虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 7

2011-10-24 03:27:34 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

今回、話はじめた話題は、どれだけ話しても話足りないような気がして、

わたしと息子は食事のたびにこの話題をぶりかえして、話続けていました。

わたしが、

「これから★(息子)も含めて若者同士、どのような行動を取っていくのがいいと考えているの?」

とたずねると、息子からは次のような返事が返ってきました。

 

息子 「人を個人攻撃することから、そうした問題を引き起こしている構造そのものの

問題点を暴いて、改善してくっていう

態度の変換をしていく必要があるのかな?

 

ほら、政治にしても、あいつがこんな政策を取ったせいで、こんなことになった~とか、

あの事故の原因となる決定をしたのは、誰々だったなんて、

政治家への個人攻撃に終始して、毎回首をすげかえてくばかりになっているよね。

でも、そういう人がそういう政治を取るような社会構造自体の問題自体が

攻撃されて、より良い形に変わっていく流れにはなりにくい。

ぼくは、もっと構造に着目して、

どうあるべきか本気で考えたり、話しあったりすべきなんだと思う。

 

人々の怒りが『構造』にではなく、個人的な『人』に向かっている

今の状態が、どんなに多くの人の不満が高まっても、

それが新しい変革を生み出すほどの強いものであっても、

攻撃された人が新しくなると、集結していた集団の力が弱まる理由だと

思っているんだ。

たとえば、絵の世界で、くだらない絵描きが評価されていることに怒っている人々がいたとして、

そこであいつが絵を描くから悪いって攻撃するんじゃなくて、

もっと問題となっている構造に訴えかける必要があると思うんだよ。

人間に対して攻撃するよりも、

構造に対して攻撃することは

本気で頭を使っていかなければならない難しいことだけどさ」

 

母 「構造に訴えかけるの?

確かに人を攻撃する場合、その人が消えたとたん、

問題が消えたように錯覚してしまうわよね」

 

息子 「不満や怒りが高まっているときに、ひとりの人にそれをかぶせて

攻撃したい気持ちを抑えて、

冷静に、困った事態を生じさせている根本的な問題や、

そうした人にそういう言動を取らせている構造の欠陥を

暴いていく必要があると思うよ。

 

それと、個人個人の意識の原因で、こじらせている問題について

もっと意識的になった方がいいんだと思う。

 

安定した状況を求め過ぎていて、

すでに安定しているのに、

かえってその安定を崩しているんじゃないかって視点で

物事を捉えなおすとかさ。

 

たとえば、普段の暮らしで、風邪ひいたり、小さな怪我をしたりしながらも

元気な日がたくさんあるって状態は、

そうした負の状況も含めてそのまま安定しているって言えると思う。

そこで、風邪や怪我を一切しない状態を安定だと

信じてしまうと、存在しない安定のために、

何か起こることを恐れすぎたり、予防のせいで別の問題が生じたり、

小さなことが起こっただけで暴走して潰れてしまったりすることになると思う。

負の部分の余白を残して、

安定している状態だと捉えるだけで、解決する問題は多いんじゃないかな。

 

それとか、大人たちの仕事に対する

『働く側は辛くて当たり前で、

客はどんなに横暴な態度を取っても許されるって』意識を

少し変えていくことでも、

社会が抱えている問題がずいぶん救われるのかもしれない」

 

母 「お母さんも、その

『働く側は辛くて当たり前で、

客はどんなに横暴な態度を取っても許されるって』意識変わると、

よくなると思える場面がたくさんあるわ。

たとえば、モンスターペアレンツ……同じ母親の立場として、

いつも引っかかってるから、やたらこの言葉を使っちゃうけど……

の問題にしても、

わたしの側が客で教師は働く側だから、

わたしはどんな横暴な要求を突き付けても許されるし、

教師側は働いている側で教育という商品を提供しているんだから

理不尽な要求に苦しんでも当たり前だ、って

社会のあらゆる場で通用している関係の枠を学校にも

かぶせる人がいてもおかしくないのよね」

 

息子 「社会で過剰に行き過ぎたサービスが当たり前になっているから、

そこで勘違いしちゃう人も多いんだろうね。

一見、客のマナーが悪くて、売る側側が良すぎるように見えるけど、

現実には客側も客側で売る側に騙されている面もたくさんあるんだろうな。

 

それには、客にすれば、何となくこっちの方がいいかなっていう

感情や感覚で捉える微妙な違いにも関わらず、

売る側にすると死活問題だってことが大きく関わってるんじゃないかな。

過剰すぎるサービスだろうと何だろうと

一点でも競合相手に勝って、客に媚びていかなくちゃならないだろうから」

 

 

 


「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 6

2011-10-23 19:39:44 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

息子  「あの時代はノーベルが作った、あの時代にエジソンが生まれなかったら

今のような進歩はなかった……なんて、

ひとりの偉人の業績にばかりスポットライトが当たることがあるよね。

でも、ぼくはそうした何か大きな偉業がなされる背景には、その時代のひとりひとりが関わっている

ように感じるよ。

個人の才能の開花というものだけでなく、

そうしたすばらしいものを生み出すような市民に浸透する文化や

文学や、啓蒙をうながす思想なんかが、

背後にあったんだと思うんだ。

最近のマンガは面白くないって友だちとよくぼやくんだけど、

いろいろ調べてみると、漫画家が悪いというより、

商業主義が行き過ぎて、マンガ家が本当に自分の作りたいものが作れていない、

自由な表現活動が約束されていないって事情があるようだしね。

小説にしても、いい本を1冊読もうと思ったら数千冊のなかから選ぶような流れになる

物が溢れている今となると、本の相対価値が下がる一方でさ。

今後は、読む楽しみより書く楽しみにシフトしていくのかな

なんて思っちゃうよ」

 

母 「ほんとに、そうよね」

 

息子 「うん。ぼくがもっと読める本の冊数自体が少なかった時代は、

もう少し物語が楽しめたんじゃないかと思う理由はさ、

読む量が少なかったら、そこには自分自身で想像したり、

物語の先を自分の想像で作っていく楽しみがあったように感じるからなんだ。

 

今のように過剰に何でもある状態だと、

読み終わると同時に次はこれ、次はこれって

手をつけていない物にせかされるような心境でさ。

物語にじっくりなじめないよ」

 

母 「そうよね。話が逸れて悪いけど……。

お母さんは、ゆとり教育推進派でも何でもないんだけど、

でも、あまりにも安易に激しく『ゆとり』って言葉が攻撃されているせいで、

子どもには一方的に詰め込む以外の時間だって貴重なんだってことや、

子どもが自分自身の内発的な動機でイメージの世界で遊んだり、

自分の考えを追いかけたりする時間だって必要なんだってことが、

語ることさえタブーとなっているような雰囲気には不満を持っているのよ。

 

だって、土曜が休みになって、子どもが頭に何かを詰め込まれていない

時間ができたところで、その子の脳は休業中の機械みたいに

休止してるわけじゃないじゃない?

