
ですから、当然、それぞれ、考え方も感じ方も違います。
しかし団地という、あまりにも密接した空間を共有しているため、
お互いに何か不満があっても、
それを口にする人もなければ、
ささいな口論というのも見かけたことはありませんでした。
しかし一見仲がよく、
会えばあいさつする間柄の中で、
お互いへの不満や憎悪は、多々存在していたようです。

田舎者の母は、近所の子にねだられれば、
ホットケーキやおやつを焼いて食べさせたりしていましたが、
食事前に甘いものを食べた…という理由で、
そのうちの子が外で立たされているのを見た時、
母に告げることもできず、
私は悲しくなって団地の陰で泣いていました。


私の住んでいる団地の向かい側の団地に
変質者とうわさされる男性が住んでいました。
年は20~30歳くらいの見るからにもっさりした外見の男性で
いつも近くの公園のブランコの近くにいたように
思います。
私自身が被害にあったわけではないので
あくまでもうわさなのですが、
何人かの幼女がブランコの後ろから抱きすくめられた…という
話をよく耳にしていました。

そこで私が公園に行くときや夕方の習い事に行くときは
近所の男の子をまるで護衛のように
あてがわれていた(?)記憶があります。
男の子と言うのは、2人いるんですが、ひとりは本当の仲良しで
小学校の高学年になるまで気持ちの通い合う子だったんですが、
もうひとりは少し年上の苦手な子…。
親同士の気遣いが重かったです。

今の時代なら、近所の人がそんな事件を起したとなれば、
住民同士で団結して追い出しにかかると思うのです。
ですがその時代は、
いつもその男性を警戒しながらも
誰も何も言い出せずにいました。

また そんな折、
近所の年上の女の子のお父さんが
近くの路上に車を止めていた男性に殺害されるという
痛ましい事件がありました。
そのお父さんはごく普通のサラリーマンで
また殺害した男性もごく一般的な男性だったと記憶しています。
殺害の理由は おそらく誤解で、とてもささいなものでした。
いつも車をいたずらされて腹を立てていた男性が
たまたま通りかかって車に触れてしまった
女の子の父親を刺してしまったようなのです。
(子どもの時に聞いた話なので正確なことはわかりません。)

あまりの突然のことに
事件前の口げんかひとつない住宅街のクリーンさと
事件後の何事もなかったかのような静かな(うわさに忙しい人こそいましたが)
光景が
どこか異様な風景として記憶に刻まれています。

そんな中で いつも悪口を言われ 憎まれ 毛嫌いされ
何とかしよう!という住民の話し合いの対象となっているのは
農薬の匂いでも 近所の人の嫌なところでも 変質者でも
女の子の父親を奪っていった殺人者でもありませんでした。

ハト!
ハト!
ハト!
ハト!

団地の人々は、ハトに怒ってました。
ハトをののしり、憎み、いつも何とかして駆除しなければと
頭を悩ませていました。

ハト!

そんなある日、
2羽の小さなハトは、首を、ふつうの人の手で、
へし折られたのでした。
それを残虐だと感じる人は、いないかのようでした。 
子どもの目の前で、そうした行為に走ることを
とがめる人もありませんでした。

その後も平和で、
会えばみなにこやかに挨拶する
団地暮らしは続きました。

しばらくして
「だ~れが殺したクックロ~ビン~」という歌が
友達の間ではやりはじめた時
私は何度も
プラン~と垂れた小さな首のことを思い出しました。