虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

モンテッソーリ、ニキーチン、フレネ、シュタイナー、フレーベル と 「工作」 1

2011-02-25 09:31:13 | 日々思うこと 雑感

モンテッソーリ、ニキーチン、フレネ、シュタイナー、フレーベルといった

世界の教育者たちは、子どもの持っている力を深く信じていた方々です。

それぞれ異なるアプローチではありますが、

子どもの可能性を引き出すためには、手を使って創造的な活動をすることが非常に大切だと考えていました。

モンテッソーリ、ニキーチン、フレネ、フレーベルがどのような子ども観、教育観で

創作活動を捉えていたのか順番に紹介しますね。

 

モンテッソーリは、

「子どもは手や身体を使って動くことで

世界を学び取ろう、認識しよう、吸収しようとしている」と考えていました。

子どもの中に潜在する「本来のよいところ」や「未知の可能性」が外に表れてくるには

どうすればいいか?

生理学的な根拠に基づいて追求していきました。

 

その答えは、「自分で選んで、選んだことを繰り返して、繰り返しながら集中する。

そして、完了感、充実感、幸福感を抱いて終了する」という

作業との関わりです。

 

モンテッソーリ教育で行う作業には、

切る、折る、貼る、縫うといった工作や手芸のなかのひとつの行程を、

「発達段階に合わせて子どもが何度も繰り返したがる形」に洗練したものもたくさんあります。

 

モンテッソーリの教育観は、英才教育というより、

「幼児が環境と関わりながら

生涯にわたって必要な力を獲得していく」のを支援し、

子どもに自信をつけようとするものなのです。

 

そこには、次のような子ども観があります。

 

★ 子どもがやりたがることは、その子の発達に不可欠なもの

★ 幼児期は「できるようになりたい」という強い衝動をもつ時期であること

★「できるようになるために努力を惜しまない」時期であること

 

今、幼児教育としてモンテッソーリ教育が注目され見直されています。

でも、現代 モンテッソーリ教育の効果がきちんとあらわれるのは難しくもあります。

なぜなら、

モンテッソーリ教育は「環境と文化に適応しよう」とする

幼児の本能的なものを大事にしているものなのに、

現代では 肝心の手本となる「環境と文化」があいまい貧弱なものになっているからです。

社会や家庭から、幼児にもわかるような意味や秩序が失われているのです。

ごくごく当たり前の「ふつう」が見えない、わからない世界になっているのです。

 

このことについては教育現場に欲しいブラックボックスという言葉という一連の記事でくわしく書いていますので、興味のある方は読んでくださいね。

 

また、モンテッソーリ教育は、

子どもが自分で選び、自分から始めるのを「待つ」ことで、

自分の意志で行動する基盤を作ることを目指すものです。

 

でも、モンテッソーリ教育が他の習い事や通信教材と同じように

外注したり購入したりするものとして扱われている現代では、

「いろんな教育法のいいとこ取りしておこう。モンテしておけば、IQアップや小学校受験に役立つかも……」といったまなざしや接し方で行われていることが多いのです。

 

モンテッソーリの考え方は、

知的能力を発達させる秘密 = 親や保育者と子どもとの関わり方

というものです。

 

しかし、モンテッソーリ教育を子どもに施そうとする大人たちが、

「自分がどのように子どもと関わっていくのか」 というまなざしを学ばずに、

<より早い時期に、何がどれだけできるようになるか>だけに注目して終わっているのが

現状でもあります。

大人が教具のスキルアップばかりに注目する癖は、
子どもの周囲の世界を曇らせて、
子どもが動いて学び取るものから、
「学び取る」目的を失わせてしまうかもしれません。

 

モンテッソーリ教育でするお仕事のひとつに、

「豆のような小さなものを分類する」というものがあります。

発達のある時期、子どもはものすごくこうした仕事をやりたがり集中するものなのです。

そうした内側の衝動で繰り返す作業をする過程で、

子どもは、論理的に物を考えるための構成を学んでいきます。

モンテッソーリ教育で行われる創作活動は、

子どもの知能が、「ある段階」から、「より高いまったく新しい知的な段階」へと

飛躍するための

一過程なのです。

 

そこには、

「子どもが関心を示す、やりたがる」 = 

「自分の内側の発達のプログラムに沿って、感覚器官や運動器官や脳を完成していくに今必要なことに敏感になっている」

という子どもの見方が基本にあります。

 

ですから、大人が思い描くようか「完成品」を目指す工作とは

かなり異なります。

子どもと創作活動をするときに、

想像力が発達してきて、「こんなものが作りたい」とイメージして、考えながら工作するようになる前の段階で、

このモンテッソーリの教育観は非常に大事になってくると考えています。

 

ニキーチン、フレネ、シュタイナー、フレーベルと創作活動については、また次の機会に、

順番に取り上げて紹介していきますね。


面白いペーパークラフトを見つけました!

2011-02-24 22:34:03 | 工作 ワークショップ

 

とっても面白いペーパークラフトがダウンロードできる

ホームページを見つけました。

海洋研究開発機構

のホームページにあるペーパークラフト図鑑です。

「これは絶対、教室の子どもたちに受けるわ~!」と、感動しました。

もちろん、私自身にも大ヒット

いきもののピックアップも最高なのですが、

 

有人潜水調査船「しんかい6500」とか

マニピュレータとか、

地球シミュレータ(2002年~2009年3月)

とか、簡単に作れそうなわりに、子どもたちが夢中になりそうなものばかりなのです。

幼い子は大人が作ってあげるのもいいですね。

スーパーコンピューターが、<星ひとつ>の

一番簡単に作れるペーパークラフトなのも笑えました。

ちきゅう は★5とレベルが高いけど、すごくかわいいので

ぜひ作りたいですね♪

ミュージアムとキッズのコーナーも面白かったです。

海の生き物や乗り物が大好きな子ってたくさんいますよね。

キッズワンダープロジェクト

を体験させてあげると、きっと喜ぶと思います。

(私も面白かったです

 


『好き』なことを一生懸命するということ

2011-02-24 14:42:30 | 日々思うこと 雑感

前回の続きは明日にでも書かせていただくことにしますね。

ずいぶん前のことですが、
毎日新聞の『女の気持ち』という読者の投稿欄に
小学生の娘とのやりとりを載せていただいたことがあります。

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ある時、娘が真顔で
「わたし、マンガ家になりたいんだけど、どうすればいい?」
とたずねてきた。