自分で見て、考えて、想像もしているわけよね。

もちろん、それがいいかどうかという白黒つけたいわけじゃないの。

ただ多くの人がいっせいに何かを攻撃しはじめたとたん、

攻撃しているものの中にある良い物まで根こそぎつぶしてしまうから、

気にかかるんだけど」

 

息子 「そうだよね。どんなものだって、一度支持されていたからには、

そこに良い物もあったはずだから。

それが何割なのか、どういう質のものなのかは別にして、反対派の意見だからって

全否定してしまうと、そこから得ていたはずのものを、みんなが失うことになるのは確かだ。

 

意見を言う時、攻撃的になる人は、

どうしても自己矛盾を抱えがちに見えるよ。

例えば、もっとお金使って遊んで経済を盛り上げていかなくちゃと言う一方で、

ゆとりは敵だ、子どもはもっと勉強しろ、下の者は上の指示に一切逆らわずに働け、

と言ってたりね。自分の生き方と言動がちぐはぐだったり。

 

教育の世界で攻撃的な意見が飛び交っている場合、

たいてい学校を社会訓練の場所と設定して、

子どもに高い理想を押し付けているけど、

そこからは大人自身も成長すべきもので、

教育を通していかに大人が自分を高めていくかという視点が見えてこないよ。

 

大人の側も、子どもの世界にある文化……お母さんだったら、それに触れるのは児童文学にあたるんだろうけど

……子どもに対する理解を深める方法をいろいろ

模索する必要があるんじゃないかな?

 

知的なものを正しく測定するのは難しいものだよ。

それは誰もがわかっているはずだけど。

成績を比べれば、子どもの全てがわかるような錯覚を捨てて、

大人同士が、子どもに対してどのような知的なものを伝承していくかってことや、

教育の質について語り合う必要があるんじゃないかな」

 

 

 

 

 

 

 

 


日常の体験 と 学習 1

2011-10-23 13:10:00 | 通常レッスン

日常の体験に豊かさがあると、

自然にしっかりと考えるようになります。

でも、「どうしたら日常の体験が豊かになるのかわからない……難しいです」という

声もたびたび耳にします。

そこで、年中さんと年長さんのレッスンのひとこまから、

ヒントになるシーンをいくつか紹介させていただきますね。

 

生活のどんなことも学習です。

子どもは、ちょっと目新しいことには、すぐに飛びついて

やりたがるものですよね。

↑は鳥の餌を準備しているところです。

入れるときに、傾け方や注ぎ口にする位置によって

こぼれやすかったり、うまく餌が出てこなかったりします。

こぼれた餌を拾いながら、「これ、ムギ?」とたずねていた子がいました。

鳥の餌はどこでどうやって取ってくるんだろう?

鳥の餌の1つぶの重さは?

さまざまな疑問が湧きました。

 

人気のザリガニのザリ子さん。

教室で飼うようになって1年以上経ちました。

最近、水草についていたタニシが大量発生し、

タニシと人気を二分しています。

タニシって、見れば見るほど不思議な生き物なのです。

「中身の身体が大きくなると、貝まで大きくなるの?」

「どうして浮かぶの?(ザリガニの餌を浮き袋のようにして、水に浮いている

タニシが不思議です)」

「タニシは何を食べているの?」

「タニシって触角があるけど、後は何があるの?目?口?」

「卵から生まれるとき、どんな風なの?」

子どもたちの間から謎が次々生まれますが、

わたしもよくわからないことが多いです。

グループのひとりの子が小学校受験に合格したので、

ままごとで合格のお祝いのパーティーをしました。

「おめでとう」とうそっこのプレゼントを渡しました。

パーティーの準備をしているとき、3つのグラスを友だちの前においていた子が、

「あっ、奈緒美先生のコップがないわ」と言って、

もうひとつグラスを探しにきました。

この子がかなり年上のお兄ちゃんがきょうだいにいる子で

いろいろなことによく気づく子です。

でも、そのグラスはもともと3つしかなかったのです。

そこで、紙コップを渡して、「先生のはこれにしてね」と言うと、その子は少し

考えてから、「だったら、わたしが紙コップでいいわ。先生、このコップを使ってね」と

自分のグラスを差し出してくれました。

それを見ていたお友だちふたりは

ニコニコしながら、そうすればいいのか~と感心した様子で

その子の行動を眺めていました。

お友だちの言動からも、いろいろと学ぶことがあるようです。

 


「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 5

2011-10-22 23:14:44 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

母  「若者文化は今どんな風になっているのか

さっぱりわからないわ。大人の世代から若者たちへの真摯なメッセージとして、

クリエイティブで心のこもった作品が贈られているのか、

若い人の間で育ってきたものが大事に守られているのか……」

 

息子 「マンガにしてもゲームにしても、本当に質のいいものはあるよ。

きれいごとではなしに、ひとりひとりが生きる意味や

これから作っていきたい社会について真剣に考えて

お互いに意見を交換しあっていくような……。

でも、そういういいものにみんなが出会えるわけじゃない。

ゲームにしてもFREEで質の悪いものが出回っているよね。

商品から小説にいたるまで、

お金を持っていのに

よりくだらない買わせる努力が必要がないようなレベルの

商品価値の低いもので育っているのが

子どもの世界の現状だよ」

 

母 「そうしたものは子どもたちの考えや心を作っていく土壌に

なるものだし……それはひどい文化ね。

そういえば、今は子どもの世界の文化が本当に大事にされていない。

若者の文化も含むけど。

長年、児童書の担当をしている司書の方が、広くて新しくて設備のいい

図書館で、絵本の量が増えたのはいいけれど、大量の絵本のなかから良い物を選び出す難しさがあって、

かえって本当に子どもの心に響くような作品に出会える子が減ってきたと嘆いていたのを

思いだしたわ」

 

