虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

軽度発達障害児をどう育てていけばよいでしょう?

2010-06-28 09:35:16 | 教育論 読者の方からのQ&A
『地頭力』が育つ幼児期 4
の記事に次のようなふたつのコメントをいただきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>現在は、軽度発達障害児の問題行動なんか  も、
 つぶさに大人に観察されています。
 特別な配慮が必要なので、
 それも大切だったりはするのです。
 でも、それが、かえって子どもの成長の足を
 引っ張っていないのでしょうか?

確かに過干渉は良くないのは判ります。
でもこの部分はよく判りません。
特別な配慮は必要。
でもそれがかえって成長の足を引っ張るとは?
では軽度発達障害児はどうすればいいのでしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ひかるママさんと同じく、そこで混乱しました。
愛着の記事以降、1才半からグレーと言われている息子(3才半)にどう関わればいいのか分からなくなっています。
「丁寧な関わり」が、かえって関わりすぎて、言葉のシャワーを浴びせすぎたのかなぁと。
弟(1才3ヶ月)は人見知りもするし、後追いもする。寝るときだってギューッと抱きしめながら寝るのが好きです。
でも、兄は正反対。1才半以前に知らない子にも抱き着いてました。今は、初対面の人にはヒーローに成り切りポーズを決め、戦いを挑みます。

どっちも多動傾向はあるけど、発達障がいか違うかは、まだ分からない。だけど、この先どう関わったらいいのかしらと悩んでしまいました。
ここに書かれたことが、全てのこどもに当てはまるとは思わないけれど、ヒントを頂けるなら頂きたいです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
軽度発達障害の診断を受けている子や疑いのある子を育てていると、
「ある診断名」の子向けの育て方のマニュアルがあるように
錯覚しがちです。
教師や支援者も、この診断名の子にはこの対応……とステレオタイプな接し方に終始することがあります。

けれど、たとえ発達障害があったとしても、やはり子どもはひとりひとり個性的で、それぞれ異なる道筋で成長しますし、
見守る部分は見守って、手をかし、
叱ったり、厳しい現実にぶつからせるときはぶつからせる……と、
その都度、引いたり押したり柔軟に対応していく必要があるように思います。

軽度発達障害の子についての情報は、
大人の急ぎすぎや、
即断して決め付ける態度に、
「待った」をかけて、よく考えて、
ていねいに子どもに接することをうながすためにあって、
「このように接しなさい」というひとつの答えをしるすものではないのでしょう。

私が、軽度発達障害児の問題行動が大人につぶさに観察されることが、
成長の足を引っ張る場合がある……と書いたのは、

今、大人になってバリバリ働いている男性の方々が、
「子どもの頃は、やどかりを足でふんではつぶしてた」とか、
年中、けんかばかりして怪我だらけだった」などと、子ども時代を振り返る言葉をよく聞くことに由来しています。

現代なら、発達障害児というレッテルを貼られ、そういう目で観察され、
問題行動を直すために周囲からさまざまな指導を受けるはずの行為を、
一昔前の子はけっこう平気でやっていて、
そのままきちんと大人になって働いているわけなのです。

もし、当時、そうした行動をしたから発達障害児だと、
決め付けられて、「普通の子ではない」という目で見られて育てられたり、
発達障害がある子だからと、過保護に育てたり、
過干渉に育てたりしていたとしたら、
責任感を持って働ける大人になれたのか疑問も残るのです。

発達障害のある子として、支援を受けつつ、
学校で適応していたとしても、
親も教師もそれだけで満足せずに、
将来、そのハンディーキャップを乗り越えて生きていくたくましさを
与えてあげる義務を忘れてはならないと
感じています。

ただだからといって、昔のように発達障害に関する情報に無知なままの
方がよかったのかというと、そんなことはなくて、
以前次のような記事でその問題を言葉にしたことがあります。
★発達障害児は多すぎる?  1
★発達障害児は多すぎる?  2
★大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 1
★大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 2
★大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 3


また、次のような記事を書いたこともあります。
--------------------------------------------------------------------

<「生き辛さ」を抱えて生きるということ>

大人になって、自分は発達障害ではないかと疑いを持ちました……とおっしゃる方々からコメントをいただくことがあります。
そうした方のコメントは、いつもとても深い洞察を含んでいます。