これは確かな答えを出してやらねばと思い、
少し考えをめぐらせてから、おもむろに答えた。

「それには、たくさんマンガを読むことでしょ。
それから、たくさん描くことでしょう。」

言った先から、自分の答えにふきだした。

というのも、娘がマンガばかり読んでいる姿を見ては
読書量が少ないのを心配し、
教科書もノートもマンガの落書きばかりで きちんと勉強しているのかしらと
ため息をついていたからだ。

「マンガを読むことと、描くことを生活の中心に据えなさい」

という私の勧めに従った娘は、
不思議なことにマンガ以外の本もよく読むようになり、
勉強やほかでの活動に精を出すようになった。

娘が言った。
「お母さん、わたし将来マンガ家になれるかどうかはわからない。
でも、ひとつの夢をかなえるには、いらなさそうなことも
必要だもん」
娘なりに、自分の質問への答えを見つけたのだった。

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この記事のことを急に思い出したのは、
先日 購入した『働く理由』(戸田智弘 ディスカバー・トゥエンティワン)
という著書で、養老孟司氏のこんな言葉に出会ったからです。

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自分が好きなこと、それしかやらない。
そう決めるのは自分である。そう決めてちっとも差し支えない。
ただ現実には、好きなことをするために、
ほかのいろいろなことをしなくてはならない。
それも好きになればいい。
それ以外に、好きなことはじつはありはしない。
好きなことはただ頭のなかにあるだけのものではないからである。(中略)
本当に好きなら苦労はいとわない。
苦労が苦労ではないからである。
苦労したくないなら、結局それほど
「好きではない」のである

養老孟司 (日本経済新聞社「世相ひとひねり」)
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娘が、ひとつの夢をかなえるには、いらなさそうなことも
必要だ……と気づいたのは、もちろん、養老氏の文章を目にして反省したからなどではありません。
実際に好きなことにしっかりコミットメントしようとすると、
即座に、
「好きなことをするために、
ほかのいろいろなことをしなくてはならない。」
という現実にぶつかるものなのでしょう。

だから……子どもが先々困らないようにと、
「将来役立ちそうな
あれやこれやの訓練を早いうちから仕込んでおく」より、
まずは「好きなこと存分にやらせてみる」方が、
子どもが精神的に自立しやすいな~と感じています。

虹色教室の生徒の小1の★ちゃんの親御さんから次のようなコメントをいただきました。
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わが娘たちは、なかなか工作に入れ込むことがないようでしたが、少しずつアウトプットの芽が出てきたかもしれないです。

てっきり、絵画や工作だけかと思っていましたが、そうでもないですね。

小1の長女は作文(物語創作)で、目を輝かせるようになりました。
4月から年少の次女は、まだまだ目移り多く、親を頼ることばかりですが、
下手だったハサミを(親に頼まず自分で)長時間持つようになりました。

瞳をキラキラさせているのを見ると、
こんなことが好きだったのか、
と驚くほどです。
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★ちゃんが教室に通い始めたとき、何をするのも乗り気でなく
退屈そうにする姿がありました。
それが何回か通ううちに、キラキラするスパンコールを使った工作や
毛糸を使ったお人形の制作に夢中になるようになりました。
そうして、教室に着くやいなや「今日は○○が作りたい」と意思表示し、
一分一秒を惜しむくらい熱心にものづくりに励むようになっていました。
そうしていろいろ作って遊んだあとで、★ちゃんは自分が物語りを作ることが大好きなことに気づいたようなのです。

まず『好き』なことを一生懸命してみること

その先には思いもかけない発見がたくさんあるものですね。

 『学ぶことが好きになる工作遊び』 4

2011-02-24 08:51:40 | 日々思うこと 雑感

「工作をすると何か学べる」というのはわかる。
でも、「工作すると自分が変化する」ってどういうこと?

と感じた方がいるかもしれませんね。

工作って、自分の好奇心のアンテナに引っかかるものを「探す」「見つける」ことからはじまって、イメージして、それを膨らまし、

手を使ってリアルに物と向き合っていく行為です。

テレビゲームのように、途中でリセットすれば消えてなくなるものではなくて、

飽きて放り出せば、そこにはゴミなり残骸なりが残るわけで、

それはそれで自分を知る勉強になります。

 

森博嗣氏は「工作」とか「もの作り」の概念をかなり広い範囲まで広げて、

写真を撮ることも、カメラという道具を使って、現実から切り取られた「静止画」を作っているのだから、一種の「作る」行為ではないか?

料理を作ることも工作では?

ファッションやガーデニングも工作ではないか?

と どんどん思考を飛躍させることを歓迎しておられます。

工作のセンスはいろいろなものに活かせるし、どんな工作でも大切なのは、それを楽しむことで、そのプロセスでの自分自身の変化を「喜ぶ」ことだから……と。

自分でなにかを作ろうと考えると、その対象に向かう観察眼が芽生える。作るためのプロセスを思い描くようになる。これらは、作ることがない生活では、ほとんど死んでいたセンスだから……ともおっしゃっています。

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以前、年長さんの男の子とポストを作ったことがあります。私ははがきの投入口と、背後から取り出す部分を作って、郵便のマークをつけたらポストだろうと思っていたのですが、

その子は、ポストの横に集配時間を書いた紙を貼りたいと言い出しました。

きっと、大人よりずっと好奇心を持ってポストを眺めているので、自分なりに「これは面白い!」と感じているポイントがあるのでしょうね。

本人は、18:00~20:00  25:00~30:00など、

適当にそれらしい数字を書きこんでいましたが、

アドバイスしようにもこれまでそんなものに注意を向けたことがなかったので、

さっぱりわかりません。

「どこらへんに、どんなことが書いてあるんだっけ?」とすぐにでもポストのところに飛んでいきたい気分になりました。

子どもたちとレジを作るときもそうで、

どうせティッシュ箱でちゃっちゃっと作るような工作なんですが、

それでも現実に子どもと工作すると、「ピッ」とバーコードを読み取る部分に100円ショップのプッシュライトを取り付けたりして、それぞれの子の懲りたいところに関わります。

すると、「ティッシュ箱にセロテープでベタッとしてできあがり」なんていう工作に付き合っているだけだというのに、私自身の観察眼が変わってきて、

スーパーで清算してもらっているときも、横目で最近のレジの作りをチェックするようになってきているのです。

最近のレジは、小銭をザーッと放り込むと自動的に計算してくれるような

バス料金を精算するコーナーにあるようなローラーがついたお金の投入口がついているものがあるのです。

「こんな物がレジについているなんて、すごいな」「それ何?」「作ってみたい」「日夜レジも進化しているのね」と買い物ついでに、感心することしきり……。

そういう小さなワクワクが自分の中に次々生まれてくること……それが「工作をすると、自分が変化する」ということのひとつかもしれません。

もちろん、工作につきあっているだけの私がそんなに変化するのですから、

作っている本人は、何かを作りはじめたとたん、どんどん観察眼を洗練させていきます。

3歳くらいの子でも、「ちがうちがう、それはこんな風になっていたよ。それから、ここのボタンは、もうちょっと大きくて、ギュッと押したら引っ込まないとダメなんだよ」と、