息子 「大人が若い世代の成長を本当に願うなら、

ある種の娯楽の文化的な側面に

もっと寄りそう必要があると思うよ。

たとえば映画やゲームで若者世代を感動させる作品は、

壮大なファンタジーや世界史の事実や科学や哲学の重要なテーマが

下地になって作られているものだよ。

ファンが意見を交わしあう場が

ただ面白かった~あそこは難しかった~感動した~で

終わらないためには、そこに教えるという立場ではなく

新しい切り口を与えたり、より深い理解からくる感想を出したり

する大人の存在も必要なんだ。

自分たちの理解を超えるような知的な意見が混在しているからこそ、

そうした話あいの場が刺激的で面白いってことがあるからね。

 

世間一般じゃ、子どもの世界の文化とか教養の

敷居をあげすぎているように見えるよ。

世界遺産とか特殊な芸術とか、そんな風に見物するものだけが

文化みたいじゃん。

おにごっこレベルの間口が広くて

誰でも参加できるような文化に、もっと豊かさが必要なんだよ。

マンガの手軽さのなかに本物を育てる気持ちがいるんだよ。

商業主義で、クリエイティブな職のスペースを荒らさない工夫も含めてね」

 

母 「そうよね。テレビでくだらない番組しか流れなくなってから、

そうした質に関する感性が鈍っていた気がするわ。

はっきりわかる高尚な文化や教養に関しては、子どもにいいものを与えなきゃ……

って気持ちがあるのを感じるけど、

実際、子どもたちが自分と重ねて考える土台を作っていくものに関しては、

誰も関心を持たなくなったよう……昔はアニメなんかもね、

世界名作劇場に出てくる主人公にしても、

等身大の子どもの心と重なるような言動をしていたものよ。それに自分を投影して

いろんな想像を楽しんだものだから。

子どもの心を『市場』にしてしまったあたりから、子どもと大人のボタンの掛けちがいが起こってきているのね」

 

 

 

 


「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 4

2011-10-22 13:28:01 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

私は息子に次のようにたずねてみました。

「内田樹先生は、若者たちは連帯の作法を失っているとおっしゃっているけど、

それを取り戻していくための具体的な方法はあると思う?」

 

息子 「うーん、そうだな。難しいことなんだろうけど……案外、

小説とかマンガとか映画とかゲームといった若者文化って呼ばれているものが、

唯一の救いのように、そうした役割を果たしていると思うよ。

 

今の社会構造は私利私欲に走る人が多いほど、社会情勢がうまくいく

ような面があるから、そうした文化的なものから得る生きがいのようなものからしか、

人が変わっていけないところがあるんじゃないかな。

 

教育は内田樹氏の言うように、ゆがんだ社会構造を守るために

利用されているからね。

といっても、本当にそれが自分たちが教育されてきたものや

社会で刷り込まれてきた私利私欲に走る考えを浄化して、

互いに連帯して何かを作っていこうってところまで行くには、

もう少し、大人と呼ばれる層もそうしたぼくたちを取り巻いている文化に関心を持って、

それを通して本気で語り合っていくといったことが必要なんじゃないかな。

 

若者とひとくくりにして、遠巻きに眺めているだけじゃ、

どんなことを考えているのか、

どんな夢を描いているのか、何に不安を感じ、何を面白いと思い、

どんなときに真剣になれるのか、どこでどんなつながりが生まれているのかなんて

わからないんじゃないかな。

ネットで暴言を吐いているように見える人々も、結局は後ろにいるのは

生身の人間なんだよ。

 

物語や、ゲームや映画の下地になっているファンタジーは、

ずっと生きる意味を扱ってきたことで評価されているのだろうけど、

これからは、もっともっとその真価と、人と人の心をつなぐ力が

見直されていってもいいんだと思う。

遊ぶだけ見るだけで自己完結して、

しまうのは、多くの人が、文化は学ぶものではなくて

自分たちで作りあげていくものだということを忘れているからじゃないかな?」

 

母 「文化? そうね。あんまり考えたことがなかったけれど、

お母さんも子ども時代、まるで人生とか世界の全てを結晶にしたような

児童文学の作品や絵本に触れるなかで、自分より先に生きている世代から

愛され大切にされていることを感じとったものよ。

ファージョンの童話やマリアグリーペの書く物語は、

人生の真実に気づかせてくれた。『ムギと王様』なんて暗唱するほど

繰り返し読んだから。

本気で生きている大人はどんなことを考えているのか、

この人は自分に大切な何を伝えようとしているのか、

そうしたものを子どもは驚くほど正確に受け取る力が

あるから。

そうね、そうした文化の継承は読んで終わりではなかったわね。

私のなかで、さまざまな考えや夢とか

能動的なものが渦巻いていたわ。あれは読んだのではなく、自分で自分の

文化を作っていく体験だったのね」

 

息子 「たとえば、数学なんかにしても、解くもんじゃなくて、

自分で作りあげていくものなんだよね。

数学で何ができるのかっていう

創造的な素材として

数学と付き合ったら、それだけで人間のいろんなことが

見えてくるんだよ。

 

文化も同じで、

文化って見物したり、保管するものじゃなくて、

自分たちが日常のなかで作っていくものでさ、

身近な自分たちの生きる営みから

自然に形作られていくものだから、

文化にフォーカスすることで、それまで気付かなかった

さまざまな価値が発見できるし、生じてくるんだと思う。

ある種、ネットの発達で、新しい文化があちこちで作られていて、

まだマイナーな人同士の楽しみで終わっているけど、

それが今の日本人の不幸で苦しいって状況の一部を、

解決してくれるのかもしれない。

 

でも、そのためには、一度、

今は経済的に苦しいから、もっとお金をもうけて、もっと競争力をつけて、

もっと評価される存在になって、もっと成功して、世界との戦いで勝ち残らねばならない

って強迫観念を、脇に置いてみないとダメなんじゃないかな。

 

そうしないと、シンプルに人と出会って、相手のことを思いやるとか、

いっしょに楽しむなんてできないから。

いっしょに文化を創造している仲間だって認め合うとか、

他人を助ける喜びを感じるとかは、

そうしたシンプルな関係の上にしか築けないからね」

 

 


「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 3

2011-10-22 07:01:47 | 教育論 読者の方からのQ&A

東大パパさんが、

東大生の就職先が無い

という記事のなかで書いていらっしゃる

「東大生の就職先がこの10年ほど迷走し続けている」

という現実は、

東大出の子たちといわず、

日本の豊かで平等な社会で

ひとりっ子ふたりっ子として大切に育てられている子たちが、

社会に出るときにみな一様に、

「方向喪失感」「仕事に対する夢のなさ」「流行の甘い言葉に乗せられて仕事を選ぶことへの懐疑心」

といったものにぶつかっているのかもしれません。

 

 こうした若者の心が直面する現実を思うとき、

今、ゆとり教育批判から脱ゆとり教育に変換するために

「もっと子どもに競争力をつけなければ日本の将来が危ない」

「勉強して受験勉強を勝ち抜いていける子にしなくては……」と

勉強さえすれば日本経済を蘇らせていく戦力となれるのだという煽りは、

「その通り!」と心から納得してがんばる気持ちになれない

嘘っぽさを感じるのです。

 

「それならどうして必死で受験勉強を勝ち抜いてきた東大生たちのなかに

働いて経済を引っ張っていくというより、

就職することや

3年、仕事を続けることに

挫折している子たちがいるの……?」

という素朴な疑問。

 

「子どもに受験でがんばらせて競争力をつけたら、必ず日本の経済にプラスになる」という

考え方自体が、もともと間違っているんじゃないの?

