虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

息子と雑談するうちに、自分がうまく言葉にできてなかった部分に気づいた話 

2015-11-10 20:39:36 | 日々思うこと 雑感

 

(年長のAくんの作品)

 

夕食後、わたしがはまっている韓国ドラマの『ミセン』を見ないか

息子を誘ったら、(娘はすでにいっしょに見たのでわたしは3度目)、

 

息子は「うん……いいけど……いろいろ済ませてから……。

課題もだけど、ちょっと本も読みたくて」と答えてから、

「ショーペンハイアーの『読書について』がよくってさ、あれを読むうちに、

毎日、ちょっとした時間でも本を読むことにしたんだ」とつけ加えました。

 

「『読書について』って、そんなによかった?」

「すごくいいよ。読書をしようと思うと、読書する時間が必要だとか、

まとまったページ数を読まなくては……って

構えちゃって、忙しい時期にはつい敬遠しちゃうよね。

でも、『読書のすすめ』じゃ、読書で重要なのはページ数をこなすことじゃなくて、

読書を頭の中で考えるひきがねにすることだって説いててさ。

それで、読書するからにはそれなりに読まないと……っていう縛りをなくしてみると、

本を読むのが前より楽しくなってさ」

このところ息子の趣味は、

読書、プログラミング、数学、ピアノ、電子工作といったものですが、

中高生までは、テレビゲームと漫画が大好きで、

暇さえあればゲームするか古本屋で漫画の立ち読みをするかしていました。

息子いわく、「中学生くらいの時は、(テレビ)ゲームみたいに面白いものはないし、

ゲームさえあれば他に何もいらない……なんて思っていた時期があるのに、

年齢が上がってくると、何に対して面白いって感じるか変わってくるもんだな。

刹那的な楽しさじゃ、満足できなくなってくる。

今、大学の友だちの間で流行っているゲームなんて、全然やりたいとは思わないよ。

ああいうのは、もう十分やったしね。

大学に入ってからは、数学やプログラミングの問題を解いたり、読書したりしている時、

一番、ワクワクするし、心から満足できる」とのこと。

 

息子 「読書の役割って、知識を増やしていくというより、

むしろ、未確定なまま自分の内外に分散している知識を減らしていくというか、

カオスな現象を収束していくところにあるんだってこの頃よく思うよ。

ニーチェが、人は遠近法で物事を認識しているって言っててさ。

世界は認識されるものだけど、それ自体に意味はないし、別の解釈も可能で、

もともと無数の意味を持っているもんだって。

そう考えると、読書は見る位置と見方をひとつに決めることで、

いったん、見る範囲を狭めることで、

あるテーマについて思考しやすい状態を作ってくれるんだと思う。

そう考えるようになって、本を開いて数行読むか、場合によっては、

タイトルに目を通すだけでも、

そのテーマについて考えていくいいきっかけになるってわかってさ」

 

わたし 「そうよね。お母さんもこれまで漠然と違和感を覚えながら、

何に対して、どうしてスッキリしない思いを抱いているのか

わからずにいたんだけど、★(息子)のその話を聞きかじっただけで、

自分ともやもやの対象の輪郭がつかめてきたもの。

 

お母さんは、

子どもに直接、何かの作り方を教えるのは少しの迷いもないのに、

親から、『子どもと工作したいので、○○の作り方を教えてください』と言われると、

相手のニーズにあった答えを伝えられていない気がして、くすぶってたのよ。

ただ何となく違和感があるというだけで、理由ははっきりしなかったし、

深く考えてもみなかった。

というのも、工作については、何をたずねられても、十分把握しているし、

体験もし考えてもきたという思いがあって、情報量って点で心に余裕があったから。

 

でも、今、気づいたんだけど、違和感の原因は、

わたしの子ども観というか、わたしが知っている幼い子たちの姿にあったのよ。

 

知識を得るためにカオスな状態から情報を狭めて、収束していこうとする……

子どもって、そういう存在だと思うのよ。

 