空き箱工作にやたら高度なワザを求めるようになってきます。

 

「内面が変化する」といっても幼児の場合、脳が劇的に成長する時期ですから、

大人とは別の面の変化も大きいのかもしれません。

目と手の協応作業が、
脳の機能自体の変化とも関わってくる時期なのです。

 

幼児が手を使って何かを「作る」ことによって、

その子の潜在能力を最大限に伸ばす

 

ということへのアプローチは、

モンテッソーリ、ニキーチン、フレネ、フレーベルがそれぞれ独自の世界観で幼児教育のあり方を追求しています。

それぞれはどれもすばらしく、またとても大切なものです。

3人の偉大な幼児教育家と「作る」こととの関係は、次回に書かせていただくことにしますね。





ベビーのグループレッスン と 「作る」

2011-02-23 23:22:35 | 日々思うこと 雑感

今日は、1歳3ヶ月の☆ちゃん、1歳11ヶ月の★ちゃん、2歳4ヶ月の〇ちゃんのベビーのグループレッスンの日でした。

2歳4ヶ月の○ちゃんは、数に敏感になりはじめる時期で、
さまざまな遊びの中で、多い少ない、大きい小さいに関する興味が表現されていました。
お人形遊びをするにしても 人形同士の会話させるよりも
「階段!階段!」といって、だんだん高くなる段に人形を登らせる方が面白いようです。
1歳11ヶ月の★ちゃんの場合、○ちゃんのすることは何でも興味しんしんなのですが、まだ数に敏感な時期ではないので、階段を崩してみては、「階段」という意味のある形と、崩れてしまった状態を確認しては「あっ!」と気づくことがあるようでした。
1歳3ヶ月の☆ちゃんは、年上のふたりがやっていることは、何でも真似っこしてやってみたい様子で、とにかくどの遊びにも割り込んで、形だけ真似てみせて

自信満々の笑顔を振りまいていました。
写真は、階段で遊ぶ☆ちゃん。

「積み木を積む」というごくごく基本的な「作る」作業でも、
子どもはそれは多くのことを学びます。
数とは何か? 多くなっていくとはどういうことか? 足し算では何が起こるのか? 形って何なのか? 形が組み合わさると何ができるのか?
……など。

 

↑ コインやたれ入れの容器を入れる穴と、取り出す穴を開けただけの自動販売機。

手作りおもちゃは、どんな高価なおもちゃより人気があります。

1,2歳の子も、すぐに仕掛けを見破って、少しするとその仕掛けを使って

自分でも工作しようとし始めます。

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写真は数遊びをする★ちゃん、〇ちゃん。

10個くぼみのある製氷皿にデコレーションボールを入れていってます。




 『学ぶことが好きになる工作遊び』 3

2011-02-23 14:08:36 | 日々思うこと 雑感
『カレーを作れる子は算数もできる』で 木幡寛氏は、次のようなことをおっしゃっています。(簡単にまとめています)
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日本が抱えている学力問題は、

<How to>は得意だが<Why>ということに対する問いかけがなされない

ことに帰着する。

「なぜそうなるのか?」を問う学習をないがしろにしたままでは、
PISAのランクが下がるのも当然。

練習・鍛錬・反復による基礎・基本の獲得を徹底しても、
訓練不足に対する効果はあっても、

一方では <計算の操作のみを重要視する>という
落ちこぼれの原因につながる傾向を助長しかねない。
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<Why>の大切さといえば、先日、数学の問題のことで息子とした会話で話題にのぼったばかりでした。

半日 数学と格闘していて、休憩に現われた息子が、
こんなことを言いました。

「数Ⅰや数Ⅱの問題になると基礎は終わっているから難問だけ拾って勉強していくことになるから、かなり苦しい思いをしていたんだけどさ……。
気分転換に数Ⅲや数Cのチャート式を解いてみると、まだこっちは本格的に取り組んでないから、するのは例題や中レベルの問題だけだから、
今度は簡単すぎて拍子抜けしたよ。
難しいのも易しいのもどっちもやってて思うんだけど、
学校だと長い時間をかけて大量の問題を解くわけだから、
ずいぶん勉強が進んだように感じるけど、
考えないでパターンを繰り返すだけでは、結局、たくさんしたからできるようになったような錯覚に陥っているだけで、
自己満足に浸っていただけなんだな~って。」

「いつの頃からか、数学は暗記だ!って声に反論する人もいなくなって、勉強法の主流になってきたものね。
若い学校の先生方も、自学自習で学んできたなんて人は小数派で、
塾や予備校で学んできた方がほとんどでしょうから、自分が習ったように教えるのは仕方がないのかしらね」
と言うと、息子からは私の極論を和らげるような言葉が返ってきました。

「実際、解法パターンの暗記は必要ではあるんだ。

だからといって、パターンを暗記しながら量をこなせば、完璧になるかというとそういうわけにはいかないんだよ。

こういうタイプの問題は、こういう解き方をするという
問いと解法が直結しているような易しい問題だけしていくのなら、それもありだろうけど。
少しひねった複合問題になると、円の面積の問題に見せかけて、2次方程式で解いていくものだったりするよね。
そうしたとき、たくさんある筋道からどれを選ぶのかということまでも、
パターン化して、解法パターンを増やしていくって方向はよくないと思うんだよ」

「パターン暗記は必要だけど、組み合わせによって増え続けるパターンをさらに暗記していくのは良くないと思うのね。
なら、どうすれば良いと考えているの?」
と私はたずねました。

「そうだな。パターンで問題を解いているときにも、『なぜ』と問う視線が必要なのかもしれない。
ほら、青空学園数学科ってホームページがあるじゃん。
あそこで扱っている解き方は、全て、『なぜ』という問いを追求することで成り立っているんだ。それだけに理解するのに時間がかかったり、苦しい一面もあるんだけどね。
でも、それが必要なんだと思う。自己満足に終わらない勉強をしようと思ったらさ。
受験までは時間との戦いだから、やむをえずパターン暗記を取り入れて解いていくにしても、
青空学園数学科にある『理由』に基づく次元の視点がいるだろうな」