それも一理あるとしても、

重要な何かが欠けているんじゃないの?

と思えてくるのです。

 

そんな疑問を抱きながら

先に紹介した内田樹氏の記事を読んで、

「現代の子どもを育てる親も子ども自身も

社会や学校教育が率先して子どもたちや子を育てている親に刷り込んできた思想に

嗜癖しているのかな?」

と感じました。

 

その思想というのは、内田樹氏の言葉を借りると、

「値的に示される外形的な格付け基準に基づいて、ひとに報償を与えたり、

処罰を加えたりすれば、すべての人間は報償を求め、

処罰を恐れてその潜在能力を最大化するであろうというきわめて一面的な人間観」

「能力がなく、努力もしていない人間は(老人であれ若者であれ)低い格付けをされるのは当たり前だ」

という考え方です。

 

つまり能力主義信仰。

 

学校が集団を自分たちの思うように方向づけるために

子どもたちに手を変え品を変え叩きこんできた思想で、

その使い勝手の良さから大多数の人がそれに対して疑問を差し挟まずにきた思想。

 

「成功した者には、社会下層にとどまっている仲間を救う義務は発生しない」

「能力のある人間が抜擢され、無能な人間が冷遇されるのは当たり前」という考え方です。

 

内田樹氏はブログに次のように書いておられます。

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それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。
彼らが教え込まれたのは「能力のあるもの、

努力をしたものはそれにふさわしい報酬を受け取る権利がある。能力のないもの、

努力を怠ったものはそれにふさわしい罰を受けるべきである」という「人参と鞭」の教育戦略です。

(略)

世代間の不平等については激しい発言をする若者たちも、

同世代間に発生している格差については押し黙っている。

それは能力主義的な思想が彼らに深く内面化しているからです。

若者たちは資源配分のアンフェアに怒っているのではなく、

「(それなりの能力をもつ)私に対する評価がフェアではない」という点について怒っているわけです。

だから「能力のある人間が抜擢され、無能な人間が冷遇されるのは当たり前」

という格差を生み出す発想そのものには異議を唱えていない。

                    『内田樹の研究室』

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あるとき、息子が、

「若者批判って大昔からあるんだろうけど、今の若者に対する批判を目にすると、

これって同族嫌悪なんじゃないかなって感じるよ。

だって、今の若者は……に続く言葉が、そのまんま今の大人と呼ばれる世代の問題とも重なるし、

人間全体の問題にも見えるからね。

若者って言葉のなかに、無理矢理、閉じ込めてしまっているけど、

結局は現在の社会構造そのものの欠点を若者の弱点の上に見ているんじゃないかな」

 

母 「確かに、モンスターペアレンツなんて言葉がはやっているけど、

モンスター扱いされている世代は、ゆとり教育を受けているわけじゃないのよね。

まるでゆとり教育で大量の欠陥品が社会に放出されているように

言いきってしまう教育関係者は口をつつしまなきゃ。

今の世代の子は、17歳の子らの殺人が社会をにぎあわせていた頃のような

目立った犯罪は減っているわよね。

そうしたことを無視して、テストの順位だけで

ひとつの教育法を受けていた世代を無能扱いするのは、バランスが悪いわ」

 

息子 「同族嫌悪で子どもを通して自分の嫌な部分を見ているとしても

それはそれでいい面もあるのかもしれないよ。

若者に対する見方のなかで、社会構造の負の部分、

変えていかなければならない部分が

浮き彫りになってくるからね。

ぼくはこれからの時代は、昔の数学者のガウスのような生き方や働き方の哲学が

必要になってきているように思っているよ。

働いていくために、かつての哲学的な知恵を見直すことが大切になってきているんじゃないかな」

 

 


「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 2

2011-10-21 19:31:50 | 教育論 読者の方からのQ&A

昼食後にのんびりしていた息子に、

「★(息子)が指摘していた利益で誘導によって勉強や働くことを動機づけようとしている

という問題点について、とても深い視点から書いてあるわよ」と、

ブログの「内田樹の研究室」の『格差と若者の非活動性について』という

記事を読むように勧めました。

一通り目を通した息子は、内田樹氏の意見に共感した後で、

次のようなことを話ました。

 

息子 「ぼくたち若者と呼ばれる世代の大半が、

格差をなくすために過激な方法に頼らないのは、

社会から冷めてるだの、元気がないだの言われて当たってる面もあるだろうけど、

一方で、デモやストの無意味さや自虐的で破壊的な行為がそれほど良い結果をもたらさないことに

気づいているからでもあるんだ。

 

自虐的にではなく

まっとうな方法で社会を変えていこうと考えている人が多いはずだよ。

 

どうして若者はもっと行動しないのか、どうしてもっと怒らないのか、

と若い世代の非活動性に、『弱さ』を感じる前の世代もいるのかもしれない。

 

でも、そこで『強さ』と『弱さ』ってイメージの背後にあるものを冷静に

考えてみることも必要だと思うんだ。

団結して運動して、何かを攻撃したり破壊したりすることは、

傍から見れば自虐的な自殺行為で、経済をさらに停滞させるよ。

 

日本じゃ働かざるもの食うべからずって考えがあるし、

攻撃する前に社会の構造を正確に把握しようともせずに

自分の視点からだけで不満を

わめきちらす行為には、躊躇して踏み出せない人も多いはずだよ。

 

『弱さ』というのは、否定的な側面だけでなく、

正しさというか、躊躇すること、

熟考して動くこと、さまざまな物事への配慮といった肯定的な面もはらんでいるし、

『強さ』というのは、そこから受ける良いイメージとは裏腹に、

悪さやずるがしこさや弱者への鈍感さをはらんでもいるんじゃないかな。

 