発達に凹凸のある子たちは、その選択の仕方に偏りを感じたり、

そこで無意味に足踏みしているようにも見えるけど、

どの子も、特に幼い子たちは、

知識を確かなものにしようとして、あるひとつの何かにスポットライトを当てるなり

閉じ込められるなりしている。

モンテッソーリは敏感期という言葉を使って、その一部を見えやすいものにしたけど、

その捉えだけでは表現できないものもたくさんあるの。

 

たいていの人は子どもが今、何にスポットライトを当てているか、

何に閉じ込められているかを気づかないまま、すごく表層的で

自分なりの常識や先入観に染まった考えで対応しようとしているのよね。

子どもが福引でガラガラを回すのを喜んでいたから、親がガラガラの作り方を

調べて、子どもといっしょに作ろうとしても、

大人が思うガラガラの形を再現しても、たいてい子どもの熱心さを引き出せないものよ。

子どもが福引のガラガラに夢中になっていた場合、

ある子はガラガラと内部のものがぶつかりあって

ダイナミックに音を立てる時の手ごたえを楽しんでいて、

ある子はさまざまな色の玉が○等という玉以上の価値を生み出す概念に惹かれているし、

ある子はガラガラの形に、ある子は玉がひとつずつ出てくる仕組みと

その仕組みを作り出す難しさに、ある子は当て物がある空間の活気を味わっているから。

それに、子ども自身が、ある時期は、物を細部にいたるまで観察することが大事で、

ある時期は物をカテゴリーで分けることが、ある時期は理由を推測することが

重要なものよ。

ある時期は物と物のつながりや意味に気づくことが大事だったり、

ある時期は何かを実行する際の手順をイメージすることが大事だったりもする。

子どもの場合、それに収束しているから、大事であることイコール、

他の大事なもろもろを無視したり排除したりすることもよくあるのよ。

子どもといっしょに何かする際は、それを把握しないまま、

ただ子どもに新しい何かをつけ加えようとして関わっても、

大人側の空回りに終わりがちなの。

まぁ、この話は★の言おうとしていたことから、脱線しすぎていて、

単にお母さんの心の中のもやもやが★の言葉をきっかけに少し明るくなったって

ことだけど……

自分が親御さんたちに何を伝えれていなかったのかわかったわ。ありがとう」

 

 

 


「考えること」「変わる」ことへの抵抗を刷り込む 家庭と学校 

2015-11-10 15:26:45 | 教育論 読者の方からのQ&A
 
東京から2、3ヶ月に1度、通ってくれている小1の★くんのレッスン。
虹色教室に通いだしたのは、家庭で幼児教育を受けるうち
「勉強いや~きらい~!」となってしまったことがきっかけでした。
虹色教室での理科実験や物作りが気にいって、
それには一生懸命取り組むものの、ワークを出すとイヤイヤモード。

1年生に入学してから、「学校の勉強は簡単だよ!できる!
家での勉強は習っていないからしない」と言うようになりました。
そう言い切られてしまうと、親御さんもとまどって、
無理に先取り学習をさせる必要もないし、
学校でできているからいいのかな……
でも何だか気にかかることもあるなぁ……と★くんの姿に、
心が揺れていました。

今回、虹色教室に★くんが来た際、私は★くんにちょうど良いレベルの
問題をいくつか出題しました。
すると、少しひねってあるとはいえ、2,3分考えればできる問題を
「できない~!学校で習っていない」と言い張るのです。

★くんは幼稚園時に測ったIQも高く、
好きなこととなれば高い能力を発揮できる子です。
でも、学校に行き出して、
「めんどうなこと、がまんがいること、かんがえることは
どれも、1分だってしたくない~いつも楽しい楽なことだけしていたい」
という態度をさらに強め、「習っていない」を言い分にして
考えることを強く拒絶するようになっていました。

ここで、
「どうして学校で習っていないことをやらせる必要なんてあるの?」
と疑問を抱いた方がいるかもしれません。

虹色教室でしているのは、学校の先取りでも補習でもありません。

シンプルに、その子の能力に応じて、
「考える」力を伸ばすということをしています。

そして、長い文章であっても、それをイメージに変換して、
途中で放り出さずに扱えるように指導しているのです。

その難易度の目安は、その子の能力で、精神を集中させて、
意欲的に取り組めばできるレベル。
難しそうでも、ていねいに読んで、2,3分考えれば自力で解ける
レベルです。

