虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 3

2011-09-21 23:05:51 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

現代っ子 と 広汎性発達障がいの子 と 論理的に考える力 2

の記事への補足がまだだったので、順番に書かせていただきますね。

 

<間主観的にわかるということ>

「間主観的にわかる」という言葉は、鯨岡峻先生の著書で目にした言葉です。

特別な「わかる」ための技法といったものではなく

私たちが普段、幼い子に接するときに、意識しないで自然とおこなっている

感じ方のようなものです。

鯨岡峻先生の言葉を借りると、

「観察者に相手の思いがまさに直接的に伝わってくるように、

あるいは観察者であるわが身に沁み込んでくる形でわかる」というわかり方です。

「間主体的にわかる」ときには、身体と身体が共鳴し、通底するように

間身体的に通じ合うことが下地となっているそうです。

たとえば、子どもに離乳食を食べさせるとき、母親の方が無意識に先取りして「あーん」と

口を開いてしまうことってありますよね。

子どもが苦いものを食べて、ウッとなったとき、

見ているだけのこちらの口の中まで苦い味が広がってウッとなるときや、

子どもががんばって鉄棒にぶらさがっているとき、

こちらまで力んで、まるで自分がぶらさがっている当事者であるような身体感覚を

覚えたことは経験は誰にもあることと思います。

(「間主観的にわかる」という言葉について、よりくわしく知りたい方は、

『関係発達論の構築』『ひとがひとをわかるということ』『子どもは育てられて育つ』などの

鯨岡峻先生の著書によりくわしく解説してあります)

 

私はこの「間主体的にわかる」という言葉を知った時、

それまで感じていた「間主観的にわからない」という状態に対する

「私の理解のなさ」から

解放されることになりました。

 

乳幼児への接し方にぎこちなさがある親御さんから、

「子どもにどのように接するといいのかわからない」という相談を受けるとき、

たいていが、子どもに良い接し方をしよう、子どもをより賢くしよう、たくさん写真を撮ろう、

ひとり遊びをしてくれないから家事ができない、発達が気になる等々……という

親御さん側の強い構え方や心の声に邪魔されて

「間主体的にわかる」という感じ方が全くといっていいほどできなくなっている

ことが多いのです。

 

以前は、曖昧模糊としたイメージや感覚で受け取っていたものに

「間主体的にわかる」という言葉が与えられたことで、

より鮮明に問題点が見えるようになり、困った状態から抜け出す手立ても打ちやすくなりました。

 

「間主体的にわかる」という状態は、

緊張感とか焦りとか情報をできるだけ手放して、

リラックスして、子どもと過ごす今を楽しんでいると、自然にそのような

わかり方になってくるものだからです。

 

ただ、相手が広汎性発達障がいを持っている子だった場合は、

「間主体的にわかる」には、

少し工夫がいるかもしれません。

でも、もし「間主体的にわかる」という身体と身体が共鳴し、通底するような関わり方が

広汎性発達障がいを持っている子と自然にできるようになってきたら、

いっしょに活動する楽しみが倍増することと思います。

私も、自分の側を調整することで、

広汎性発達障がいの子と心と心で直接通じ合うような

時間が持てるようになって、

「この子は自分からこんなに笑いかけてくるのか」

「この子はこんなに会話を続けることができるのか」

「この子はこんなに創造力があって積極的なのか」と、

その子の意外な面をたくさん発見して驚くことがたくさんあったのです。

 

自分の側を調節するという方法については、

次の記事で具体的に説明させていただきますね。


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