発達障害児を育てる親御さんのコメントとは少し異なる
「生き辛さ」を抱えて生きるということを自分で経験してきた方の
生の言葉です。

発達障がいを持った子を育てていると、
どうやって普通に近づこうか、困った癖をやめさせようか、
ひとつでも何かできることを増やそうか、自立への道を歩ませようか
とそればかりで頭がいっぱいになってしまうかもしれません。

少しでも生きやすくなるためにそうした支援は必要ではあるけれど、

実際、「生き辛さ」を抱えて生きている当の本人にすれば、
何が何だかわからない
安心できない世界から、毎時間毎分、
ダメな自分、できない自分、
足りない自分、変わらなくてはならない自分を
つきつけられて、

自分を信じる
自分を受容する

という人として生きていく基盤となるような部分が
いつもぐらついた状態で、
生きていることが周囲に対し申し訳ないような思いまで抱きながら暮らしているのが現状です。

運動オンチの人がオリンピック選手を養成する体操クラブに入れられれば、
たとえ、バカにされたり、期待されたりしなかったとしても、
周囲のようにできない自分に自信を失い、
苦しみを感じて生きるようになりますよね。
発達障がいを持って生きるということは、支援を受けていても、優しくされていても、
挫折感とコンプレックスと疎外感と誤解される悲しみと絶えず向き合いながら
それを受容し、呑み込んでは、
一歩、一歩、前に進んでいく作業です。
障害特性ゆえに苦しい、感情がコントロールできないという事実とは別に、
現実がむごすぎて、
苦しくて、感情がコントロールできなくなるのです。

それでも一生懸命、生きている子がいて、
そうした苦しい受容を途方もないほど繰り返しながら、
大人になって、一生懸命生きている方がいます。

私たちは、自分が持っている「ふつう」という固定観念と比べて、
経済的に自立しているかとか、
社会的に認められているかとか、
人間関係が上手にこなせているか、
とかで人を比べたり、評価したり、人を社会のお荷物とみなしたりします。

でも、もし、人類というひとつのまとまりのなかで、
何割かの人が、
必ず 自分たちが過去に汚した環境の影響をかぶって
障害を持って生まれる役を引き受けなくてはならなかったり、
誰かは必ず、進化しようとする遺伝子の影響で、
ある部分だけ特化した
生きずらい生を引き受けなければならないとしたら、

人類が自分も含んで確率的に持っているもののひとつを
引き受けてくれた人に対し、
あれこれ比べたり評価するというのはどうなのでしょう?

そうした生をバカにする人や、変わるように急かす人が、
なら次は自分がそうした苦しい生を引き受けて、
最後まで生き抜きます~と簡単に言えるのでしょうか?

こうした生き辛い生には、苦しみとひきかえに、
ひとつのすてきなプレゼントが用意されています。

ジョージア州に、成功者と億万長者を20年間調べ続けて、
自分もその仲間入りをした方がこんなことを
おっしゃっています。

『人とちがうことは利益をもたらす』
トマス・J・スタンリー

人が褒めてくれるような長所は、意外に、利益をあまりもたらさないのだそうです。なぜなら誰もがあこがれる見栄えの良いところには、
人が群がって競争が激しくなるからです。

『戦って勝つのは下策。戦わずに勝つのが最上』と孫子も言っています。

本田宗一郎は、

『私は世間でいう゛悪い子゛に期待している。なぜかといえば、そういう子どもこそ ゛個性の芽生え゛を持つ頼もしい可能性に満ちた本当の意味での
゛いい子゛なのである』

『失敗もせずに問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、
十回失敗した人をとる。
同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性となり人生の飛躍の土台となる』

と語っています。
生き辛さは、このように、きちんと生き抜けば、それだけで価値があるものなのです。
---------------------------------------------------------------------


子育ては、発達障害がある子はもちろんですが、発達障害がない子を育てていたって、
いくつになっても迷いの連続です。

私のように社会に出る寸前の
子どもと呼んでよいのかわからないような年齢の子を育ててたって、
迷いから開放されることはないのです。
門限を決めれば……いったい、いくつになるまで、子どもを縛るつもり?友だちは一人暮らしをしているというのに……と言いかえされる始末ですから。
そこで、迷っても、簡単に周囲に流されるわけにもいかず、
自立しようとする子どもの声をきちんと聞かないわけにもいかず、
だれか子育ての専門家に答えをたずねるわけにもいかないのです。