息子の返事を聞いて、
自分が幼い子たちと工作をするとき大事に思っていることを、
息子も受験勉強で感じ取っているんだとうれしく思いました。

レッスンの時間が近づいたので次回に続きます。


 『学ぶことが好きになる工作遊び』 2

2011-02-22 22:07:20 | 日々思うこと 雑感

工学博士で人気作家の森博嗣氏が、『創るセンス 工作の思考』の中で、

 

だから、「とにかく作りなさい」ということが本書の主張である

 

ときっぱりおっしゃっていて爽快でした。

森博嗣氏の考えは次の通り。

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ビジネス書コーナーに並ぶ「こうすれば成功する」「問題はこのように解決しろ」というタイトルの本は、しょせん「こうすれば上手くいった事例がある」にすぎない。

「こうすれば上手くいきそうな気分になれる」程度の錯覚を誘っているだけで、自分を騙しているようなもの。

一度決めれば、思考停止して、その後楽に動けるから、人間は思い込もうとする習性がある。でも、思い込みは不自由で、その場限りの淡い納得しか得られない。

その場はちょっと気持良く、やる気は出るけれど、その人自身が変わらないのだから、環境が改善されるわけがない。

それより実際に手を動かして、一つでも新しいものを作った方が良い。作れば、貴方は必ずなにかを学ぶし、貴方の中できっと変化が起こるだろう。

(『創るセンス 工作の思考』 集英社新書より引用)

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「貴方の中できっと変化が起こるだろう」という言葉って、

さらっと読んでしまいがちですが、

 

今、教育の世界に何が足りないのか、

 

最も見過ごされがちで、最も重要な急所を突いているのでは……? と感じました。

 

この「学ぶ」ことで起こる自分の中の「変化」って、つまり以前記事にした

「持つ」教育 「ある」教育の、「ある」教育をした場合に起こるものでは?

と考えています。

話が飛びますが。

哲学者で大阪大学総長の鷲田清一氏が、『噛みきれない想い』というエッセイの中で、

文学部の哲学科の生徒たちが三年生にもなって1冊の哲学書も最後まで読んでいないことが

理解できなくて、

「みんな、どうして本を読まないの?」という疑問をぶつけた話が載っていました。

 

このエッセイ、なるほど~と共感できる話で締めくくってあったのですが、それはここで取り上げるのはやめておきますね。

この話、大学の現状を知った感想として、ちょっとした衝撃がありました。

 

これって「持つ」教育の末路なんじゃないかな……と。

点数をどんどん追いかけていって、哲学を読み解く力を身につけても、

自分の内部にそれを求める気持が育っていなかったら、

つまり「持つ」教育だけ受けて、「ある」教育がお留守のまま進んだら、

その先はどうなっていくのでしょう……?

そこには、学んでいることと行動がアンバランスで、

過去にその学生の立場に身を置いていた人にすると、「どうして……?」と問いかけずには

いられないような姿があるのでしょうね。

 

レッスンの時間が近づいたので、次回に続きます。



 『学ぶことが好きになる工作遊び』 1

2011-02-22 16:30:34 | 日々思うこと 雑感

3月に発売する虹色教室のオンライン教材のタイトルは

『学ぶことが好きになる工作遊び』です。

メインで扱うテーマとして スタッフの間から

『算数』や『知育遊び』が候補に挙がっていたのです。

けれども 私はどうしても

「まず最初に 『ものづくり』を柱にして、

これまで虹色教室で大事にしてきたノウハウを網羅した教材が作りたい!」

という思いがありました。

 

確かに、「どれだけ売れるか?」とか「どれだけ儲かるか?」といった観点からすると、

算数や知育や科学や国語といった教材を先に作った方が

うまくいくに決まっています。

私にしても、写真の加工やビデオの編集で懸命に働いてくれていたスタッフが、

「働き損」にならないことだけは願っているのです。

 

『工作』がテーマだと、

いくら「工作を通して、巧緻性、体感、生活、算数、図形、回転、IQ,科学、図鑑などのテーマと深く豊かに関わることができるように心を込めて作りました」と説明しても、

どうしても「しょせん工作でしょ」というイメージはぬぐえないんですよね。

工作って、主要教科の脇役として

あってもなくても良いようなポジションにあって……つまり『格下』として扱われがちですから。

 

それでも、どうしても『工作』教材から作りたかった理由というのは、

「現実に工作すると子どもの能力が伸びるから」

「何をさせるより何を教えるより、ものを作ると知能が向上するから」

という体験をベースにしたシンプルな理由に他なりません。

 

教室で工作に熱中する子たちは、

どの子も頭の回転が速くて、観察力や理解力や思考力が高いです!

いつもその子たちの成長を見守りつつ、感激しているのです。

自分の考えを言葉で表現する力もバツグンです。

ハンディーキャップを持っている子たちも、工作を通じて、さまざまな「できない」を克服していってます。

工作って聞こえは地味だけど、とにかくすごい力を秘めているのです。

 

そんなわけで、「工作ってすごいんですよ!」と伝えたい気持は、

どうしても後回しにすることはできなかったのです。

工作というより、『ものづくり』(今回の教材では扱っていませんがブロックや積み木遊びも含みます)という言葉の方が私の伝えたい内容とあっているのですが、

わかりやすくするために『工作』という言葉を使わせていただきますね。

 

『カレーを作れる子は算数もできる』 (講談社現代新書 )という著書で、著者の 木幡 寛氏が次のようなことを書いておられます。

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カレーライスを作ったことがあるだろうか?

作ったことがなくても料理のレシピを見てカレーライスを作ることができるだろうか?

まず材料をチェックしてみよう!ニンジン・ジャガイモ・豚肉・油・カレーのルー。それに道具も揃っているかどうか見ておこう。材料のきざみ方、調理の手順……、あれこれ考えなければならない。どうしてタマネギを最初に炒めるのか?その理由がちゃんとわかるか、そして炒めた後にどうするのか……。水の量は?カレーのルーはいつ入れるのか?