それが、学校に通い出して、勉強って、考えてするものじゃなくて、
答えさえ出して、先生にOKもらえばいいんだ~
と思い始めた子は、とにかく「考えない」姿勢にこだわるケースが
よくあります。
そのほとんどは、誤った幼児教育の影響で、向上することも、
学ぶことも、大人を喜ばせるため、大人から承認を得る目的で存在する
という考えが、身に染み付いているからのようです。

それにしても、どうしてそれほど「考える」ことが苦痛なのかと
観察していると、そうした子たちの多くは、
「学ぶこと」=「大人の評価を受けること」がセットになっていて、
間違うかもしれない自分にちょうどよいレベルの問題は、

間違えて悪い評価を受けて辛い思いをするリスクがあるから……

という理由で避けるのです。

目的が評価や褒められることにあると、
自分の能力より、1~2学年下のレベルに固執したり、
得意な計算や漢字以外を解きたがらなかったり、
幼児の場合、弟や妹に出された問題ばかりしたがる子がいます。

この日、★くんが、「習ってないからしない、イヤだ~」と
抵抗していた問題に、
「落ち着いて、1,2分は考えること」と言い渡すと、
サッと解けていました……。

考えれば1分かからないものを、「考える」行為そのものに
強い抵抗があるので、できていなかっただけなのです。
付き添いのお父さんには、「たくさん学習させる必要はなく、
週に1~2問でいいですから、2,3分は考えるレベルの問題を
させたほうがいいですよ。避ければ避けるほど、
考えることが苦手になりますから」とお伝えしました。

計算ドリルや漢字練習のような考える必要のないものは、
パッパとするので、「考える」ことを避ける性質があっても
外からは気づかれない小学生は大勢います。

夕べは、以前私が教えていた子で、今は小中学生の家庭教師をしている
女の子が事務の手伝いに来てくれていました。
その子に、この話を伝えたところ、
「4年でも6年でも、小学校で、考える問題をすることは一度も
ないですよ。たの算(たのしい算数)も、
四角で抜いたところに覚えた言葉を埋めるばかりだから。
あと、簡単な計算。
学校で、考える経験をすることなんて、ないない~」という
返事が返ってきました。

「親の不安を煽ると、学校に苦情がくるから、
テストはいつも100点取れるようにできてるし……」とのこと。

今、小学校では、6年生まで、通知表もテストも満点近かった中学生の
家庭教師をしていて、分数も少数も少しもわかっておらず、
中学の勉強が成り立たない現実に困惑しているそうです。
少しもわかっていなくて、解けなくても、
良い点数が取れるようになっていて、錯覚で、
親を安心させる小学校のシステムってどうなのでしょう……?


数日前に子どもさんのレッスンに見えた私立小の教師をしている方も、
3行くらいの文になると、読んで解くことができない小学生の姿に
とまどっておられました。
入学当初は、背丈を越えるプリントをこなして、
入学を果たした子たちなのだそうです。
入学時は、頭の回転がとてもよかった子たちが、
2,3行の文章題を読み取ることができないって、
なぜなのでしょう(一方で、とてもできる子もいるそうです)?

少し話題が脱線するのですが、
教育に関わる仕事をしておられる方から、こんなコメントをいただきました。
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…人を評価するという形があまりに日本の社会に浸透していて…子どもたちと関わる中で、この形が子どもたちを苦しめているのを感じています。
小学生の高学年になると、大人から評価され続けてきたので、子どもたちは自分が(誰かの)評価することは、当たり前だと感じています。また、子どもは~であるべき。という答えを求められ続けてきた子どもたちは、当然、大人や友達にも、親は~であるべき。先生は~であるべき。友達は~であるべき。と、答えを求め、周りにいるすべてのものを評価してしまいます。でも、完璧な人なんて、どこにもいないんですよね。友達関係でも自分の思い描いた態度をとってもらえないと、この友達はダメだ!嫌な子なんだ!と、考えたり、また、私が悪いから、嫌われてるから…と悩んだり、この形に絡めとられ、苦しんで孤独を感じてしまう子どもたちは、私のまわりにも多くいます。
…人と人が集う場にリラックスできる空気が流れるようにみんなで努力していかなければ…まさに今、日本は変えていかなければならない時でしょうね。
… 悩んだり苦しんだりしなくても「大丈夫よ。がんばっているね。」というまなざしを受け取って人の力で癒されていくような環境でなくてはならない…子育てだけでなく子どもから高齢者まで、今、日本で問題になっているすべてのことは、根っこの部分は同じなのだと感じています。
私もまずは自分から一歩踏み出していこうと思います。