自分の子と自分の目の前の問題にしっかり向き合って、
自分で決断をくだすしかありません。

発達障害を持った子を育てる場合も、
さまざまな専門家の意見を参考にしつつも、
やはり、最終決定権は親自身が握っているのです。
失敗しつつ、
少しずついい感じに子どもとの関係ができていけばいいんだと思います。

そうだからといって、子育ては苦しいばかりじゃありません。発達障害のある子もそうでない子も、自己肯定感を育み、「自分」で生きている実感を味合わせていけば、
たいていの問題は、自分で悩んで、自分で解決して、
勝手にひとまわり大きく成長していくものです。

子育ての迷いをふっきるため書いた詩です。↓よかったら読んでくださいね。
ある日の娘 ある日の息子

にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る
コメント (7)   この記事についてブログを書く
« 教育の場で『地頭力』を育む... | トップ | 番外 ホームセンターでお買... »
最近の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (あん)
2010-06-28 12:44:24
いつもありがとうございます。
子ども達へだけでなく人間全体への愛情や包容力が、どの記事を読んでもその根底から伝わってきて、いつも温かい気持ちになります。

>今、大人になってバリバリ働いている男性の方々が、
「子どもの頃は、やどかりを足でふんではつぶしてた」とか、
年中、けんかばかりして怪我だらけだった」などと、子ども時代を振り返る言葉をよく聞くことに由来しています。

私も以前から不思議に感じていました。

私の子どもは軽度発達障害傾向がありますが、やはり蟻を踏みつぶして反応を見たりします。
他者に対する共感性の薄さによるものだと思うのですが、昔の人のそうした類の話を読んで、この一点だけを取って、不安に思う事はないのだと自分を納得させていました。
ところが、男の子が大人になる過程で誰もが通る道なのかと思っていましたが、私の父はそういう事はしなかった、と言うのです。
そんなかわいそうなことはしない、と言っていました。

上で紹介された、バリバリ働いている男性という方々が、世間でいう有能な社会人であることは疑いはないでしょうが、人間としての温かみという点では、いかがなのでしょうか。
もちろん、誰もが成長していく過程で、情緒的な成熟にともない、どこかの時点で自分の力で軌道修正していくのでしょう。

現代は、子どもの数が少ないので、一挙手一投足が目につき、そうした行為を目にした以上は、やはり見過ごすことができなくて、生き物に対する思いやりを諭さずにはいられません。
多分、昔の大人は生活に忙しく、目にすることもなかったのでしょうね。

自分で考えて行動して、その結果を引き受けて、自分を省みて行動を修正する、そんな大人になってほしいと思います。
主体的に取り組めるような様々な体験を与えてあげたいと思っています。
他者に対する愛着、関心、思いやりといったものを身につけさせるにいは、どういう体験が必要なのでしょうか。
Unknown (caritas)
2010-06-28 12:44:51
私が以前感じていたそのままの文章をなおみ先生が代弁してくださっているようでなんだか嬉しかったです。

私はおそらく軽度のADHDだったのだと思います。
三歳を過ぎてもなかなかしゃべることができなかった。保育園から脱走したりすることもあった。
そして娘もその傾向を持っている気がします。

ただ、自分がそうだったのが救いと言いますか、娘の気持ちがわかるんです。
納得していないことに関して従うのは嫌だと。

そして昔私が小さかった時代はそんな態度をとる自分は強制的に従う方向へと押しやられ、成長とともに、世間に従うべきだという認識を飲み込むこともできる年齢になっていき、必要以上に教師の指示に従う変な意味で「縮こまった性格」になっていた気がします。

現代だとそんな子も丁寧に見てくれる学校、また幼稚園が多いみたいですね。ただ、異質な性質を持っていると判断されることも多々。

私にはそれがいいことなのか悪いことなのか測りかねていました。
というかどちらかというと悪いことだと感じていました。なので今回のこの記事に少し救われた気がします。

発達障害のグレーゾーンじゃない!と意固地に認めたくないとかそういうことではなく、そういう考えがあると認識した上で、丁寧に子供に接していけば決して悪影響は出ないんじゃないかなと。そのうえであえて判断を急いで仰ぐ必要もないのではないかな。と。