それらの段取りをきちんとおさえていなければ、料理は作れない。

(略)

問われてくるのは、注意深い観察・レシピ通り料理の流れを実行するパターン認識・量の認識と把握……。レシピに従って実行する力、料理のレシピを分析したり総合したりする力……。

このように、ものごとの後先を考え行動できる力を、算数・数学では<論理的思考能力>と呼ぶ。カレーライスを作る力の中にはそれらが凝縮されているのだ。

( 『カレーを作れる子は算数もできる』 より引用)

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木幡 寛氏がカレーライスを作る中に凝縮されているという

<論理的思考能力>は、工作をすることを通して養うことができます。

工作の場合、まだ文字が読めない幼児でも

ひらめきを形にするコツ、問題解決能力、科学的な理解力なども

この論理的思考能力といっしょに伸ばしていくことができます。

 

「学習の基盤作りとして基礎こそ大切なのだから、小学校低学年、中学年の間は、

論理的思考能力など伸ばさず、徹底的に計算をさせるのがよい」とおっしゃる方がいます。

確かに、論理的思考力を求める文章題を教科書で学ぶのは、高学年以降でもよいのかもしれません。

 

でも、実際には、子どもって3歳を過ぎれば「どうして?」「なぜ?」と

目にするもの全てに疑問を投げかけるようになるものなのです。

論理的に筋道を立てて考えていきたいと思いは、こんなに幼いうちから

芽生えているのです。

 

それに対して、知識としての答えを押しつけるだけでは、時が経てば聞いたことは忘れ、

知的好奇心は薄れていきます。

まだ、そんなことを考えるのは早いから……と、放っておくのも同じです。

知的好奇心が薄れるだけでなく、

考えること自体をやめてしまいます。

 

「どうして?」「なぜ?」という疑問から出発して、筋道を立てて考えていくにはどうすればよいのか、

仮説を立てて試行錯誤して考えながら、常識を疑い、新しい解決法を考えていくにはどうすればいいのか……というと、答えは簡単。

 

手を使って切ったり、貼ったり、組み立てたり、動かしたり、壊したりして学べばいいのです。

要は『工作』です。

「こんなものを作りたい」という思いを描き、そこに行き着くまで、

自分なりにいろいろやってみるなら、論理的な思考力は自然に育まれていくのです。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 


 


ジェネレーションギャップ  と 『コピー』で遊ぶ子ら

2011-02-21 21:02:54 | 日々思うこと 雑感
うちの子たちと議論していて、
子どもたちが「新しい言葉が必要だよ★記事」とか「イメージを一新する必要があるわよ★記事」と
結論付けるのを聞くたびに、
ジェネレーションギャップ(世代間格差)とでも言ったらいいような
感性の違いに驚いている私……。

先日、それを強烈に感じる物を目にしました……『鉄下』です。

新大阪のみやげ物売り場を通り抜けようとしていた時のことです。

おみやげのお饅頭のセットの隣に
子ども用の靴下がぶらさがっていたので、
思わず、んっ?と目を留めると、「鉄下(てつした)」という大きな文字が飛び込んできました。
よく見ると、靴下は鉄道のデザインです。

「ああ~そういうことね。」とうなずきつつも、
「鉄ちゃん(鉄道を趣味とする人)とか、子鉄(鉄道好きの子ども)とかいうイメージで色づけすると、
子ども向け靴下でもこんな場所に
進出できるんだ……」とちょっと面食らってしまいました。

電車好きの子ども向けの電車の柄の靴下なら、
昔から どこの衣料売り場でも扱っていたはずです。

でも、それが「鉄下(てつした)」とネーミングされたとたん、
何ともいえずに愛らしい「子鉄」というイメージと新しさを背負っているのです。
ちょっとくらい値段が高くても、鉄ちゃんの親としては
手を伸ばしてしまうのでは‥‥‥? と勝手に推測していました。

「そうそう、この『鉄下』の売り方にある感性が、
私にはなくて、うちの子たちには赤ちゃんの頃から、
時代に刷り込まれてきた感じ方なんだわ~」と気づきました。

それで急に思い出したのが、うちの子たちが小学生の頃、毎日、近所の子たちと繰り広げていた『ごっこ遊び』のことです。
それが、私が子どもだった頃のように、お母さんごっことか、美容室ごっことか、先生ごっこといった身近な大人の世界を模したものでも、テレビアニメやドラマを模したものでもなくて、
どこから思いつくのか妙にリアルな社会の姿を、パロディーチックにアレンジしては遊んでいました。「社員研修ごっこ」とか「入試」とか「面接」とか、「プレイパーク」や「強盗事件のドキュメンタリー映画作り」などなど……。

おそらくそのネタの元は、CMや報道バラエティーなのでしょう。
そうした遊びをするとき、「遊ぶ内容」以上に「言葉の持つ響きやイメージ」が遊びの面白さのカギを握っているようでした。

もう読んだという方はパスしてくださいね。過去記事を貼っておきます。
この過去記事を書いたときは、
子どもたちが、広告のコピーがどこにも溢れている今の時代からどんなものを受け取って自分の中に育てていってるか……という見方は全くしていなかったのですが、
そういう視点からこうした遊びを眺めてみるといろんな発見があって面白かったです。
子どもは良くも悪くも、その時代から影響を受けながら育っていくものですね。

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『お母さん、火って何から出来ているの?』という
6歳のタロウくん、2歳のハナちゃんの日々をつづったブログを
いつも楽しく見させていただいています。
このタロウくんとハナちゃんの思いつきや工作の仕方……言動もですが、
うちの子たちの小さいころにすごく似ていて、
読ませていただいているうちに思わずうちの子たちが小さいころにタイムスリップしています。
失礼ですが、お母さんのふるまりさんのゆるい対応(ごめんなさい~)も、私の子育ての手抜きワザとそっくりで……
世の中、似たような方法で子どもと付き合ってく方もいるもんだな~とちょっとびっくりしたりもしています。

そんなふるまりさんの★タロウのプレゼン失敗と、本当の「問題解決能力」という記事に、次のような思いがつづってありました。
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タロウには(ゆくゆくはハナにも)、自分のやりたいことをやるために、どんな状況であっても諦めずに努力する力、をつけていってもらいたいと思っています。
そのためには、少々の困難(この場合はダンナのダメ出し)にもくじけず、
「では、どうすれば良いのか」
を考える力をつけていくのが大事なのかな、と。

でも、そうやって、「問題を乗り越えていく力」というのはなかなかエネルギーがいるもので、そのためには、その原動力となる、「~したい」という強い思いがなくてはダメです。

子供であれば、遊びがその原動力となると思いますが、その遊びを通じて、「~するためにはどうすれば良いのか」という対応能力を、つけて行ってもらいたいなーと。
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読ませていただいて、
そうそう~うちの子たちのやる気とか自発性とか多少のことはめげずに問題を乗り越えていく力は、
小学生時代に毎日、毎日、
遊んで遊んで遊びつくしたあげく作られていったものだな~と思い当たりました。