強さを前面に押し出して、目的のために手段を選ばずで社会に訴えていこうとすると、

それぞれの行為に問題が絡んできて、その行為によって犠牲になったり

迷惑を被ったりする人がいるよね。

なかなか動かない現状にじれて、そうした他の立場からの視点を切り捨てて

過激なだけで解決すれば、

それはいつか、強引過ぎる最初とは異なる目的にすり替わっていくはずだよ。

 

社会や経済についてもぼくたちは、

騒げばいい騒げばいって構えている部外者じゃないはずでさ。

 

ひとつの電力会社を責め立てて終わっている原発の騒ぎとおんなじように、

自分を原発を利用したことからは無関係な安全な被害者か部外者の位置に置いて、

問題が自分の外にあると錯覚して攻撃していても、

進展はないと思うんだよ。

外である社会の問題でもあるけど、個人の内面の意識やこれまでの選択の問題でもあるんだから」

 

母 「そうよね。

不満から生まれる負のエネルギーで、よく考える時間や話し合う時間も作らずに

攻撃に向かうのはどうかと思うわ。

メディアもよくやっているけどね」

 

息子 「さっき言ってた『弱さ』の肯定的な面のことだけど、

弱く見えるものは、直観的な強い人間本来の良心のようなものとつながっている

と思うんだ。

内田樹氏は 他者への気づかい が 隣人への愛 が人間のパフォーマンスを最大化すると

いうことに日本社会が気づいていないという話で結んでいるけど、

 

若者って呼ばれている世代は、誰の役にも立たない

心を消耗するような行為はしたくない……

っていう道徳的な自分の心を汚すことへの嫌悪や疲れは

十二分に抱いていると思うよ。

 

他者への気づかい というのとは、少しちがうかもしれないけど。

 

それは働く意欲がなかったり、ニートになることとも関連があるんじゃないかな。

生産的でない他を攻撃することで成り立っているような仕事が増えすぎているからね。

それに対する本能的な嫌悪感が

働く意欲を削いでいるはずだよ。

 

広告のネガティブキャンペーンなんかを見ると、仕事が

ただ、いかに相手の会社を出し抜くか、相手を貶めて儲けるかで

回っているように見えてさ。

 

働くことに意味を感じないのって、自分の労働が、

単に他の企業との競争のなかに無意味に消えていくことに疑問を感じているのかもしれない。

たとえば、何年もかけて新技術を開発して発表するとして、

その仕事の価値は、翌年には他の会社に技術を真似されて終わりだし。

真剣な研究も、一年もたたない間に古い無価値なもののように扱われるよね。

そんな仕事の現状を見て、自分の命は他人のために役だっているのか、

自分が働いたところで、誰が救われるわけでもない、自分は本当に人間に役立つことをしているのか……

そんな風に、生きている意味や生きがいの消失にも

根ざしているものだと思うよ。

 

だからこそ、農業に憧れる若者たちもいるんだろうな。

確かに農業は、自分たちで作って、収穫して、

本当に人間に必要なことをしているって実感できる気がするから」

 

次回に続きます。

 


「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 1  

2011-10-21 07:35:49 | 教育論 読者の方からのQ&A

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 1

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 2

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 3

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 4

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 5

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 6

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 7

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 8

という一連の記事の「6」で、

日頃、ゆとり教育を受けた世代について、感じていることを書かせていただいたところ、

e-子育てcomの羊先生から次のようなコメントをいただきました。

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奈緒美先生、いつもブログにコメントお寄せ下さりありがとうございます。虹色教室通信を読むと、色々頭の中に考えが渦巻くような種を投げ込まれる感があります。今回の記事もそうでした。

「自分で判断するなという圧力」にさらされた子どもたちとおっしゃっているのは、そのとおりだなと思います。小生の寺小屋に来て外遊びをしていても「先生トイレに行ってきていいですか?」と尋ねます。「トイレは好きな時に行ってもいいよ」と常々言っているのですが。許可を取ることに慣れてしまっています。

大人がそうさせているのですね。塀を乗り越えて空き地で遊んだ子どもが怪我をしたら、管理者の責任を追求する。放課後遊んでいて事故が起こると学校の責任になるので、授業が終ったら一斉下校させる。

大人だって何かあれば自分の落ち度を棚にあげて相手の責任を追求する風潮ができあがっています。

結局転ばぬ先の杖を突き過ぎて、子どもが自分で歩けないように仕立て上げておきながら「今の若者はなんにもできん!」と怒る。なんの解決にもなりませんね。

話は変わりますが、ハリー・ポッターの寮生活を見ていると、彼らも規則に縛られているのですが、常にそれを破ろうと機会を狙っている。規則破りは仲間からも賞賛される。そうして規則を破った動機が間違っていなかったら教師の方も寛大な処置をするというシーンが度々描かれています。

どんなに規則があっても運用次第で子どもの能力を伸ばすことができる道はあるのかも。

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コメントにあるハリーポッターの寮生活の話に思わず頬がほころびました。

 

「わたしの子どもの頃も、自分で判断するなという大人の圧力はあったし、

周囲の大人たちは、集団にすぐに同調したり、

自分の責任を他人に転嫁しては責め立てるという頼りない面が大いにありました。

 

とにかく、子どものわたしからも精神的な虚弱さが透けて見えるような

その時代の大人たちに囲まれてはいたけれど、その監視下のもとで、

子どもだった私は今の子よりのびのびとした解放感を感じて暮らしていたな~

今と何が違っていたのかな?」

時折、浮上してくるそんな疑問への答えが、コメントで取り上げられている

ハリーポッターの話題に隠れているように

感じました。

 

わたしが小学生だった頃、

規則を作るのは大人、ルール決めるのは大人、

それを崩したり破ったりするために

小さい者同士わさわさでたらめに横につながっていくのが子ども、

既存のルールの隙をついて新たな問題を提示するのが子ども、

という関係があって、大人の上からの圧力に対して、

人の頭数とでたらめさでそこそこ立ち向かうことができたんですよね。

 

たとえば、「学校に不必要なもの持ってきてはいけない」というルールがあっても、

必ず、その隙間を狙って、「これならおもちゃじゃないんじゃない?これくらいいいじゃん。

これは学校で友だちと遊ぶと面白そう!」ってことを思いつく子がいて、

常に新しいものが流行っていました。

女の子でしたらシャーリングとかお手玉とかおはじきとか

なんですけど、家だと見向きもしないような地味なおもちゃも、

学校だとそれしかありませんから、みんなで夢中になって練習したり、新しい遊び方を考えだします。

 