最近では不安の多い子育てになってしまう環境なので、「判断」を急いでいる人が多い気がします。もうちょっとおおらかな時代になればいいのに。。。という感じ方をしている人も多いんだと感じてなんだか嬉しかったです(^^)
まとまりませんが。 (まりも)
2010-06-28 16:42:09
コメントに対しての記事をありがとうございます。
診断や成長具合を急ぐのは、私のこどもを見る眼差しの物差しが短いからだなぁと実感せざるをえません。

後は、他の親の目が気になるからですかね。
愛着のコメント見てたら、「そういう親いますね」なんて言葉にグサッときたりします。私もそう見えてるのかなって。

だけど、どこかで「この子の特性だからあなたの育て方は間違ってないのよ。」なんて言葉を医師から貰いたいと思ったり。「障がい」を盾に自分を励ましたいと思ったりしてしまいます。

息子にレッテルを貼ってるのは私かも知れませんね。

ヤドカリを踏み潰すエピソード、笑っちゃいました。不謹慎でしょうかね?
息子もだんご虫やありを潰してます。ちなみに私も子供のころはなめくじに塩をかけたり、ありの通り道に水溜まりを作ってみたり、踏み潰したり。
そんなの誰もが通る道だと思ってました。だから何も言わなかったけど違うのかなぁ?

長い目で息子を見ていきたいなぁ、と思います。どこまで口出ししないかが私の課題な気がします。
子どもは残酷です (そよ風)
2010-06-28 23:08:41
主人も、小学生の頃は近所で子どもが集まっては蛙に爆竹を詰め込んで…(以下略
 
しかし今は「とてもそんなことは出来ない」と苦笑しています。

ところで、
鳥取県立総合療育センターによると、

障害児は、普通の子ども達のニーズを「満たすのに特別な困難」を持った「普通の子ども」と言い表すことができる。

だそうです。
Unknown (そらまめ)
2010-06-29 01:00:56
特別な配慮が足を引っ張っている・・・

なんとなくわかるような。
診断はないけれど、たぶん軽度発達障害の息子、幼稚園では加配がついています。去年の加配の先生は「ゆっくりだけど自分のしたい遊びをできてるし、お友達ともそれなりに遊んでますよ、大丈夫ですよ」と言われてそんなに心配もしていなかったのですが、今年の先生はぴったりくっついて「今日は折り紙ができなかった、とか、みんなでやる体操についていけずお腹が痛いと泣き出した、とか。毎日、連絡ノートに書いてくれるんです、もちろん先生が応援してできるようにがんばってくれているわけだし、様子を教えてくれるのはありがたいのですけれど、そんなにできてないのか~とこちらは心配です、本人がどう思っているかはよくわからないのですけど。その心配がすぎて、持病の主治医に相談したところ、発達外来を受診することになってしまいました。大学病院の発達外来!!!たいそうな事になってしまったな~と思いながらも、いちど相談してみようと思っています。
Unknown (ひかるママ)
2010-06-29 11:30:55
コメントのお返事ありがとうございます。 

あの記事で少し混乱してしまい、今までやってきた事は息子にとって良くなかったのかと
とても不安になってしまったのです。

でもこれで良かったんだと納得しました。
他人の意見に耳を傾ける事も大事ですが
最終的には自分の勘を信じ、子どもを信じて
親子で成長していきたいです。


Unknown (ぼくてんのママ)
2010-06-29 22:35:44
いつも興味深く愛情深い記事をありがとうございます。
昔障がいを持った子を「福子」と呼んだと義母に聞きました。家族に結束を、福をもたらす存在だと。
我が家の福子、われわれ人類の負の遺産を生まれながらにして背負わされたぼくてんのほっぺに頬をぴったりつけて心の声を聞き逃さないように、時には少し離れて進むべく道を確認しながら、二人三脚で歩いていきたいと思います。この距離感をよく忘れてしまう母ですが。。
福子自ら幸福な人生を歩めるようにどうしたらいいか 親が模索しているつもりでも、結局本人が見つけるしかないのでしょうね。最上の応援団になれるように母も頑張って成長したいです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

教育論 読者の方からのQ&A」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事