◆くんのお母さんの接し方は、厳しすぎることもなく、甘すぎることもなく、過干渉でもなく、放任でもなく、
早期教育的ではないけれど、知能がしっかり伸びるように関わっていて、
◆くんの月齢にあった子どもらしさを大切にしている理想的なものです。
ですから、本当のところは、これまで通り、自分の子育てを信じて
自信を持って日々を重ねていけばよいのだと思います。
でも、子育てって、普遍的な正しさに近づいていくものではなく、
同じ方法が子どもの個性次第、発達の時期次第で良くも悪くもなるものですから、
誰にしたって、その都度、微調整は必要なはずです。
「わたしはどのように思うか」という個人的な感性でアドバイスさせていただくと、
ここはちょっとこうした方がいいんじゃないかな、という部分がいくつかありました。
それは、遊びやしつけのちょっとしたやりとりについてです。
また、◆くんの性質に添った知性や才能の伸ばし方についてです。
◆くんは、しょっちゅう、「あっ、そうだ!」とひらめくタイプで、
直観が優れている子のようです。
このタイプの子は、おちゃめで頭の回転が速いところがある一方で、
次から次へと新しいおもちゃを出したがったり、片付けを渋ったりすることろがあります。
◆くんがあれもこれもとおもちゃに手を出すので、「◆くん、ひとつお片付け。どれか使わないものを片付けてちょうだい」
とわたしが言うと、知らんふりしていました。
「◆くん、ひとつお片付け」と再度言うと、「ちょっと待って、これをしてから」とやりかけている
遊びを見せます。「それなら、それをやり終えたら、必ずお片付けよ」と言っている先から、
「あっ、いいこと思いついた」と次のおもちゃを取りに行きかけますから、
「ダメ、ダメ。まず、ひとつお片付け」ときっぱり言うと、一瞬、白目をむいて、「いやだ」とちょっと反抗しかけて、
すぐさま、ニコッと笑顔に戻って、片付けをはじめました。
◆くんとわたしがお互いの気持ち(片付けしたくないと片付けなさい)をぶつけあうシーンで、
◆くんのお母さんは◆くんに言葉で言い聞かせて、わたしに従わせようとしました。
◆くんはとても素直で聞き分けがいいところがあるので、言葉で言いくるめられてしまうと、
自分の気持ちはどこへやら、
少し静かになって、シュンとしていたかと思うと、「わかった」という風に
片付けはじめます。
それのどこがまずいのか、と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、わたしは「大人側のこうしなさい」を押し付けるときには、
理路整然とした正しさで動かしてしまうのではなくて、
子どもに不満があるなら、まず不満を表現する間を与えてあげたいし、
「その不満、ちゃんと受け止めたよ。そうだよね。そういう気持ちだったんだね」と
こちらがその気持ちを、ちゃんと受け止めたよ、という事実を示してあげたいと考えています。
その上で、こちらが子どもに求めている責任をはっきり言葉にします。
いかにスムーズに子どもに言うことをきかせていくか、という
最短ルートでしつけていく方法は、
自分の意志と判断力を持っている子どもに対する態度として
どうなのだろう、と感じているからです。
子どもは自分の気持ちをしっかり主張して、ネガティブな思いもきちんと受け止めてもらっていると、
自分の意志で、自分で誇りを持てるような
行動を選ぶようになっていくものです。
◆くんの話から少しそれるのですが……。
発達のいい育てやすい子を育てるというのは、
なかなか難しい一面があります。
子どもに多少の負荷がかかっても大丈夫ですから、親御さんがちょっと問題のある接し方をしていようと、
子どもは問題行動を起こすわけではなく、
むしろ周囲からは褒められなどするわけですから、
まずい部分を修正するどころか、
子どもによくない働きかけを「もっと、もっと」とエスカレートさせてしまうこともあります。
競争が過熱している習い事の場では、そうした親子の姿をよく見かけます。
また、トントン拍子に、停滞することなく発達していくということは、
次々と新しい体験を上滑りに進んで行くことでもあって、
たとえ他の子より進度は良くても、
子どもにその活動自体への愛着や、
「こんな風になりたい」という意志や夢、
うまくいかない時のジレンマをどう乗り越えたらいいかといった耐性や知恵が
育ちにくいという欠点もあります。
それは豊かな時代に暮らしているわたしたちが、飢餓感を味わうのが
難しいのと似ています。
だから発達は遅い方がいいというのではなく、
ゆっくりさんにはゆっくりさんの課題があるように、
発育のいい子には発育のいい子への課題がある、
そう考えて子育てするのが大事なのではないでしょうか。
聞き分けが良かったり、適応力のあったりする子のなかには、
大人の期待を察するのが上手で、
常に、「自分がどうしたいのか」よりも、
「大人が自分に何を期待しているのか」
「その場の空気が、自分にどう振舞うように求めているか」
を優先させがちな子がいます。
また、大人に言葉でしつけられてしまうために、
教わったように振舞う習慣がついて、
自分の要求や感情が自分でもわからなくなっていたり、
自分の願望と親御さんの願望の境界線がぼやけて、
自我の育ちが危うくなっている子もいます。
それのどこに問題があるのか、
と ピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。
また、問題があるならあるで、どんな対処をすればいいのか
見当がつかないという方もいらっしゃることでしょう。
ひとつヒントとなるような話を紹介しますね。
『ことばに探る 心の不思議』の本のなかで汐見稔幸先生が、
「ほめことばの多様は子どもの自信を奪う」
というタイトルで次のようなことを書いておられます。
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ほめことばは、それ(けなすこと)よりは肯定的自己イメージづくりに貢献する度合が
強いのですが、たとえば「アラ、ケンちゃんよくできたわね、スゴイ、スゴイ!」などというような
ほめことばが続きますと、
子どもは親はいつもこのレベルのことをできるように要求しているのだ、
それができないとぼくはよくない子なのだ、と思い込んでしまう可能性があります。
その結果、人の評価に過敏な、自分を自分で信頼できないタイプに育つ可能性が
あります。
つまり、ほめことばは、子どもの行為を認めるという(横並び)レベルでなら良いのですが、
必要以上に(縦関係に立って評価を下すという立場で)多用しますと、
子どもは大人の評価に過敏で依存的な性格になりやすいということです。
その意味で、保育者が間断なく子どもにほめことばを注いでいるのは、子どもの心の成長に
必ずしも寄与していないのだと自覚することがたいせつだと思うのです。
『ことばに探る 心の不思議』 今井和子 汐見稔幸 村田道子 編 ひとなる書房
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大人にすると、「じょうずね」とほめたところで、
子どもが、「お母さんは、こういうことができるように望んでいるんだな、こういうことができない自分は悪い子なんだな」
ということまで感じ取っているとは思っていないことでしょう。
でも、どこでも大人の満足がいくような行動をとれる子というのは、
そういう大人が言葉にしていない部分まで察して
行動に移すことができる子とも言えるのです。
「うちの子はそこまで良い子じゃないから大丈夫」という
表面的な目に見える部分で判断するのではなく、
そうした子どもという存在のあり様を素直に心にとどめておくことが
必要な気がしています。
もう1回続きます。