ワザで競えない子は、シャーリングの色のきれいな組み合わせを自慢したり、

すぐにお金でなんとかしようとする子は、その路線上で

みんなをあっと言わせるようなものを買ってきたり……。

 

そうこうするうちに、シャーリングだけでなく

鉛筆や消しゴムの珍しいもの自慢みたいなものが加速してきて、

そうした物が学校内選挙(当時の小学校では学校をあげて

生徒会長を選ぶ選挙活動が行われていました)でわいろに使われだしたり、

盗んだ盗まれたの騒ぎが起きたりして、

最後にはそうしたグッズが学級会でやり玉にあげられて、

「そんなものを持ってくるのが悪いから、禁止にしよう」という

流れになるのです。どうせその頃には、みんなそんなおもちゃに飽き飽きしているものです。

でも、そうしたぐだぐだした現実を通して正義感やら、問題意識が揺さぶられて、

少しずつ大人になっていったな~と懐かしく思い出します。

 

学校に持っていってもさほど問題を感じないもの……のひとつとして、交換日記も流行りました。

わたしもいろんな友だちと交換日記を回すうちに

いつのまにか5~6の交換日記グループに所属することになりました。

「交換日記しよう!」「いいよ~やりたい!やりたい!」と受けるときは調子がいいものの、

毎日、紙面を文字で埋めていく作業のハードさ、友だちの催促のうるささ

(誰もが自分のグループの交換日記を優先しろとうるさい……)

「行きはよいよい帰りはこわい~こわいながらもとおりゃんせとおりゃんせ~」のメロディーが

耳のなかで響き続けるような心地で、

しまいに授業中まで交換日記を書いて回すようになっていました。

 

それも、終わりの会でやり玉に挙げられ、私を含む数名が立たされて

クラス中の集中攻撃を浴びせられ、泣いて謝りながら、

涙のどこかでこの流行が終息することにほっとしながら、同時に次なる新しい遊びの

種が胸のなかで生まれつつあるのを感じていました。

そんなとき、先生は……というと、

子どもの世界などそんなドタバタが常にあるものという適当さと余裕があって、

「叱るけど、抹殺はしない」「問題が起これば圧力をかけるけど、予防線を張って禁止まではしない」

「親の苦情に対して鈍感で、自分の仕事は子どもの教育と思っている」

という態度でした。

というのも、厳しい割に、

当時の大人は、直観や身体では人間というものが

わかっているところがありましたから。

つまり、森に入っても、食べれるものを一切合財、収穫していくんじゃなくて、

そこで生きる動物や来年のために残しておく知恵のようなものです。

 

言葉にするのが難しいんですけど、子どもが「自分」の知恵を使えるスペース、

「自分」で新しいルールを作っていけるスペース、

「自分」で失敗して、挫折から学べるスペースをちゃんと残しておく

ゆるさがあったのです。

 

今、子どもの世界で数値で見える成果を上げようとしている姿を見ていると、

「森に大型重機を持ちこんで、食べられるものや利用できるものを

一切合財取りつくして、その時期の数値だけ他所の森と競い合う」みたいな

イメージを受けるんですよね。

「学校をフランチャイズ化して、子どもたちを全国で一斉に販売するハンバーガーみたいに

扱っている」ようにも

「清潔志向が行き過ぎて、善玉菌まで抹殺してしまっている」ようにも見えます。

 

とにかく、わたしが子どもだった頃は、学校は「コンピューター」ではなく

「生身の人間」が管理しているところで、

ドロドロしたドラマがいっぱいあって

将来、社会に出たら役に立つような勉強をするチャンスがたくさんあったのですよ~。

 

以前書いた『お仕事裏話』というバイト体験記で、わたしは

若者の雇用の厳しい現実と、仕事現場で役に立つ能力やワザがどういう種類のものか

まざまざと実感たことを言葉にしたことがあります。

  

職場では理不尽なことで怒鳴られたり、いいように利用されたり、

先輩がいじわるして教えてくれないなんて、

 

あたり前にありますから、そういうときにどういう心で、どういう知恵で、どういう能力で

切り抜けていくかというのが大事になってきます。わたしの場合、

子ども時代のごたごたや揉め事やドラマや人間観察なんかが

働くときにとても役に立っているのを感じます。

お仕事裏話 1

お仕事裏話 2

お仕事裏話 3

お仕事裏話 4

お仕事裏話 5

お仕事裏話 6

お仕事裏話 7

お仕事裏話 8

お仕事裏話 9

 

 

 

こんなわたしの思い出話を書いたのも

『内田樹の研究室』で内田樹氏が、

『格差と若者の非活動性について』

http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php

という記事を書いているのを見て、強い衝撃を受けたからでもあるし、

この記事がリンクしてあった

東大パパさんの

コミュニケーション能力と連帯

という記事に共感したからでもあります。

 

『格差と若者の非活動性について』のなかで、内田樹氏は、

これだけ若者たちにしわ寄せが行く社会になっているのに、

そして政策的にも若年層に不利な方向で進んでいるのに、

若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのでしょうか? 」

という質問にひとつの答えを示しているのですが、

 

若者のひとりであるうちの息子が、そうした問いにどのような考えを抱いているのか

話あってみると、経済が明るくなっていく一方だと信じていたバブル前に社会に出たわたしなどと

比べると、この世代を生きている息子が、これまでも真剣にこの問いと向き合ってきた

ことに気づきました。

(『政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり)』のなかから、

「若者たちはなぜ、社会に対して訴えたり行動したりしないのでしょうか?」という問いへの

答えとなるような息子の言葉を拾ってみました。↓

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「社会の仕組みが複雑すぎて、

いったい何をどう変えたら個人個人にとってよくなるのか、わかりにくい。

それで、問題を糾弾して騒いだり、本質的な問題からずれた敵を

 攻撃するだけで終わりがちなんだと思う」

 

「どの分野も最先端に向けて進歩し続けているって捉えられている一本の道筋があって、

その道上の進退にばかり目が奪われているけれど、

同時にもっと全体的な見方で、医療の世界でいう東洋医学的な捉え方で、

それを見直す必要があるんだと思う。そういう意識の転換が、これからは求められているんじゃないかな?」

 

「 労働者自身が何が辛くて、何が欲しいのか、

政治的に利用されないで考えていけるようなツールが必要だと思うよ。

お金がある人がお金のない人を利用して、さらにお金を得て、

お金のない人はお金のある人に利用されるだけで、されるがまま、なすがまま。

そうして我慢したり、病気になったり、関係ない相手にイライラをぶつけたりするのではなくて、

ここまでは自分で守れるという一線を見極めておく必要があると思うんだ」

 