どちらかというと、うちの子たちは、飽きっぽかったり、人間関係で、打たれ弱かったりする所があったのですが、
子ども同士わいわい群れてする遊びは自然に子どもをたくましくしてくれるな~と思います。

前にも書いたことがあるのですが、
娘が5、6年生、息子が2、3年生のとき、近所の子どもたちといっしょに、
息子を社長にして、そそそ会社という架空の会社を立ち上げていました。
娘と娘の友だちは、いつも息子をふざけてからかうことも多いのですが
、社長に祭り上げているあたり……
遊びを生み出す発想力に関しては息子のことを一目置いてたんでしょうね。
「この子の思いつくアイデアに乗ってたら、はずれがなく面白いはず……」と。

娘と娘の友だちは、いつも社長より一段上の会長職か何か……のような
立ち位置にいて、陰の支配者のようにも見えました。

この会社、子どもたちの思いつくままにどんどん事業を広げて、
(よく思いつくもの……と呆れるうちに……)
テレビゲーム製作部門、おもちゃ製作部門、販売部門、映画制作部門、販売部門、プレイパークの運営……
あげくの果てには、学校経営にまで手を出していました。

それで、近所の低学年を勧誘して、面接試験をし、社員研修までおこなっていました。
この試験とか、社員研修といったアイデアや内容は、ほとんど娘の友だちが考えていました。
「将来はシナリオライター?」と思うほど、おもしろおかしい文章やアイデアがつらつら出てくる子なんです。
二階で好き勝手に遊んでいるのですが、時々、聞いていると、
このそそそ会社の面接試験も、経営している学校の入学試験も、世間の価値観の逆さまなのです。

「トイレに行ったあとで手を洗いますか?」といった質問には「いいえ」と答えないと減点されて、試験に落とされたりするのです。
本気で試験に挑んでいた子が、泣きながら試験に落ちた~と私のところに訴えてきたこともありました。

時折、バーッと外に出て行っていなくなったな~と思うと、
バタバタ駆け戻ってきて、また遊びが再開するという繰り返し……でした。


子どもって、親が選ぶ「良いこと」だけでは育たないな……。

と子どもが大きくなるにつれて感じます。

子どもの気持ちを前向きでチャレンジャーにしてくれるのは、
失敗したってどうってことない、飽きたら次を考えれば済む~という
環境のゆるさだったりします。

「新しくこんなことしてみたい、自分の全力をこれに傾けてみたい」
と閃いたとき、一瞬の迷いも、大人への遠慮も、罪悪感もなく、
自分をその中にどっぷり投入できる……

それが子供だけでする自由な遊びのよさですよね。

思い通りにいかないことが多いこと、
頭をしっかり使わないとすぐ退屈すること、
きょうだいも、友だちも、
自分から働きかけて、一生懸命、説得するなり、ぶつかりあうなりしないと、
親や大人たちのように、簡単に折れてくれないこと……

とにかくジレンマを感じる場面に何度もぶつかるし、
考えてもみなかった事態に遭遇することもよくあります。

でも、それが「どうしてもこれがやりたい!」という気持ちに駆り立ててくれるし、退屈ついでの言い争いが、多少のことにくじけず
あきらめず どうすればいいのか考え続ける
挑戦し続ける姿勢を作ってくれるのです。

私は毎日の子どもの生活に、退屈や無駄やけんかや、
大人から見ると「無意味で非効率的」なことがたくさんあるといいな~
と感じています。
また、親の私が正しいと思う考えとは対極にあるものも
チラホラあるのがいいな~とも。

実際、子どもたちがかなり大きくなってみると、
私が価値をおいていなかったものが、子どもたちを鍛え成長させてくれていたことがよくわかります。

ふるまりさんの記事にもうひとつリンクさせていただいて↓
★「輪ゴムをひっかけてあそぼう」オモチャ

タロウくんが地団駄を踏んで、「これがしたいんだ~」「これじゃなきゃダメなんだ~」と訴えて、その熱意におされて、しぶしぶ
工作準備に手を貸す様子が描かれています。

これを読んで、そうそう~もし、最初から、
「お母さんはいつでもあなたの工作に手を貸しますよ、スタンバイしてますよ」
だったり、
「子どもに工作をしてほしいのは、本人よりお母さんかもしれない」って
状況だったり、
「工作教室で、きちっと材料が整っていて、今工作の時間ですよ」
だったりしたら、
それほど工作に熱が入るのか……
工作以外のことまで、貪欲にやりたいがんばりたいという気持ちが起こるのか、
疑問だな……と感じました。

こうしたところに、子どもをやる気にさせる、主体的にさせる
原動力が生まれる瞬間が潜んでいて
それは大人が「がんばって」作ろうとするとすごく難しいことだな
と感じるのです。

まず、本気で交渉すれば相手が動くという経験なり信頼感がベースにあって、

それでいて、まあまあ手ごわかったり、
思い通りいかなかったりして、
軽いジレンマや、

必死に、あの手この手でぶつかる時間があって……

つまり、時間に追われていないことが大事で、
その後、人と人との間で自分の思いが達成できたという満足感が残るという経験

そうした繰り返しのなかでこそ、
自分の知力や、技術力や、体力や、精神力の限界が把握できるし、
自分が何がやりたいのか、
内面から湧き上がってくるものを実感できるのですよね。

2歳くらいの子でも、
新しいおもちゃを渡しても見向きもしなかったりするのに、
お友だちが持っていると欲しくなる、
取り合うとさらに欲しくなって、
ものすごくやってみたくなる、
いつもならすぐに飽きてポイなのに、渡したくないからおもちゃに熱中するという瞬間がありますよね。

そうやって人と人との間でジレンマを抱きながら、自分の気持ちがワーっと湧いてくるから、
いろんなことに夢中になれるようになるのですよね。

もちろん勉強だって、

大人の期待に応える形ではなく、
また級とか賞とか、プレゼントとか関係ないところで

「自分自身の心が強く強く何かを欲した経験」がベースになって、
がんばれるようになるのだと感じます。

うちの子たちの小学生時代のことを思い返すと、
何が良かったのかって、
大人の価値観に真っ向から反抗して、好きなように無駄をやりつくして、
ひとつも「大人のため」が入っていない世界で
自分のしたいことをした~
やりたいことのエネルギーがいくらでも湧いてきたという
経験なのでしょうね。

そこで、すっきりとゼロの自分になって、

自分の人生にどんな計画を思い描こう、
この人生に自分の知力、技術、体力、精神力の全てを投入して
何をやってやろう!