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子どもたちに会うと、問題の根源はそこにあるんですよ~。
評価にさらされるうち、
素直な気持ちを失って、何もかも、誰もかれも辛らつに評価して
生きる癖がついてしまうのです。

勉強って成長することだから、「変わる」ことです。
今の自分を卒業して、「変える」ことです。

でも、「変わる」=自分がダメな人間だという評価を受けること

というイメージが刷り込まれていて、頑なに変化を嫌う子、拒む子が多いのです。
また、「考える」ことを怖がります。
「考える」ことは、間違うリスクがあるからです。

知っていることを、自慢するだけなら安心ですよね。

どうして、こんなに大人が躍起になって子どもに勉強させているのに、
昔の子より、子どもたちの学力が落ちてきているのでしょう?
これほど塾に行く子が増えたなら、
ゆとり教育の影響なんて受けるわけないのに、
中学3年間を終えて、A~Zのつづりが書けないなんて高校生がいるのは
なぜなんでしょう?

私たちは幼児期の6年間、子どもを評価する目で見続けて、
「変化」への恐れ、
「考える」ことへの不安感を刷り込んでいないでしょうか?

小学校の6年間に、子どもの成績やテストに夢中になって、
「考える」力を破壊していないでしょうか?

大人が自分を「変える」ことへの抵抗を手放し、子どもの教育に関して、
錯覚に甘んじず、自分の目できちんと確かめて、
自分の頭でしっかり考える必要を感じています。

計算が得意になるゲーム 『テンズ・コネクション』

2015-11-10 14:15:53 | 虹色教室の教具 おもちゃ

テンズ・コネクションは、三角形のピースの辺と辺をひっつけて、

10、20、30の数字を作って遊ぶゲームです。

よくできたゲームではありますが、

いささかお勉強っぽさが抜けないところやルールが単調で、

より難しいものにチャレンジしようという気持ちが起こりにくいところが、残念!

 

そこで、ゲームを面白くするために、難易度の高いピースをはめれた人は

賞金や小物が得られるように、ちょっとした工夫を加えて遊んでいます。

 

トランプ占いの要領で、計算しながらひとり遊びもできますから、

オリジナルのひとり遊びのルールも考えると楽しいです。

 

(例)10枚のピースをすべてつなぐことができたら、○○など。

 

10、20、30を作っていく遊びに飽きたら、

「21」と「26」をつなぐことができたら得点二倍といった

新たなルールを加えるのもいいです。

 

『テンズ・コネクション』のような計算ゲームは、即座に計算する力がつくだけでなく、

すばやく目を走らせて、多くの情報を把握するのも上手になってきます。

そこで、簡単な計算ができる子たちには、

折り紙でこのゲームを作って帰ってもらうようにしています。

 

<作り方>折り紙に丸いもの(おもちゃの皿など)で円を描き、

何枚か重ねて切り抜きます。円を2度折って中心点を見つけます。

↑の写真のように、円周の一部が中心点に接するように折ります。

 

次に、折った部分の一方と中心点に接するように折ります。

 

最後に、下の写真のように三角形になるように折って、折った円周の一部を

もう一方の円周の一部に差しこんで、整えます。

1~29までの数を自由に描きこんだら、できあがり。

 

 

遊び中。

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<おまけ>

円は本当に魅力的な形です。

円錐を自在に作れるようになると、工作の世界が広がります。