「「働くってことは、多くの人に共有されていることなのに、

それに関わる重要な知識は、知っている人と知らない人で大きな差があるよね。

特別な教育を受けた人じゃなくても、社会に関わる物事を、総合的に分析することが

できるような道具が必要だと思うんだよ。

そういう意味で、パソコンは今でこそ使い方が悪いけれど、

みんなを幸福に導いてくれるツールのひとつになりえるものだと思う。

数学の世界でも、関数電卓ができただけで、それまで複雑すぎて一部の人しか

できなかったような数学的な思考実験が簡単にできるようになっているんだ。

同じように、経済や社会の仕組みにしても、全体像を目で見てわかりやすい媒体で、

誰でも総合的に分析できる道具ができたら、大衆全体の考える力が向上するはずだよ。

複雑になりすぎた世界が、完全にブラックボックス化する前に、

もっと誰からも中身が透けて見ることができるようなツールが必要なんだと思う。

昔、家族でよくシムシティーで遊んだよね。

ああいうものも、社会がどんな原因と結果でつながっているのか理解するのに

面白いツールだった。

ぼくも大学に入ったら、そうした社会のあり様をシュミレーションできるようなツールを

作ってみたいと思っているよ」

 

 

 「こうしたストが創造的な解決法に結びついていくのは難しいよね。

 

こんな時代だからこそ、働く意欲のようなお金とは別の次元の価値を見直していく

必要があるんだろうな。

今はさ、お客にはどんなにサービスしてもし足りないくらいサービスするのは当たり前で、

働く側はどんなに苦しくてもいいと思われている半面、多少、詐欺的な面があっても、客を騙すような儲け方

をしても構わないって風潮があると思う。

 

でも、多くの人が、自分は99パーセントの被害者だって感じるような経済なら、

そろそろ、仕事観を改める時期が来ているんじゃないかな。

働くことから得る精神的なものの価値について、それぞれが考えていく時期が来てるっていうかさ。

経済とか社会の仕組みを、個人個人の感情の面からも捉えなおすのも大事だよ。

人の幸せはお金と等価交換できないからさ。

 

働くからには辛くなくちゃいけない、命をけずっていかなくちゃならない、

時には自分の道徳心を裏切って詐欺的なこともしなくちゃならない……それが社会で、

それが仕事ってものだって考えを、社会全体で見直して、

みんなが幸せを感受できる社会システムを作っていかなくちゃ

お金を持っている人と貧しい人の衝突は、これから激しくなる一方だと思うよ。

それぞれの人にしても、仕事は単にお金を得る手段と割り切るのではなくて、

仕事そのものに魅力を感じる能力がいるんじゃないかな」

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親がこんな力を身につけると、子どもは伸びる

2011-10-20 23:12:55 | 教育論 読者の方からのQ&A

「頭ではわかったつもりになっても、
いざわが子に何かを教えようとすると
うまくいきません」
「同じことをしても、うちの子は
ブログの記事で紹介されている子のような反応をしません」という
声をいただくことがあります。

それで、直接、親御さんに会って、
どのように子どもに接しているのか見ていると、
いくつかの大きな問題に気づくことがあります。

ひとことでいうと、親御さんの、
『シナリオ力』(論理力の1つ)という「相手のことを知るための力が弱い」ため、
(弱いというより、そうした能力を、
自分の中に育てようと考えたことがないために)
子どもがだらだら~いやいや~うろうろ~とする
態度になっていることがよくあるのです。

子どもの無気力、無関心の原因が自分だなんていやですよね。

でも、考えてもみてください。
妙な例えですが……
私たちだって
自分が欲しくないものばかり、しつこく勧めてくるお舅さんとか、
自分の関心のないことばかり話し続ける姑さんとかと
四六時中過していたら、
意欲的に集中して、お舅さんや姑さんの話を聞こうなんて気持ちが
失われてきますよね。


『コミュニケーションのノウハウ・ドゥ・ハウ』  野口吉昭編 HRインスティチュート著  PHP出版

という著書によると、
この『シナリオ力』とは、

情報収集力  (相手の関心を引きつける情報を集める)

ビジョン共有力(相手のベクトルやゴールを共有する)

提案力 (相手の真の課題解決につながる提案をする)

という3つの能力です。

多くの親御さんが、相手ではなく、市場の情報を集めて、
(教材や習い事の情報を集めて)どちらがお得か見比べて、
判断する力は、
これまでの人生で磨いてきているのです。
でも、そうやっていったん集めて、選んで、決めたら、外注~
というパターンに慣れすぎて、
子どもという人間を相手にする場合、
自分自身、どのような能力を伸ばせばよいのか、ピンとこない
のかもしれません。

シナリオ力の3つに

『伝える力』(対話力の1つ)の

わかりやすい表現力

メッセージ力

パワースピーチ力

が加わると、次なる活動が生まれるとされています。
つまり、子どもがやる気を抱いて成長していく可能性が大きいのです。

有名な名コーチやカリスマ先生がいる習い事は、
後で紹介した『伝える力』(わかりやすい表現力・メッセージ力・パワースピーチ力)
はすばらしいノウハウを持っている可能性があります。

でも、個人的なその子の個性にフォーカスして
教室運営はできませんから、
基本的に『シナリオ力』はないものなのです。
だから、子どもの関心やビジョンや好むやり方などにピッタリ合えばいいですけど、そうでない場合のが多いのです。
それか、ある一時期は、ピッタリ合っていても、子どもの知能の成長とともに
飽きて嫌になる可能性も高いのです。

そうしたことを考えても、やっぱり、子どものやる気や伸びへの
家庭や親の影響力は
大きいですよね。
家庭が、教育の土台を作る場となるように、
親も少しずつ学んでいく~というのが、とっても大切なこと
と思っています。

過去記事でこんなことを書いたことがあります。
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子どもの自然な知力の発達を見守りながら、
新しい「おわん」を作っては、どこでも、ポタンポタン水がたまり続けている
状態にすることが
親のちょうど良い教え方だと考えています。

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実は、子どもだけではなくて、親にしても、
「こういう力が大事なんだ~」
「こういう部分を伸ばさなくては~」と目的をはっきりさせて、
おわんをつくって、それからポタンポタンと能力を溜めていく
というのがとても大切だと思っています。