って力が湧いてきたのでしょう。
そして、今度は、一歩、現実の世界にも
足を踏み入れて、その力を勉強なり、人との関係の構築なりに
使い出すのだと思います。
わが子や近所の子たちがしていた遊びについて
もう少しくわしく書かせてくださいね。

確かに、娘が5,6年生、息子が2,3年生というころの
わが子や近所の子たちが繰り広げる遊びを思い出すと
それぞれの個性が輝くような豊かでユニークな発展が見られました。

ビデオカメラを使って撮影していた映画は、本当の撮影現場のように
おもちゃの家やミニチュアの人形たちが配置され、
子どもたちが最近体験したプレイパークでの遊びや社会の様子がていねいに
再現され、きちんとシナリオもありましたから。

でも、この子たちの遊びが最初からこのように大人の目にもわかるような
意味を持っていたかたいうとそうではないのです。
娘が幼稚園、息子が赤ちゃん~という時代から、うちの子たちは、
自由気ままに友だちと群れて遊んでいましたが、
遊び方は生産性から程遠く見える、1年観察し続けたところで、
少しも変わっていないように見えるものばかりでした。

でもたっぷり退屈や無駄な時間があって、
さまざまな年齢層のたてのつながりがあって、
ついでに、あまり協力的とは言えないけれど、がんばって頼み込めば
自分たちに必要なものはたいてい用意してくれる親(私です)がいる状況だと、
遊びは日々進化していくようです。

また、かなり無理な願いでも、
自分たちで責任を持ってやり遂げる約束をすれば、目をつむって
やらしてくれるアバウトな親(これも私です)がいると、
遊びに本気さや夢や知恵がどんどん投入されることになるのでしょうね。

とにかく親は「がんばり過ぎない」姿勢が、大事と感じています。

私は習い事の送り迎えもやってなければ、子どもに毎日の学習習慣をつけようと
気を揉むこともなければ、子どもがちょっとしたトラブルに遭遇しても、たいして悩むこともありませんでしたから、
子育てでは、かなり楽をさせてもらってました。

ですから、しつこく頼まれたことくらいは、
「えーっ、めんどくさい」
「常識的考えて、それは無理でしょ。やめてよ」と思えるようなことでも
できるように努力したり、
「あきらかに無駄なもの」でも買ってあげたりしていました。無駄で価値がないように見えるというだけで、値段は安いものばかりですが。 

話をそれぞれの個性が輝き出す~という部分に戻すと、

そそそ社長(息子)が、
すごい野望を掲げて、毎日、部長の女の子(友だち)と、商品開発やら、社員とぶつかり合いながらいろんなおもちゃを作り出すやら、
販売やらで駈けずりまわる姿を尻目に、

娘と娘の友だちは、ふたりで、うだうだしゃべりながら、
会社の運営に口を挟んだり、試験官をやったり、自分たちが思いついた面白いことをやったりしてました。

自分たちが思いついた面白いこと……のひとつは、雑誌作りでした。
アメリカのオールドファッションの雰囲気に表紙をコラージュし、
お菓子の作り方や、娘の友だちの書いた小説やらを編集して、
それをコピーして何冊か作って、
販売していました。(おもちゃの通貨です)
この雑誌の目玉は、娘が思いついた
「年下の子たちの詩を集めて、それに娘と娘の友だちがイラストをつけたり、
絵本につくりなおしたりするボランティア」でした。

それと、お人形の周りに野球場とか、
花畑などの設定でいろいろ飾り付けて写真を撮り、
それをまとめて写真集を作ることもしていました。

また、この姉と姉の友だちの仕事は、そそそ会社の作り出すゲームで
実際遊んでみたあとで、辛口の批評を加えることでした。
「お前の作るゲームは、初心者向けちゅう発想がないんかぃ~!!」
「もうちょっと面白いゲーム作って出直してこい!」とか激が飛んでおりました~。

最初のうち、息子は、動くサッカーゲームや、
自分のオリジナルの人生ゲームやモノポリーを量産したかった模様で、1つ2つ年下の子たちにハッパをかけて工作させて、
どんどん働かせようとしていましたが、思うように働いてくれません。
そこで、姉たちのする社員研修に送り込んで、
ちゃんと仕事のできる社員を養成しようとしていました。

が、しまいには逃げ出されて、
わが家にその子からこんなファックスが届きました。
「ぼくも、しゃちょうになりたいから、どくりつします(たぶんお母さんに、独立って文句を考えてもらったんでしょうね)」
そんな苦労をしながらも、毎日、大作をたくさん生み出し、
旺盛な生産性を見せていた そそそ会社 は、途中から、テレビゲームの
ソフトの製作に取り掛かり、これはかなりの成功をおさめていました。

というのも、ダンボールをファミリーコンピュターのソフトのサイズに切り抜いたものに、好きなタイトルと絵を描いただけ(写し絵も多し…)の商品だったんですが、
すぐ作れる上、自分のオリジナリティーをアピールできるとあって、
子どもたちの間では大うけだったのです。

それで、日ごろは、批評役の姉たちまで夢中になって、
「ペット育成ゲーム」とか「ヨッシーアイランドの新作」とか「●●の秘宝」
「スポーツゲームシリーズ」とかを
部屋中ダンボールの札だらけになるほど作っていました。

その間、調べ物コンクールに応募した作品が
賞をいただき東京に呼んでいただいたり、
本当のお菓子会社のお客様相談センターに自分の考えた
アイデアを送ってお菓子の詰め合わせをいただいたりしたのですが、
うちの子たちは、そんなことはすぐに忘れてしまって……

とにかく自分たちのゴミくず生産工場みたいな遊びが楽しくって仕方がないようでした。
そして、10年近く経った今となると、無駄に見える時間ほど、
それぞれの子が自分の個性や才能を十二分に開花させて、切磋琢磨していたんだな~と思えるのですよ~
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うちの家族は関西人♪

2011-02-21 19:32:33 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
ここのところ硬い話が続いていたので、疲れた~という方もいらっしゃるでしょうから、
10年近く前の家族の記録を吉本新喜劇風に書き残した文があったので、
紹介しますね。
関西弁で、口が悪い家族ですが、どうぞお許しを……。
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<ある日曜日>

登場人物 父
     母
     娘  (12才)
     息子 (8才)

未来家 茶の間
    慌てて茶の間を横切ろうとした娘は、台の上のやかんをひっくり返して
    しまう。
    母と娘は、共謀して、証拠隠滅を図るべく、床を拭いている。

  娘 (小声で)お父さんったら、何かこぼしたら、すぐカッとなるねんで。

  母  (小声で)そら、水びたしになったら、誰だって怒るやろ。
     はよ、もう一枚バスタオル持っといで。

     拭き終わったところに息子が現われる。
   
  父  (二階から大きな声で)ソフトボールに持っていくお茶を用意しとい
      てな。

 母  (一階にいるものにしか聞こえない声で)
     冷たいのは無理ね。
     少女Aがひっくり返したところだもの。

  息子  少女Aって誰?