親って、『フランチャイズ店の店員』の感性じゃいけないと
思うんですよ。

「最初にマニュアルを自分にインプットしたら、その後は、
それを繰り返すだけでOK」という捉え方です。

そうじゃなくて、『レストランの一流コック』のように、日々、自分を磨いて
成長していくような本当の意味での自分の成長が求められる
仕事なのでしょうね。

それは世間的に見て、
すばらしい親になるという意味ではなくて、

子育てという体験を通して、
「自分の中に新しい大切な力を育んでいこう」
「目の前の出来事ひとつひとつから、学んでいこう」
という柔軟な姿勢で、過していくということです。

「○○法」信者になって、
自分のやりたい育児法、教育法を突っ走っていくことや、
自分が夢見るゴールに子どもの手を握って、駆けて行くことではない
はずです。
努力は自分がするなら美しいものでも、
それを幼児という自分ではない存在に無理強いするなら、
支配やコントロールという醜さ以外の何ものでもありません。

「目の前の子どもを深く知る」
「子どもが自分を作り上げていく姿を、一歩下がって見守る」
「子どもが悩んでいるポイントに気づき、的をついた提案をする」

といった
相手を知る力『シナリオ力』を使って子どもと関わっていく技術は、
自分のやりたいことを子どもに投影する前に
学ぶ必要がありますね。

もし、相手の気持ちを察するのが極端に苦手で、
自分の子がどういう子か、何を望んでいるのか、何に関心があるのか、どんなとき喜ぶのか、どんな場合、意欲的か、どんなとき飽きてしまうのかといった詳細が、毎日いっしょにいても少しもわからない~という場合、

学習についてだけ「わからせたい!理解させたい!上手に教えたい!」と対話する力ばかりを
伸ばすのはどうなのでしょう?

親と子が同じ立場や視点に立っておらず、
お互いのビジョンが大きくずれていると、
親が熱心になればなるほど、子どもはやる気を失っていくという結果に
つながるかもしれません。

もちろん、「最初から、そういう能力がいる!」というわけではありません。

子育てにこういう力が必要なんだな~と気づくことで、
おわんができて、
それから子どもと過しながら、少しずつ学び続けることで、
ポタポタ~おわんに水が溜まるように
親の能力もアップしていくのだと思います。

大事なものは何か、気づいてさえいれば、
歩みがどれほどゆっくりでも、
必ず大成功が約束されているのではないでしょうか。

この記事の続きは、

親がこんな力を身につけると、子どもは伸びる 3 九九の話

 


自閉症スペクトラム障がいの子 と 相手の心を推理する遊び

2011-10-20 13:30:21 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

広汎性発達障がいの診断を受けている年中さんの●くん。

1年ほど前までは、他人に全く無関心で、

ひとり遊びを続けていましたが、

このところ、工作やブロック制作や人形遊びをいっしょに楽しめるように

なってきました。

 

おしゃべりは得意になってきましたが、

自分のファンタジーに基づいたでたらめな受け答えが目立ちます。

論理的に考えたり、正しい理由を理解することの

大切さに気づいていない様子です。

特に相手の心を推理するのが苦手な模様。

 

子どもってアプローチの仕方によっては

自分の最も苦手とすることや、伸ばす必要がある面を

刺激するような遊びを何よりも喜ぶことが多々あります。

不思議なほど大喜びするのです。

●くんの場合、人形遊びの最中に

相手の心を推理しなくてはならないような場面を作ってあげると

小躍りして喜んで、ゲラゲラ笑いながら

受け答えを楽しんでいました。

 

<●くんが大喜びしていた人形遊びのストーリー>

ろばの人形手にとって、ろばの手から●くんの手に

ハムスターを手渡しながら、

「今から、ちょっと出かけてくるから。

このハムスターを1ぴき預かっておいて」と言いました。

 

ろばの人形はおでかけ中ということで遠くにやってから、

わたしが、「ねぇ、●くん。ろばくんがいない間に、ろばくんを騙そうよ。

その茶色のハムスターを黒いハムスターに変えて……

戻ってきたら、ろばくんびっくりするよぉ~!」というと、

●くんは茶色のハムスターと黒いハムスターを交換すると、

黒いハムスターを手にしてこれから起こることが面白くって

たまらないという様子でゲラゲラ笑いながら、

部屋中を飛び回りました。

その後、わたしがろばくんを帰宅させると、

ポケットの中に黒いハムスターをしまっています。

「●くん、ろばくんに見せてあげないと、ろばくんびっくりしないよ」と説明するものの、

ろばくんが茶色のハムスターと黒いハムスターが入れかわったのを見て

どんな気持ちを抱くのかまでは推測するのが難しいようでした。

 

でも人形が留守している間に、

その人形が預けていったものをすり替えるという遊びが相当気に入ったようで

大笑いしながら何度もやりたがっていました。

その割に、戻ってきた人形がびっくりするための設定というのが

どうしてもピンとこないようでした。

 

それなのにどうして何度もやりたがるのかといえば、

「何だかもやもやと不思議なよくわからない心のやり取りがあるらしい」と

勘づいてはいるようでした。

 

●くん、他のおもちゃに使っていたお金を手にして、

「お金にね、助けてって書いてあるよ」と言って、ハムスター人形をドールハウスのトイレに入れました。

「助けてって書いてあるの?トイレに閉じ込められて出られないの?」

とたずねると、「トイレは、鍵かけてるからね」という答え。

「だれが助けてって書いたの?」とたずねると、

「●くんだよ」

「●くんが、書いたのなら、●くんがハムスターをトイレに閉じ込めたの?」と聞くと、

「ハムスターが鍵をかけたんだよ」という答え。

●くんと遊んでいると、誰が何の目的でどうしているのか

あいまいになってしまうことが多々あります。

遊びながら、それぞれの人の立場や発言や動機が

ちぐはぐにならないように

論理的に考えていく力を育んでいくのが課題です。

 

●くんと工作も楽しみました。

ストロー2本で十字を作り、

穴を開けて箱に貼りました。

全て、●くんのアイデア。80パーセントは自分で作りました。

「何を作ったの?」とたずねると、

「キリスト教病院」という答え。

「どうしてキリスト教病院を作ったの?」

「●くんが赤ちゃんで生まれた」

「ああ、●くん、キリスト病院で生まれたから、十字架がついている病院を作ったのね」

「そうそう」

●くんに理由をたずねると、見当ちがいの適当な答えが返ってくることがよくあります。

工作のように目で見て、結果が確かめられる活動を通して、

「理由」とか「原因」といったものへの

理解を深めていくようにしています。