  母   未成年なので公表できません。

  息子  お姉ちゃんでしょ。

  娘   ブッブッブー。プライバシーの侵害だ。

  息子  ぼくの推理によると……うーん。
      少女A……少女エイ……少女エイガ(映画)?

  娘   いっみわかんねー。おやじなギャグ!
      じゃ、少女Bなら何なのさ。

  息子  (少し憤慨して)お茶ひっくり返したの誰なのさ。

  母   お母さんじゃないよ。お母さんはおばちゃんAだもの。容疑者は4
      人しかいないで。考えてみ。

  娘   私の推理に寄れば、二人が怪しい。
     まず、お父さん。犯人ってのは、第一発見者が大いに怪しいんだか 
     ら、2階から、お茶の話をするところが怪しいのよ。 
     それから★(弟)!
     あんたね。おやじなギャグが怪しすぎ。

  
     父が階段を下りてくる。

  父  もう行くで。水筒は?
 
  母  ひっくり返っちゃったのよ。冷たいのじゃないとダメなの?
     なら、買ってくるしかないわね。

   
     娘、息子、母がいきなりお腹を抱えて笑い出す。
     父はキョトンとしている。

未来家 茶の間
    ソフトボールから帰宅した息子が、母に話しかける。

 息子  お母さん、ぼくたち、得したね。

 母   なん?

 息子  だって、お茶をひっくり返すのって、悪いことでしょ。
     それに、お茶を用意するのだって、めんどくさいことだし。
     悪いこととめんどくさいことを足したら、
     面白いことが生まれたやんか。
     みんな笑ったやろ。

 母  うーん、一本取られた!

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うちの家族は全員、生まれも育ちも関西人ばかり。
毎日、お笑いネタに事欠きません。
時折り、(これもひとつのうちの子たちに対する教育的配慮から)低レベルないたずらも仕掛けます。↓

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まだわが子が小学校低学年だったころの話です。
もうすぐ4月という日、
私とダンナはちょっとした賭けをしていました。

「エイプリルフールの嘘で騙される気がしれない、絶対、自分は騙されない」と
ダンナが豪語するもので、

もしエイプリルフールに私がついた嘘で、ダンナが騙されたら、
「まいりました~」と私に謝って、しばらく「絶対」という言葉を使わないことという賭けです。

エイプリルフール当日、娘も息子も真剣でした。そして、心配そうでした。

「お父さんは、今日一日、お母さんが嘘をついてくると思ってるから、
ずっとそれを考えてて、引っかからないよ、きっと。」

私は、ちょうど、人がどのようにして騙されるのか
子どもたちに見せる良い機会だと思ったので、
「そりゃぁ、普通に、嘘っぽいことをしゃべったんじゃ騙されないわ。
でもね、人には、思いもかけない盲点ってものがあるの。
賭けはお母さんの勝ちよ。」と告げました。
「頭を使うのよ。頭を使えば、不可能なことなんてないわ」

娘も息子も、お母さんはどんなことを言って騙すんだろう?
騙されると思って身構えているお父さんを騙せるなんて、
信じられないといった表情で、私を見つめました。

エイイプリール当日、朝、目を覚ました瞬間から、
ダンナはオーバーなほど、私の言動を警戒していました。
ひとこと口を開くたびに、「エイプリルフールじゃないのか?」と疑っているようなオーバーなリアクションで、
「騙されるわけないのだろう」という減らず口も何度もたたいていました。

私は子どもたちを呼んで、小声で、
「お父さんは、お母さんが嘘つくと思って四六時中ピリピリしているわ。でもね、お母さんやあなたたち以外の誰かが、自分を騙そうとしているとは
考えていないはず。
それが盲点よ。
この人は騙すはずがない、嘘つくはずがないと、お父さんが信用していて気持ちが緩む相手に協力してもらうのよ。わかった?」

私がターゲットに選んだのは、家族ぐるみで親しくしているご近所さんで、
たびたび
田舎の野菜や手作りのおかずなどを届けてくださる方です。
あちらにも、わが子より少し年上の子供たちがいます。

ちょうどその年、
ウン○くんという下品なお菓子が流行っていて、息子も
ウン○くんキャンディーとか、ウン○くんチョコとか買い集めて
コレクションしていました。
私は日ごろそのお菓子をバカにしていましたが、
その日は、ダンナが自分が騙されたことを目の当たりにして
ギャフンとするには、これくらいインパクトがないと
騙された事実をうやむやにされてしまう気がしていました。
それで、
4個入りケーキが入るサイズのケーキの空き箱を用意し、
適当な重りを芯にして軽いねんどを使用して、
娘と息子といっしょに
巨大ウン○くんのオブジェを作り、箱のなかにおさめました。

そして、それをご近所さんのもとに持っていって、
事情を話して届けてもらうことにしました。

その日の午後、ダンナがくつろいでいるところに、
ご近所さんの小学生の娘さんが、機転を利かせて、ジュースまでつけて、
ケーキの箱を届けてくれました。
「お客さんから、余分にいただいたので、おすそわけです」
という言葉に、ダンナはすっかり騙されて
お礼を言って受け取っていました。

その後、私は、
ケーキの箱を開けて覗いてみせ、
「あ~おいしそう。イチゴのショートケーキがいい?
チョコレートにする?」とたずねました。
それから、ジュースをグラスに注いで、ケーキ用の皿やフォークを出して
セッティングしました。
それから、
「エイプリルフールで騙されたら、まいりましたって言うんだったわよね」と
念をおしました。
「無理無理!騙されるわけないやろ」と笑って答えるダンナの目の前に、
「エイプリルフール!!」と子どもたちと声をはもらせながら、
ケーキの箱を開いて、デーンと置きました。
しばらく狐につままれたような表情で目を白黒させ
言葉を失っているダンナ。
「わぁ~お父さんがエイプリルフールで騙された~。それ、大きなウン○くんだよ」と息子がはしゃいで飛び跳ねました。
それから数分後、
先ほどのご近所さんの娘さんが、本物のケーキを届けて
くださいました。
家族でおいしくいただきましたよ。
それから、その日一日は、ダンナは「絶対」と言いませんでした。
口癖なんですがね。

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